盧植の遺言
反董卓連合軍で勝者を一人選べと言われたら、それは袁術になるだろう。
袁術の傘下に入った孫堅が、董卓軍を何度も打ち破り、董卓が焼き払った洛陽に入城して皇帝達の陵墓を修復した。
孫堅の声望は高まったが、所詮彼は長沙の太守、しかも董卓戦の前には荊州刺史や南陽太守を殺害していて
「あいつは本当に朝廷の忠臣なのか?」
という疑いを向けられてもいた。
そこへ来ると後将軍である袁術は、名門の出な事もあり
「孫堅という暴れ者を御して、洛陽を取り返した名士」
という評判になった。
言わば、戦わずに名声だけを得たのである。
それに引き換え、袁紹を盟主とした集団は悲惨であった。
まず反董卓の檄文を作成した東郡太守の橋瑁と、兗州刺史の劉岱が反目し、劉岱が橋瑁を殺す。
河内太守の王匡は、董卓軍に撃破された後、董卓から和睦の使者として送られて来た自分の娘婿の胡毋班を、盟主・袁紹の指示で殺す。
この胡毋班の遺族は曹操と手を結び、王匡を殺害した。
そして盟主である袁紹も、冀州牧の韓馥から国を奪った。
韓馥は元々袁氏に仕えた役人であった。
しかし董卓に従い、当初は渤海太守に追認された袁紹の見張り役をしていた。
反董卓連合軍が結成された時にこれに参加したが、袁紹からしたら袁氏に仕えていた者が、一時は董卓に味方して自分を監視していた事が気に入らない。
そして袁紹軍の補給を韓馥が行っていた為、
「だったら韓馥に代わって自分が冀州牧になれば、万事解決する」
と考えたのだった。
これは野心というよりも「袁氏に仕える役人が自分と同じ立場に居る事がおかしい、正しい立ち位置に戻そう」という考えだったのかもしれない。
その袁紹に軍師として招待されたのが、洛陽を脱して幽州に引き篭もっていた盧植である。
そんな盧植の弟子から、青州の劉備・劉亮、そして劉徳然に
「先生が病気に罹られた。
見舞いに来て欲しい」
という書状が届く。
「先生の為だ。
行かねばなるまい!」
劉徳然は旅支度を始めている。
「州牧閣下は如何されますか?」
劉亮は公式の場では閣下呼び、他人に対しては「劉青州」と呼ぶようにしている。
劉備は頭を振り
「州牧の任にある者が、職務をなげうって見舞い等、先生の方が喜ぶまい。
師の危急に駆け付けぬ不忠ではあるが、駆け付けても師の教えに背く事になる。
劉亮、貴殿が私の名代として行ってくれぬか」
「分かりました。
早速出立致します」
「盧植先生には私の分もよろしく言っておいて欲しい」
「ははー」
このようなやり取りで劉亮は劉備の代理としても冀州に赴く。
なおこの表向きのやり取りの裏で
(いつも市場とか農家とかで遊んでいて、どこが職務だ?)
と内心でツッコミを入れていた訳だが。
まあ、冀州に行きたくない理由は分かる。
董卓亡き後、袁術は一大勢力になって来た。
自身は荊州北部の南陽郡を領している程度だが、徐州牧の陶謙、幽州北平太守の公孫瓚、荊州長沙太守の孫堅と同盟関係になっていた。
公孫瓚と劉備は盟友である為、袁術勢力圏は幽州・青州・徐州・揚州・荊州に及ぶ。
それに対し袁紹も勢力拡大を図っていた。
自身の冀州と、新たに兗州刺史に就任した曹操。
曹操は、兗州牧の劉岱が黄巾軍に敗死した為、その後任として推挙された。
袁紹は自分と近い人間を太守や州牧に任じさせている。
従兄弟の一人で、反董卓連合軍にも参加した袁遺を揚州刺史に推挙したが、これが袁術と戦って不利な状況であった。
豫州刺史には袁紹が周昂、袁術が孫堅を推挙した為、両者が戦いとなっている。
袁紹は荊州刺史の劉表とも手を組んだ。
袁紹は荊州を巡っても袁術及び孫堅と争いを繰り返している。
こんな状態だから、態度で示してはいないが、立ち位置的に袁術側の劉備が、袁紹勢力圏に居る盧植に会いに行き辛かったりする。
更に厄介なのが、劉虞の扱いである。
袁紹は董卓に擁立された現皇帝を認めない事にした。
そこで皇族の一人・幽州牧の劉虞を皇帝として担ぎ出す。
だが劉虞にその気は無い。
袁術は劉虞が長安の朝廷に逆らう気が無い事を逆手に取って、その軍勢を自分の物にしようとしていた。
「皇帝になる野心が無いなら、兵権を手放すべきだ。
自分に兵力を提供しろ」
といった所である。
この袁紹と袁術両方に利用されようとしている劉虞だが、同じ幽州の公孫瓚と極めて仲が悪い。
対北方民族で宥和政策をする劉虞と、強硬論の公孫瓚は、お互いに相手の邪魔をし合う関係であった。
そして、繰り返しになるが劉備は公孫瓚とは極めて仲が良い。
袁紹との関係は、劉虞問題という面でも微妙なものであった。
そんな中、袁紹派と見られているのが劉亮である。
洛陽では袁紹のサロンに出入りしていた。
幽州では劉虞の下で働いていた。
そして董卓の魔の手から、袁隗を始めとする袁氏を僅かだが救出している。
袁紹も袁術も、表向きには頭が上がらないのだ。
こうして劉亮と、扱いは軽いがやはり袁紹派の劉徳然が冀州を訪問する。
「おお、董卓の暴政を諫めて三度入牢された気骨の士・劉亮殿ではないですか!」
盧植の弟子たちが褒め称える。
(七回に比べたら、三回って間違いは誤差の範囲かな?)
劉亮も大分麻痺して来た。
二、三挨拶をして盧植の病床に通される。
大分瘦せ衰えている。
盧植は大酒飲みとしても有名であったから、もしかしたら胃癌を患ったのかもしれない。
ただ意識も思考も明瞭なようで、弟子によって支えられ、身を起こした盧植は
「よく参られた。
余り教えていないが、それでも師として誇らしい」
と咳込みながら話す。
「儂は、其方が見た目に拘らない妻女を得た事も評価しておる。
よくぞ醜女を選んだものぞ」
なんて言って来る。
確かに美人とは言い難い巨大な妻だが、結構愛着は湧いている。
だから、あからさまに醜女とか言われると腹が立つ。
「儂は美醜に拘らん。
だから醜いというのは、そういう様を語っているだけだ。
其方が怒りを覚える必要はない。
其方を褒めているのだから泰然としていよ」
盧植はそう話す。
(前の人生でもいたよな、正論を吐いて相手を不快にさせるロジハラ野郎が。
確かに人間見た目じゃないさ。
でも、堂々と「お前の嫁はブスだ、それは悪口でなく現実を表現しているだけで、蔑む意図ではない」と言われ、不快にならない事はないだろ。
こういう所が、後漢の「気骨の士」ってのが、外戚とか宦官に歯が立たなかった所以だろうな)
と、師への敬意とは切り離してそう思う。
劉備や曹操、董卓は内心はともかく、「君の妻は良い女だ」と言って来た。
……あの人妻好きの小男の場合は、本心だったかもしれんが。
そういう腹芸が出来ない、言い方を変えれば器が小さい。
だから皇帝をおだてて、同じ利を求める者を仲間に引き込む宦官たちや、気前の良さや相手を取り込む度量で勢力拡大した外戚に、肝心な時に負けていたのではないか。
まあ、その話は内にしまって、盧植の話を聞く。
「儂は袁冀州に軍師として招かれた。
それは、儂の思いに最も近いのが彼だからである。
其方は董卓の政治をどう思った?」
「先生の前だから有体に話します。
やり方は兎も角、彼が邪悪だったからあのようになったとは思えません。
彼は彼なりの信念があった。
しかしそれが皆に受け容れられなかった。
やり方が拙いのは確かに有りましたが、何より『高祖の世・文景の治への回帰』等誰も望んでいないのですから」
そう答えると、盧植は目をカッと見開く。
「そうか、董卓は『高祖の世・文景の治への回帰』を目論んでおったか。
それは儂も思いつかなかった。
まあ儂も、あの男がただの邪な者とは思っておらん。
だが生まれの低さ、辺境で過ごした事により、我々士大夫とは異なる思考を持ったと見ている。
あの男の独りよがりな考えに基づく改革等、誰も望まん。
それを分からんから、良き物を認めない周囲に対し、董卓は暴走したものと儂は見ておる」
その後、盧植が咳込み軽く血を吐いた為、薬湯を飲む時間を休憩に充てる。
話は続く。
「人々が求めておるのは、光武帝以降の漢の正しき在り様だ。
人々は儒を学び、礼節を覚え、官は清貧で、朝廷は徳を以って政治の基礎と為す。
そのような時代が有ったかと言われたら、無かったかもしれない。
だからこそ、我々儒者はそれを追い求めた。
儂は天子の座を臣下があれこれ言うのは間違っておる、今でもそう考えている。
しかし、ここに至っては董卓に擁立され、遠く長安におわす天子様ではなく、幽州牧(劉虞)殿を天子に立てて洛陽に置き、その下で正しき秩序を作るという考えが、より良きものと言わざるを得ない。
弘農王殿下が生きておられたら、復位させるのが最良であったのだがな」
「それが袁紹殿の考え……」
「やはり四世三公の家柄……儒の世、士大夫の世を大事に考えている。
彼は漢の正しい在り方を作る為なら、天子を代える事も厭わないと思っている。
本来儂はそのような考えは糾弾しただろう。
じゃが儂も死期が近い。
ここは折れてしまった。
儂の願いは、新しい世を作る事ではない。
君臣皆が穏やかに暮らせる世に戻す事だ。
それには慣れ親しんだ、宦官の跋扈する前の漢こそ望ましい。
良いか?
人々は大きく変わる事を望んでいないのだ。
ちょっとだけ良い世になり、それを繰り返していく事が望ましい」
(相当に保守派な考えだが、これはこれで一理はある。
確かに農業をしている者に、明日から経済自由化するから自分で取引もしろ、販路も作れ、作物も売れる物にしろとか言っても、多くの人は戸惑うだけだ。
言っている事は確かに正論だろう。
しかし……)
今は本当に「後漢のより良き世に戻す」のが正解か、その疑問は残る。
董卓の「前漢回帰」だって筋は通っているが、やった結果で不正解だったかもしれない。
ただ、儒学にその身を捧げて来た盧植が、こういう考えに沿って行動するのは理解出来る。
「先生、何故そのような考えを、この私なんかに話すのですか?
もっと高弟はたくさんいらっしゃるでしょう?」
盧植はやれやれと苦笑いする。
「其方はまだ、自分の置かれておる立場を分かっておらんようじゃな。
青州牧の劉玄徳、北平太守の公孫伯珪と兄弟弟子で親しい関係にある。
袁冀州(袁紹)、劉豫州(劉虞)、更には曹兗州(曹操)や劉荊州(劉表)とも親しいと聞いた。
それだけの人脈を持つ其方なら、彼等が誤った道に進もうとした時に、それを正せよう。
それに其方は『董卓に二度処罰された男』なのじゃからな」
流石に盧植は正しい情報を持っていた。
が、そこは問題じゃない。
劉亮にはどうしても「買い被り過ぎ」と思わざるを得ない。
ともあれ、劉亮は盧植から「正しい後漢の世に導け」という遺言を託されてしまった。
劉亮の中の人は思う
(盧植の言っている事が正しいとは限らない。
心に留めるだけにしておこう。
第一、自分には無理だ)
盧植の遺言となる言葉は、今はまだそんな扱いであった。
この先の事は、まだ分からない。
おまけ:
本筋から逸脱するので省略してますが、袁紹による冀州乗っ取りは名士たちによって行われています。
反董卓の頃までは綺麗事を言っていた名士たちも、連合崩壊の頃からなりふり構わなくなって来てます。




