「夏の始まり、何かの終わり」(4)
「さあ、入ってくれ」
香苗は両手を縛られた正通の肩をそっと押した。
「…………」
正通は横目で香苗の表情を見た。
先ほどの、コーヒーを飲みながら楽しそうに自分と話していた時と同じ表情――彼女は、この状況を楽しんでいる。
そこは東京湾に面した、大きな廃工場だった。既に使われなくなって久しく、敷地内は荒れ果てている。
敷地の中央に位置する建物に足を踏み入れると、その中に誰かが立っていることに気づく。
「……あなたは……」
薄暗がりの中に立っていたのは、疾風なつきだった。
「疾風……さん……!」
正通はなつきの装いを目の当たりにし、思わず息を呑んだ。
なつきは黒を基調とした艶やかな衣装を身に纏っていた。
ベルベット生地で仕立てられた2ピースのドレスと、フリルのついたスカートから伸びる、黒いストッキングと編み上げのブーツに包まれた長い脚。
まるで、これからライブかテレビの撮影にでも臨むかのような出で立ち――だが、疾風なつきがライブでこんな衣装を身に着けないことを、正通は知っている。
――そうだ、こんな喪服みたいな衣装は……!
「こんばんは、江原君。いい夜だね」
なつきは美しい髪に手櫛を通しながら、潤いのある声で話しかけた。
正通は目の前に現れたなつきの姿にしばし見とれていた。妖艶でありながら上品さをも兼ね備えたその衣装は彼女の美しさを一層、引きたてている。
「なつき、江原君。僕は外に出ているよ」
そう言うと、香苗は扉の外へと出ていった。
なつきが正通の前へゆっくりと歩み出る。その優雅な足運び一つ取っても、まるで王族のような気品が漂う。
「江原君。またこうして二人きりで話せる機会ができて、嬉しいよ」
正通はなつきの口調に違和感を感じた。
「……ああ、この喋り方か。これが私本来の喋り方だ。驚かせてすまない」
なつきはふふっ、と微笑んだ。テレビ局の控室で見せたのと同じ、あの天使の微笑み。
しかし……今回はあまりにも状況が違いすぎる。
「どうして……こんなことをするんですか?」
正通は動揺を必死で隠しながら言葉を発した。
「君を欺いて連れて来たことは謝る。しかし、他にいい方法が思いつかなかったものでね」
なつきは突然、正通の顔に自らの顔を近づけた。正通の鼻腔を芳香がくすぐる。
「君は本当にいい目をしているな。優しさと悲しみ、そして野性が感じられる」
野性――。こんな言葉で自らの顔を評されたことはかつてなかった。
「野性……?」
自分より二センチほど身長が高いなつきを見上げながら、正通が聞き返した。
「そうだ。戦いの地に身を置くことを悦びとする者達……君からも同じものを感じる。何よりの証拠に、君は『ドロメアス』を一番好きな曲だと言ってくれた。私達の曲を『真実への扉』と表現した君の感性は実に素晴らしい。私にとって、あれは最高の褒め言葉だった」
目の前で輝くなつきの瞳を見た瞬間、正通の全身を悪寒が襲った。自らの心の闇を全て見透かされたような息苦しさを感じ、自然と呼吸が早まってゆく。
「それと、何の関係が……」
正通がそう言って一歩後ずさると、なつきはその分だけ前に歩み出て、再び顔を近づけた。
「『ドロメアス』は真実の物語だ。人は愛を捨て、安住の地を捨てる代わりに新たな力を得る。そして戦いの世界に身を投じ、変わってゆくんだ」
「真実の……物語?」
背中に冷たいものが流れるのを感じた。
「そう。『ドロメアス』は、私が戦いの中で着想を得て作り上げた曲だ。だから戦いを知らない者・戦いに目を背ける者には、真にあの曲を理解することはできない」
正通の脳裏に、スクラップヤードでの戦いが蘇る。
あの時の自分は、まるでこの曲に突き動かされるようだった。『ドロメアス』には、人を戦いへと駆り立てる何かがある。
――だから、武井さんは戦いの最中にあの曲を送って来たのか。
数秒の間を置いてから、正通はその言葉に気付いた。
――待てよ。この人は今、何て言った? ……『戦いの中で』……?
息を呑む正通の目を真正面から見据えながら、なつきは言葉を続けた。
「……本当は、分かっているんだろう?」
なつきの放った一言で、正通が胸の中にしまいこんでいたものが一気に弾けた。
正通がなつきを前にして、絶対に考えないようにしていた……夜の公園で出会った、赤い瞳の少女が目の前のアイドルと重なった。
「あれは……幻なんかじゃなかった……!」
正通が呻くように呟くと、なつきは満足げに微笑んだ。
「嬉しかったよ、江原君。聴こえるはずのないあの歌を……君は聴いてくれたんだからね。あの素晴らしい満月の夜に」
その出来事は正通にとってあまりに不可解だった。
一人の人間の歌声があんなに遠くまで聴こえるとは、到底思えない。
そして、あの時に少女の姿が見えたのは自分だけだった……。
こうして当人の口から聞かされた今も、あれが現実の出来事だったとは信じがたい。
「自分の目と耳が信じられないのか? 君が見た私の姿も、君が聴いた私の歌も幻ではない……現実なんだ。こうして、目の前に立っている私もな」
なつきは表情を変えることなく、噛んで含めるように言った。
「疾風さん……あなたは……!」
正通の呼びかけになつきは大きく頷いた。
「察しの通り……この私、疾風なつきとペンタメローネは影の世界の処刑人だ」
なつきの発した言葉に、正通は言葉を失った――。
「陽子ちゃん、ボディーアーマーはしっかり着込んで行きなさい」
更衣室を兼ねたロッカールームで、ユミがアーマーベストを渡しながら言った。
「はい、ユミさん」
陽子はノンワイヤーブラジャーの上からアーマーべストを着て、ブラウスに袖を通した。
「ユミさん。拳銃は二挺、お願いします。私のトカレフと、武井さんが使っていたトカレフを。予備マガジンとレッグホルスター、ナイフはいつもと同じものを」
「陽子ちゃん。他に、もっといい銃があるのよ。本当にトカレフでいいの?」
ユミはケブラー繊維の防弾ライナーをブレザーの裏側に取り付けながら尋ねた。
「ユミさん。トカレフがいいの。武井さんと同じものがいいの」
陽子は、はっきりとした口調で言い切った。
「武井さんのトカレフを持って行くからって、武井さんが守ってくれるわけじゃないのよ」
「分かってる。でも、私は他のどんな銃よりもトカレフを使い慣れているから。だからトカレフを持って行くの」
陽子はそう言ってにっこりと笑った。
杉並区立大田黒公園。
閉園時間をとうに過ぎている為、園内に人気はない。陽子は腕時計で時刻を確認した。
「午後七時五十八分……そろそろか」
陽子は白いブラウスに赤のリボンタイを締め、その上から真っ赤なブレザーを着ていた。
下は黒のプリーツスカートにハイソックス、チタン合金板仕込みのショートブーツ。膝には強化樹脂製のプロテクターを装着している。
これが彼女の戦闘時における服装だった。
やがて、公園入口の近くに一台の高級車が止まった。黒のレクサスだった。
運転席から現れたヴァーグナーは、恭しく一礼した後に無言で後部座席のドアを開けた。
陽子は無言で一礼し、車内に乗り込んだ。




