「夏の始まり、何かの終わり」(1)
両親を亡くして一週間が経った頃。
陽子は連れて来られた伯父の家で、些細なことから従兄の義信と喧嘩をし、家を飛び出した。
彼女が電車を乗り継いで辿り着いたのは、両親との思い出が残る我が家だった。
それから一時間半後には伯父夫婦が義信を連れて来て謝らせたが、陽子は決してドアを開けようとはしなかった。
伯父夫婦は玄関前で何時間も粘ったが、結局は根負けして帰っていった。
陽子は誰もいない家で一人、勝利の余韻に浸っていたが、日が傾くとともに孤独と悲しみに襲われ、ぼろぼろと涙をこぼした。
何度も電話が鳴ったが、全て無視した。
日も沈みかけた頃、誰かが玄関のチャイムを押した。
「どなた……ですか?」
陽子は注意深く廊下から玄関の様子を窺い、声をかけた。
「こんばんは。この間会った武井というんだけど……覚えてるかな?」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、あの優しい青年の声だった。
「武井さん……? どうしてここに来たの?」
「君に会いに、伯父さんの家へ行ったんだ。そしたら、ここにいるって言われてね。お腹が空いたでしょ? 一緒に晩御飯を食べないかい?」
陽子は吸い寄せられるように玄関へと進み、無言でチェーンロックを外し、鍵を開けた。
「入っていいよ、武井さん」
「お邪魔しまー……」
言い終わる前に、泣きながら陽子が抱きついてきた。武井は優しく陽子の肩を抱いた。
「伯父さん、何て言ってた?」
陽子が椅子の背もたれから顔を出して尋ねる。
「僕も二、三日の間、ここにいていいってさ」
受話器を静かに置いて、武井が答えた。
「ほんと?」
陽子は目を輝かせながら問い質した。
「嘘なんか言うもんか。それと、君に『ごめん』って言ってたよ」
陽子は「ふん」と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「陽子ちゃん。伯父さん達もどうしたらいいか分からないんだよ。君と同じようにね。まだ君と伯父さん達はお互いをよく知らないだけだよ。君もそのうち、伯父さん達が好きになるよ」
「……本当に?」
武井はにっこりと笑って頷いた。
「そうだ! ねえ、武井さん。今日のばんごはん、なあに?」
陽子は椅子を飛び降りてキッチンにいる武井に近づいた。
「今日はね……ご飯と八宝菜、きくらげと卵のスープに春雨サラダだよ。うずらの卵と海老が余っちゃうから、フライも作ろうか。って……どうしたの、陽子ちゃん?」
「みんな、わたしの好きなお料理だけど……武井さん、作れるの?」
きょとんとして尋ねる陽子の頭を武井がそっと撫でた。
「お口に合うかどうかわからないけど、作ることはできるよ」
料理を作る武井の鮮やかな手つきはプロ顔負けだった。
陽子は食器運びなどを手伝い、わくわくしながら武井が料理を作る様子を見ていた。
そして、一時間余りでテーブルの上には八宝菜を中心に、目にも鮮やかな料理の数々が並んだ。
「いただきまーす」
二人で食事前の挨拶を終え、陽子は湯気を立てるスープに口をつけた。
「…………!」
そして突然、黙り込んだ。
「陽子ちゃん、どうしたの?」
陽子はそれに答えず、武井が小皿に取り分けた八宝菜に箸をつけた。
「お口に合わなかったかな?」
武井が困惑気味に微笑みながら尋ねた。
「ううん……おいしいよ。とっても、おいしい……」
陽子は激しくかぶりを振った。
――お母さんの作る料理にそっくりの味……!
よく見れば、材料の切り方や盛り付け方も母――梨緒のものとそっくりだった。
ただ一つ違うのは、武井の料理の方が、より洗練されていると感じたことだった。
「よかった。おいしいって言ってもらえて」
武井が満面の笑みを浮かべる。
「すごく……おいしいよ。武井さん」
陽子は目を潤ませながら武井の料理を口へ運んだ。
武井と過ごす時間はあっという間に過ぎた。
二日目の深夜、陽子は夜中に目を覚ました。玄関のドアが閉まる音が聞こえた気がした。
――何だろう……。
気にはなったものの再び睡魔に襲われ、陽子の意識は再び落ちていった。
次の日の朝。陽子が目を覚まして居間へ行くと、武井がこれまでに見たことのない恐ろしい表情でテレビを観ていた。
陽子が驚いて後ずさると、その足音に気づいた武井がゆっくりとこちらを向いた。
テレビに映っていたのは、都内で起きたビル火災の報道だった。
「武井さん……」
陽子は全てを理解した。
「どうしたの?陽子ちゃん」
武井はいつもの優しい笑顔を見せた。
「……武井さん。何をみてるの?」
「ニュースだよ。火事で三人も亡くなったんだって。かわいそうにね」
武井は再びテレビに目を移す。
陽子は拳を握り締めながら、はっきりと聞こえる声で言った。
「かわいそうじゃないよ。死んだのは悪い人だもん」
陽子の発した言葉に、武井は驚いて振り返った。
「……この人たちを殺したの、武井さんでしょう?」
武井の表情が一瞬にして凍りつく。陽子はそんな武井の目をじっと見つめた。
「陽子ちゃん。冗談にしても、言っていいことと悪いことがあるよ」
「じょうだんなんかじゃないもん。テレビだと火事だって言ってるけど、うそでしょう。武井さんが殺したんだよね。それに、わたし知ってるの。この人たちがお父さんとお母さんを殺したんだって。この人たち、お父さんのいる学校の生徒に悪いことしてたんだよ」
武井は悲しそうな目をすると、腰を下ろして陽子の肩に手を乗せた。
「陽子ちゃん。お父さんとお母さんは交通事故で亡くなったんだよ。殺されたんじゃない。警察の人もそう言ってただろう?」
肩を掴む武井の手に力が入る。陽子は痛みにたじろぎながらも、震える声で言葉を発した。
「けいさつの人……わたしにうそついた」
「え……?」
武井は手に込めた力を緩めた。
「わたし、わかるの。その人の言ってることが本当かどうか。だから……うちに来たけいさつの人が『事故だ』って言った時にわかったの。そうじゃないって。わたしが『本当に事故なんですか』って聞いたら、その人、下を向いて目を動かしたの。それでわかったの」
「……陽子ちゃん」
武井の鋭い目に内心怯えながら、陽子はなおも言葉を続けた。
「なんで……大人はみんなで子供にうそつくの? なんで武井さんまでうそつくの?」
陽子はそこまで言うと、肩を震わせながらうつむいた。
「武井さんがお父さんの友だちだっていうのが……うそだってことも、私……わかってた」
「……そう。分かってたのか」
武井は諦めたように微笑むと、陽子の頭を優しく撫でた。
「武井さんは信じてくれるの? わたしが言ってること」
「……当たり前だろ。子供を信じるのは大人の義務だよ」
陽子が顔を上げる。武井の顔はいつもの優しい表情に戻っていた。
「わたしが……うそついてるって思わないの?」
「僕には陽子ちゃんが嘘をついてるとは思えないな。それに……子供の嘘を許せないような奴には大人を名乗る資格がない。汚い嘘をついてばかりの大人に……子供の可愛い嘘を責める資格なんてあるもんか。もしもそれが悪い嘘だったら、後で叱ればいいだけさ」
ぽん、と陽子の頭を優しく叩くと、武井はゆっくりと立ち上がった。
「それで……どうするの? 君の前にいるのは人殺しだよ。警察を呼ぶ?」
武井の笑顔は優しげでありながら、どこか寂しげだった。
「ううん。けいさつなんか呼ばない。武井さんは悪いことなんかしてないもん」
陽子はうつむいて言った。
「僕のしたことは悪いことだよ。人を殺したんだからね」
「ばか……武井さんのばかぁ!」
陽子はこらえ切れなくなったように大声で叫んだ。
「……陽子ちゃん……」
叫んだ後、糸が切れた操り人形のように膝を着く。
武井がそれを慌てて支えた。
「わたしね……うれしかったの。武井さんがお父さんとお母さんのかたきをうってくれて……本当にうれしかったの。ただ、それだけなの」
武井は耳を疑った。目の前の少女は、確かに『嬉しい』と言った。
「なのに……なのに、なんで武井さんまで……わたしにうそついたの? わたし、そんなことで武井さんをきらいになったりしないよ。ううん。わたし、武井さんが……」
その言葉を言い終わる前に、武井は陽子を優しく抱き締めた。
「もういい……僕が悪かった。嘘をついた僕が悪かった」
「武井さん……」
そう呟いた次の瞬間、陽子は異変に気づいた。
周りに見慣れない調度品が置かれ、身体は大きくなっている。
「またか……」
九年後の世界に突然引き戻され、陽子は大きくため息をついた。
時計の針は午前五時二十三分を指していた。
「――ですので、夏休み中と言えども気を緩めることなく……」
生徒指導担当の津嘉山が、眼鏡を抑えながら壇上で語る。
毎年、或いは終業式の度に同じ内容の訓示を述べているのだろう。まるで全て暗記しているかのように、淀みない語りだった。
生徒達は棒立ちのまま、この退屈な時間が過ぎるのを待っていた。
陽子もまた他の生徒と同じく、津嘉山の言葉を右から左へ聞き流していた。
「……ねえ、神岡さん」
陽子があくびをしかけた時、右隣に立っている扇谷宏美が陽子に小声で話しかけた。
「……何? 扇谷さん」
「うちの学校も、夏休みを連休に合わせてくれるといいのにね」
宏美はいたずらっぽく笑った。陽子もそれに笑顔で応える。
「ふふ、そうだね」
出席番号順ですぐ前にあたることから宏美とはこれまでも全校集会などでは隣同士だったが、親しく口を利くことはあまりなかった。
こうして話をするようになったのも、遊園地での一件以来である。
最近では昼食も平山明美・伊藤真紀と共に、四人で摂るようになった。そんなこともあり、陽子は毎日の学校が以前よりも楽しみになっていた。
「ところで神岡さん。今日、この後って時間ある?」
宏美は微笑みながら尋ねた。
「え……?」
「真紀ちゃんの提案なんだけどね。『夏休みを有意義に過ごす為に、課題をやれるだけやっちゃおう』って。あっちゃんの家に集合になると思うけど、どう?」
あっちゃんの家、と聞いて陽子は明美の弟・健の笑顔を思い起こしたが、その後で困った顔を見せた。
「……何か、予定あるの?」
「ごめんね。今日は午後からイベントがあるから」
陽子が小さく手を合わせて謝った。
隠していたわけではないが、自分のイベント情報を友人に教えるのはおこがましいような気がして言い出せなかった。
宏美は残念そうに「そう……」と呟いた。そして少し考える素振りを見せた後で、再び陽子に尋ねた。
「それじゃ、明日はどう?」
陽子は少し考えてから小さく頷いた。
「明日だったら、大丈夫」
「本当? よかったぁ。それじゃ、終業式が終わったらみんなで相談しようねっ」
宏美の言葉に、陽子も笑顔で頷いた。
「それじゃ、私達も応援に行くから。また後でね!」
「ありがとう! また後で!」
手を振る明美達に手を振り、陽子は校門を駆け抜けた。
この日は荒川区内の商店街で行われる夏祭りのイベントで陽子のミニコンサートとジャンケン大会が予定されていた。
既に夏休みに入っている正通と長坂とは現地で合流する手筈になっており、ファンクラブ名誉会員(予定)の長谷川と吉岡も来るとのことだった。
――私にもファンがいるんだから、頑張らなくちゃ。絶対……みんなに愛されるアイドルになるんだから。
陽子は走りながら拳を握り締めた。
――それに……!
陽子の脳裏に明美達の笑顔が蘇る。
自分がアイドルだったことで、彼女達と親しくなることができた。
明日は明美の家で勉強会をする。自分を慕ってくれる健にもまた会える。自然と笑顔が浮かんでいた。
そして、アイドルとしての自信を持てない自分に勇気を与えてくれた言葉。
――これまでの人生で培ってきた、誰にも負けないものがあるはずよ――
なつきからの励ましの言葉が、陽子を大いに奮い立たせていた。




