幕間 第34.5話 佐竹蓮は如何にして髪を切るのか?(1)
夏休みが始まって数日経った。いつもの如く絵画教室のある渋谷からの帰り道、近場の駅から家までを歩いている時のこと。事件は起こったのだ。
「!……」
ぼんやり道のボールライトを眺めながら歩いていたら、ふと前方から見知った人の影が見えたので慌てて電柱に姿を隠した。が――
「あーっ!! クソガキ!!」
遅かったか……。
俺は諦めて電柱の影から姿を見せた。
「お久しぶりです、西原さん。仕事帰りですか?」
東海道先生のバンドメンバーで、関西弁を嗜むタイプのお嬢様――西原さんは、音も無く俺の横に立つと、いきなり右腕で首をロックしてきた。
「おいコラ。なに惚けてんねん。今あたしから隠れよとしたやろ」
「しっ……してないっ。してないですって!」
「アホ抜かせ。電柱に隠れるとこ、こっちはしっかり見とる。ハハハハ!」
西原さんは俺をロックしたままのしのしと歩き出した。首が突っ張ったままの俺は懸命に歩行スピードを西原さんに合わせる。
西原さんは一見スリムなヴィジュアル系の男性という感じの見てくれなので、こんなところを知り合いに見られたら――他人に見られてもカツアゲにあっている可哀想な子、と思われそうだ。
忘れていたわけじゃ無いが、西原さんの本職は美容師である。そして、職場はなんと桜庭高校の正門が面している通りを北に数分という近場なのだった。
そもそも桜庭高校と自宅が近い俺は、当然西原さんの職場とも近場にあるわけで、すなわち西原さんと遭遇する確率は高いということになる。今までそこまで深刻に考えてはいなかったが、向こうの方から獲物を見つけたような絡み方をしてくるとは思っていなかった。
「恵から聞いとるで。お前、もう夏休み入ったんやってな。どうせ暇やろ。ちょっと付き合えや」
「まあ今日はもう暇ですけど……東海道先生と会ったんですか?」
「うちらは毎日のように顔合わせとるわ。昨日なんて水着買うのに付き合わされてん。恵のやつ、今年の夏はエラい気の入り様やねんで」
「へえ……」
この時の俺は素直に東海道先生にもそういう相手がいるのかあ、とささくれた気分になっていた。後になって、俺たちに水着を自慢するため、という悲しい真相を知ることになったのだが。
「あいつがあそこまで年下好きだったとは思わんかったけどなあ」
「年下?」
そういう相手に、西原さんは心当たりがあるのだろうか。何にせよ、結構意外な情報だ。若干幼児体型寄りの東海道先生といえど、年齢相応の付き合いを嗜んでいるイメージがある。
「……でも言われてみれば子供が好きーとかは昔から言うとったのよ。教職を志望するまでとは思わんかったけど、あいつ結構厄介な性癖を持っとるんちゃうかな……」
西原さんは結構本当に心配そうに呻く。
なんだか話が生々しい方向になりつつある。放っておいたらまずいことを知らされそうな気がして、慌てて西原さんの脇の下で暴れた。が、暴れれば暴れるほど顎を締め付けるような、より苦しむ締め方をしてくるから参ってしまう。
ふと、西原さんはもしかしたら弟がいるのではないかと思った。年下の男の扱いに容赦を感じないのだ。
「東海道先生の好みの話なんて知りませんよっ。取り敢えず、苦しいんで離して……」
「何言うてんねん。離したらお前逃げるやろ。今晩は付き合って貰わな気済まんで」
「に、逃げるわけないじゃないですか。西原さんにそんな失礼なこと、しないです」
猜疑心満載の眼差しを向けてくる。俺は一生懸命純朴な男子高校生然とした表情を作った。
「おう」
西原さんの二の腕から力が抜けた。
俺は全力で逃げ出した。
捕まった。
普通に、劇的な逃走劇があるわけでもなく二、三歩走った時点で腕を掴まれた。
……なるほど?
考えてもみれば、明らかに運動神経が良い西原さんに見つかった時点でまともに逃げ出すことができるわけないじゃないか。
「……ははは! ガッ――」
取り敢えず笑って誤魔化そうとしたら、拳骨が俺の脳天に突き刺さる。そのまま、西原さんは蹲った俺の首を再びロックしてきた。
「はい。茶番はもうええから、さっさと足動かさんかい」
そういえば、さっきから西原さんの足取りに迷いが無い。徒に居酒屋を探しているというわけではなく、どこか目的地に向かっているようだ。
段々不安になってきた。
「ていうか、今どこに向かってるんですか」
「なんや今更。あたしの職場に決まっとるやろ?」
「え。……何で?」
俺が聞くと、却って西原さんの方が「え。……」という顔をする。
「今度会ったら、あたしが髪切るゆうたやんけ! もう忘れとんのかお前!」
「そういえばそんなこと言ってましたけど、――あれ本気だったのかよ」
「本気も本気よっ。覚悟しいやっ」
「だから、それ今から髪切る人が言う台詞じゃないでしょ!」
というか、俺マジでこんなセンス全開みたいな人に髪切られるのかよ。いつもは適当な理容室で済ませているというのに。
ある日突然髪を切られるという状況に慣れている人間ってのはそういないもんだ。猛烈な不安を抱えながらシャカシャカ足を動かしている内に、いつの間にか周りの景色が見慣れたものに変わっていた。
美容室だ。
照明は落ちているが、改めて見ると中々洒落た店構えで、まあ俺みたいな人間は入らないだろうな、という感じの美容室だ。カットする席がたった三台という辺りは如何にも強気な体制に見える。表にはカットの値段すら書いてないし。
世の中には美容室をインスタグラムの評判で決める人種もいると聞いたことがあるけど、まさにそのタイプだよな。
「あの、一応言っておきますけど、俺金持ってないです」
西原さんは腰のポーチから鍵を取り出しながら言った。
「お前、この間も金無い金無い言うとったな。そんなに貧乏なんか」
「普通ですけど、バイトしてない男子高校生なんてこんなもんですよ」
「安心せえ。カットモデルやから。金は取らんけどどうなっても知らんで」
おいおい。
扉を開いて、ロックしたままの俺を店内に突っ込む。これでは洒落ではなくマジで拉致されたようなもんだけど、ようやく解放して貰えた。
「カットモデルって、見習い美容師さんの練習台でしたっけ」首を擦りながら、そういえば何かのドラマで新人の美容師が主人公の髪を無茶苦茶にしてしまうシーンがあったなと、間が悪いところで思い返していた。「……西原さんって別に見習いじゃないですよね」
「キャリア的にはな。でも、あたしはほら。専門学校通てたわけとちゃうやろ。せやからちょくちょく抜けてるとこあんのよ。例えばうちの店なんかは女性客がメインやろ? 男子高校生だとか、男のカットは経験が少ないねん」
自分のキャリアを語る西原さんの声は少し悲観的な調子になっていた。一方で彼女の体は照明を付けたり、俺の首にシートを巻いたり手際良くカットの準備を進めているので仕事の身に付きようと言っていることがちぐはぐな気がする。
「あたしがこの美容室に勤め続けるんならええかも知れんけど、実際この先どうなるかなんて誰にも分からんで。転職した先で男の髪を切り慣れてないとなったら困るやろ。男子高校生の知り合いなんてそうそう出来るもんやないし、何よりお前は近所に住んどる。せやったらこれ、利用しない手はないで!」
そう言いながら、鏡の前に首に襟巻きを付けて座る俺と、色々小物をポーチに下げる西原さんというよくある美容師と客の構図になっていた。
「……あの、俺、佐竹蓮です」
唐突な自己紹介に、西原さんは目をぱちくりさせる。
「なんや急に」
「西原さん、俺の名前忘れてるでしょ。さっきから俺のこと『お前』って呼んでるし」
鏡の中の西原さんがふっと目をそらした。
「お、憶えとるよお……」
そう言う西原さんの声色が、如何にも悪いことをしたのがバレた子供みたいで笑ってしまった。
「まあいいですけど。接客業で人の名前忘れるのってどうかなぁ」
「はいはい。蓮! 蓮な。……で、髪どないする?」
「えーと、じゃあ適当に短くしてください」
俺は場当たり的にいつもの注文をした。が、西原さんはお気に召さないようで、ブスッとした顔で文句を付けてきた。
「あほ。んな適当な注文で練習になるかい」
美容師に注文して文句を言われる、という経験が初めてのことだったので、俺はとても戸惑ってしまう。
「そ、そんなこと言われても。あの、俺いっつもそんな感じで切ってもらってるし……」
「これやから男子高校生はあかんわ。芸能人だと誰みたいになりたいとか、そういうの言って貰わなこっちが困るやろ」
「ええと……今テレビ出てる芸能人って誰ですか?」
「……。お前、マジか!?」




