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転生したら劉備の弟だった  作者: ほうこうおんち
第五章:袁と袁の時代
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袁紹と公孫瓚と劉兄弟

 公孫瓚は劉虞と極めて仲が悪い。

 かつて劉虞の方から和解を求めたが、公孫瓚は会おうともしなかった。

 その後、公孫瓚は董卓によって北平太守に任じられる。

 公孫瓚は反董卓連合軍に加わった冀州牧の韓馥を背後から攻撃する。

 これに怯えた韓馥は袁紹を頼り、やがて袁紹に冀州を乗っ取られてしまう。


 一方、袁術は劉虞の子・劉和を人質に取って劉虞の兵を奪おうとしていた。

 公孫瓚は袁術と手を組み、同じように劉虞から兵力を奪おうとする。

 こうして反劉虞から同盟関係となった袁術の為に派遣した弟・公孫越とその兵力が、豫州において袁紹軍とぶつかり、公孫越は敗死する。


 袁紹と公孫瓚は、劉虞を擁立か排除か、冀州領有争い、公孫越の仇、そして袁紹・袁術対立という四つの要素で対立を深めていた。




 劉亮が冀州に滞在している為、袁紹の仲間は彼を招待して関係を深めようとした。

 なにせ、袁紹の伯父である袁隗を董卓の魔の手から救った恩もある。

 また、公孫瓚派である劉備を取り込む為に、まず弟からという思惑もあったのだろう。

 遺言こそ託されたが、まだ盧植は死んでいない。

 それなのに見舞いの場にさえ、袁紹陣営からの招待の使者がやって来る始末である。


 そんな中、ついに袁紹と公孫瓚との対立が激化する。

 袁紹は、公孫瓚の従弟の公孫範を、かつて自分が太守に任じられた渤海太守にする。

 これで和睦を図ったのだが、公孫範はただ冀州の兵力を奪う事しかしない。

 そして公孫瓚は自分の派閥の厳綱を冀州刺史に、単経を兗州刺史に任命し、

「袁紹は畏れ多くも劉虞を皇帝に立てようという、不逞な企みをしている」

 と長安の朝廷に奏上したのであった。

 この時の冀州牧は袁紹、兗州牧は袁紹の友人・曹操である為、これは袁紹の権威を全否定しているに等しい。

 そして董卓によって立てられた劉協(皇帝とは認めていない為)の朝廷に対する奏上。

 最早公孫瓚と折り合う余地無し。

 袁紹はついに公孫瓚との対決を決める。


 そして公孫瓚が動くと、ほぼ考え無しの条件反射的に劉備が動き出した。

(ちょっとは深く考えてくれよ……)

 と劉亮は頭が痛い。

 自分が袁紹の領内に居るのに、劉備が敵対行動を取ったら、捕縛されてしまうだろうに。

 だが劉備は、その辺ただの馬鹿ではない。

 即応兵力を動員して公孫瓚に合流するよう動くも、故郷の涿郡涿県に入るとそこで動きを止めてしまった。

 公孫瓚からすれば、後方を守ってくれるように見えるし、袁紹に対しては

「単なる里帰りですんで」

 という言い訳が出来る。

 そして袁紹に使者を出し

「我が弟と従兄弟に帰郷するよう伝えて欲しい」

 と言って来た。


 劉備はまだ切り崩す余地がある、袁紹陣営はそう考えたようだ。

 実際、劉亮に同行して盧植を見舞った劉徳然は

「州牧殿を説得する!

 きっと青州を袁紹殿の味方につけてみせる」

 と幕僚たちに熱弁していた。

 劉徳然は洛陽で袁紹から大切に扱って貰い、完全な袁紹派になっているのだ。

(まあ、青州の実務を取り仕切っている徳然が強く説得すれば、劉備も無碍には出来ないだろう。

 いや、劉備はやる時はやる。

 単に袁紹に味方しろなんて言は、同門で仲が良い公孫瓚を助けるという「大義」の前に役立たない)

 劉亮は、この戦いから劉備を退かせたいとだけ考えていた。

 もう袁紹と公孫瓚は、戦うしか無い所まで来てしまった。

 そしてこの戦いは、袁紹が勝つだろう。

 下手に前世で見た歴史よりも大兵力を持ってしまった劉備は、深入りして傷を深める危険性がある。

 大体、公孫瓚は負ける運命にある人物だ。

 今までは良かったが、今後も長く付き合うにはちょっと問題が有るだろう。

 そして、それを言ったら袁紹も同様だ。

 いずれ敗北する。

 という訳で、公孫瓚・袁紹両方から手を引きたいのが本音だが、ここで劉備の「劉亮の中の人の前世の歴史」とは違う立場な事が立ちはだかる。

 劉備の一族は健在だ。

 劉亮がそうしてしまった。

 結果、劉備は根無し草ではなく、幽州に拠点を持つ軍閥と化した。

 軍閥化には、自分が提案した流民の屯田兵化や、婚姻関係を結んだ烏桓兵の加入も関わっている。

 要は、自分のせいで劉備が幽州・青州から出て行けなくなったのだ。

 この幽州・青州に留まる限り、公孫瓚、袁紹、そして劉虞との関係から逃れられない。


 どうにか劉備を中立な立場にしたい。

 しかし劉備は、学問としての儒学は大嫌いな割りに「友は大切に」「親には孝行」「師には忠実に」という儒学的価値観は大事にしているのだ。

 何の縁も無い袁紹の為に、友人である公孫瓚を助けない理由が無い。

 もっと野心塗れならば、友を裏切って日和見のような事も出来るだろう。

 しかし劉備は「天下取りに名乗りを」という漠然とした野心は有るが、その為には何をすべきかという指針を全く持っていないし、大志の前に友情とか信義とかで行動が揺らぐのである。

 それが「平時のポンコツ」に繋がっている。

 やるべき事が見えている内は有能なのだが、一旦それを見失うと途端に駄目人間と化す。

 そこは、政治の道筋を見失った時に暴虐な事をした董卓と似ているかもしれない。

 そして何より厄介なのが、そういう劉備を

「あいつは大器だから、小なる事で役に立たなくても、大なる事で有能ならそれで良い」

 と甘やかす人間が周囲に居過ぎる事なのだ。

 関羽にしても張飛にしても、恐らく新加入の太史慈にしても

「友情の為に戦う、実に立派だ!

 それでこそ劉将軍だ!」

 と、寧ろ褒め称えて推進してしまう。

 友情という大義を上回る大義で納得させない限り、劉備陣営はそれに振り回される危険性が高い。


(軍師が必要だ。

 軍事的な参謀とか、政治的な補佐官ではない。

 方針を示し、そこに導く軍師が……)

 劉亮はそう思い始めている。


 彼の前世の歴史であったとされる、天下の名軍師との出会い。

 あの人、後に歴史書を残した人物の評では

「臨機応変の駆け引きは得意じゃない、政治は公明正大で清潔」

 というもので、その分野ではもっと上の者が居ただろう。

 彼が重要だったのは、方針の無かった劉備にそれを示せた事である。

 天下を取る為の道筋を示し、実行可能なものから着実にこなしていく。

 軍事面では歴戦の傭兵隊長、そして勇猛な武将を何人も抱えていた劉備に、作戦面での軍師はそれ程必要ではなかった。

 必要だったのは、天下への水先案内人だったのだ。


 なお、劉亮は盧植に「お前がそうなるんだ」と言われている事を、スコーンと頭から追い出している。

 自己評価が低い彼は、自分にそんな事が出来る筈が無いと思っているのだ。

 また、劉備に軍師を認めさせるのも面倒である。

 基本的に彼は、口だけの儒者や、宦官派に近い強欲な者は嫌いなのだ。

 どっかの人妻好き小男のように「才能さえあれば、盗嫂受金の徒でも構わない」とはいかない。

(あによめ)を盗み、金を受ける」とは前漢建国の功労者・陳平の故事である。

 劉備は侠客のようなアウトローは大好きなのだが、賄賂とか人倫に反する行為は嫌いなのだ。

 策謀を巡らす謀略家は同類と見ている。

 困った事に、関羽・張飛・太史慈も同類である。

(この同じようなタイプで固まってしまう劉備陣営の悪い癖を、どうにかしないと。

 そして、優れた軍師を招きたい)


 だが軍師招聘以前に、まずは目の前の課題をクリアしたい。

 劉備を袁紹・公孫瓚抗争から足抜けさせないと。

 そう思っている劉亮に、丁度良いきっかけが出来る。

 盧植が死亡したのだ。

(師匠の死を利用するとは、俺も随分と罰当たりだな)

 そう思いつつも、彼は三者に書状を送る。


「……という訳で代筆をお願いします」

「……いくら命の恩人とはいえ、朝廷で太傅を勤めた者に代筆をさせる等、貴殿くらいのものだぞ」

 文句を言われながらも、劉亮は袁隗に頼み込んで「盧植の遺言」を記して貰った。


 公孫瓚と劉備には

『この戦に理は無い、我が死をきっかけとして兵を退かれよ』

 と。

 袁紹に対しては、厚遇してくれた事の礼と共に

『一旦矛を収め、公孫と劉を分断し、各個に当たるべし』

 という献策の形式を。

 三者全ての師となる盧植の喪に服するというなら、振り上げた拳も下ろせよう。


 その上で劉徳然に劉備を説得に行かせる。

 兵を引くと確定してからでないと、逆効果になりかねない。

 こうして盧植の死を知らせた事で、劉備は元々動いてはいないが、停戦を申し出た。

 公孫瓚は亡き師の遺言を無視する。

 そのまま兵を進めたが、袁紹が一時休戦を求めて来た事を無視したら、今度は劉備が

「伯珪兄、停戦に応じなされ!

 先生の喪中ですぞ。

 袁紹が戦うのなら俺も止めませんが、袁紹が停戦を求めた以上、応じないと貴兄の恥ですぞ」

 と言って来る。

 これも無視したかったが、涿郡に駐屯している一万の劉備軍を無視する訳にはいかなかった。

 更に盧植を見舞いに行って冀州に滞在している劉亮の元に、妻の白凰姫が率いる五千の烏桓兵が駆け付けているという報告も入った。

 公孫瓚は

「ならば、お前が上手く纏めてみろ、玄徳」

 と言って、事実上休戦を呑んだ。

 まあ劉備が思ったような条件で纏められなければ、それを理由に即座に再戦、劉備にも交渉失敗の責任を取って参戦を促す気であったが、そこは「乱世の劉備」、上手い事話を纏めてしまった。

 渤海郡の太守はそのまま、劉虞擁立は棚上げ、弟・公孫越の死に対し袁紹から弔意を示す、という事で話を纏めた上に、保証人として北海国相の孔融を担ぎ出した。

 流石に孔子直系子孫が出張って来た上に、「師の喪に服さないとは何事か」と詰られては、公孫瓚も矛を収めざるを得ない。

 こうして公孫瓚と袁紹の抗争は、一旦棚上げとなる。


 講和条件だが、渤海太守に公孫範を招いたのは袁紹自身、劉虞は本人が擁立を嫌がっている、そして弔問使の派遣は形式だけの事で、袁紹にとって特に損な事は無かった。

 上手く講和を纏めた劉備と、その後押しをした劉亮。

 袁紹は幕僚たちに

「劉叔朗は既に我が身内のようなものだが、その兄も中々の男だ。

 公孫瓚奴から我が傘下に引き入れたいものだ」

 と語ったという。


 かくして劉亮の思い通り、劉備を一旦この抗争から遠ざけて、今後の事について語り合う時間を作れた。

 後は軍師招聘を理解させる事と、今後劉備が天下についてどう向き合うかを決めねばなるまい。

おまけ:

郷挙里選は大分おかしくなって来ました。

一介の太守に過ぎない公孫瓚が州牧を任命してましたが、袁紹も袁術も同じ事をしてます。

任命して赴任させてから、長安に使者を送って追認させてます。

ダブルブッキングは多々あり、それが袁紹・袁術陣営の代理戦争となります。

諸葛亮の叔父の諸葛玄も、袁術もしくは劉表によって太守に任命されたら、朝廷は別の人物(黄巾の乱で活躍した朱儁の子)を太守とした為、戦争になりました。

誰かさんが皇帝を擁立したのは、任命即朝廷の公認となり、大義名分を得やすかったのもありまして。

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― 新着の感想 ―
[良い点] もう、完全に軍師の行動を取っていることに気づいていないですね。
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