「ファンとの邂逅」(5)
「『ドロメアス』を……?」
なつきは意外そうな表情で聞き返した。
テレビではまず見ることのできないその表情の美しさに、正通はしばし時を忘れた。
“Dromeas”――。
この曲は美しい鳥・ドロメアスの変貌と破滅を描いた物語だった。
楽園で夫と幸せに暮らしていたドロメアスは、ある日夫を狂った獣に喰い殺された。怒りに我を忘れた彼女は獣を蹴り殺す。
楽園を血で汚した罪で彼女は翼を奪われ、下界へと追放されてしまう。
翼を奪われたドロメアスは代わりに誰よりも速く走る脚と剣のように鋭い鉤爪を手に入れ、やがて獣を襲い、喰らうようになる。
ドロメアスは地上の覇者として獣達に恐れられるが、そんな彼女にも恐れるものがあった。それは泉の底に潜む魔物だった。
魔物はいつも水を飲みに来るドロメアスを恐ろしい形相で睨みつけ威嚇するが、決して泉から出て来ようとはしない。
ドロメアスは一計を案じ泉の魔物をおびき出そうとするが、それにより彼女は魔物の正体が泉に映った自分の姿だと気づいてしまう。
ドロメアスは変わり果てた自らの恐ろしい姿を呪い、天地に響き渡る叫び声を上げながら地平線の彼方へと走り去ってゆく。
その後、ドロメアスの姿を見たものはない……。
「あの曲は散々に言われたのよ。『気持ち悪い』とか、『ペンタメローネらしくない』とか、『技巧に走り過ぎている』とか。本当に君は……あの曲が好きなの?」
正通は激しくかぶりを振った。
「そんなの、ただの雑音です! 誰が何と言おうと僕はあの曲が好きです。そしてあの曲を作って、あの曲を唄う疾風さんが……! そ、その……僕は疾風さんを、尊敬しています」
正通はすんでのところで踏み止まった。
憧れの女性を前にして舞い上がっているとはいえ、いくらなんでも調子に乗りすぎた。自分も芸能関係者なのだということを忘れていた。
正通は胸の高鳴りを必死で抑えながら、目を伏せた。
「ありがとう……江原君。そこまで言ってもらえるなんて、あの曲を作って本当によかった……私だけじゃない。君の言葉を聞けば、香苗達も喜ぶわ」
なつきは嫌な顔一つせず、むしろこれ以上ないほどの笑顔で正通に感謝の言葉を述べた。正通は思わず顔を上げ、再びなつきと目を合わせた。
「は、疾風さん……」
二人は時を忘れたかのように、無言で見つめ合った。
一介のファンと、憧れのトップアイドル。本来であれば直接話す機会さえないはずの二人が、まるで恋人同士のように視線を交わしていた。
不思議と心地良い沈黙が流れる中、突然正通の携帯電話が着信を伝えた。
「……あっ」
正通が困惑の表情で携帯電話を取り出すと、なつきは優しく微笑んだ。
「……どうぞ。出て」
「す、すみません……」
正通は画面に表示された発信元の番号と名前を見て凍りついた。
「ヒィィ! すっかり忘れてたぁぁ!」
発信元は陽子の携帯電話だった。陽子を探していたことを、すっかり忘れていた。
「江原君、どうしたの?」
正通のうろたえように、なつきが驚いて立ち上がる。
「僕が担当してるアイドルから電話です! ごめんなさい、出ます!」
「そうか……君、マネージャーですものね」
なつきは唇に手を添えて呟いた。
浮気の最中に妻からの電話を受けた夫のように、正通はびくびくと通話ボタンを押した。
「もしもし、神岡さん?」
正通は可能な限り平静を装って電話に出た。
「江原くん、今どこにいるの?」
予想に反して陽子の声は弾んでいる。
「今、十三階にいるんだ。どこにいるのか教えてくれれば、そこに行くよ」
正通はほっとしながら答えたが、通話口からは意外な言葉が返ってきた。
「私がいるのも十三階だよ。君は十三階のどこにいるの?」
――しまった! この状況、何て説明すればいいんだ?
まるで、浮気現場のすぐ近くに妻がやって来たような状況。横目でなつきの様子を垣間見ると、彼女は心配そうにこちらを見ていた。
――ああ、疾風さんが僕を心配してくれてるなんて。
「江原くん! ちょっと、聞いてるの?」
陽子の声が正通を現実へと引き戻す。
「あ、うん! ごめん、それで神岡さんはどこにいるの?」
「なんで質問を質問で返すのかなぁ? ま、いいけど。実はね、ペンタメローネのアズリさんとブランカさんが一緒にいるの。羨ましいでしょう?」
「へっ?」
思わず声が裏返った。
「今、ペンタメローネの控室の前なんだけれど……え? 本当にいいんですか?」
――なんだって、控室の前? じゃ、このドアの向こうに神岡さんが……!
陽子は電話の向こう、もといドアの向こうで誰かと話しているようだった。
「アズリさんが、ここを待ち合わせに使っていいって。やっぱり君がここまで来て。よかったね、君も会えるよ。場所は中央階段の左側の廊下を――」
ガチャリ、とドアの開く音。
「ヒィッ!」
「まっすぐ行って……って、あれ?」
部屋の外に三人の少女がいる。
ドアノブを握り、上品な笑みをたたえた金髪碧眼の少女はリードギター担当のブランカ。
褐色の肌にブルーとアンバーのオッドアイが印象的な少女はキーボード担当のアズリ。
そしてその横でスマートフォンを持ち、目をぱちくりさせているのが、正通が担当するアイドル・神岡陽子。
「ただいま、なつきぃ。遅くなってごめんねー。この娘と話してたら、ついつい。とってもいい娘だよぉ、この娘!」
「もう、今度から気をつけてね、アズリ。それと……ちゃんとドアは閉めていってね」
アズリは手を合わせて舌を出した。アフガニスタン出身のアズリは、すっかり日本の習慣に馴染んでいた。
その横ではブランカが眉根を寄せて苦笑している。
二人とも、なつきとは違った魅力を持つ美しい少女だった。
「神岡さ……ヒィィッ!」
陽子は鋭い眼光で正通を威圧すると、室内にいるなつきに向かって深々と頭を下げた。
「疾風なつきさん。申し訳ありません! うちのマネージャーがご迷惑をおかけしました」
まだ何も話していないのに、陽子は謝罪の言葉を口にした。
正通も慌ててなつきに頭を下げる。アズリとブランカは目を丸くして顔を見合わせた。
なつきは少々面食らった様子でソファから立ち上がった。
「謝らないで、引き止めた私が悪かったんだから。私の方こそごめんなさい。あなたは……」
「申し遅れました。スヴォーロフ・プロ所属の神岡陽子です」
陽子が再び頭を下げると、なつきは両手を揃えて頭を下げた。
その所作の美しさに正通は元より、陽子までもが息を飲む。
「ペンタメローネの疾風なつきです。どうぞよろしく」
正通と陽子が言葉を失っていると、アズリが陽子の肩を叩いた。
「入ってよぉ、陽子ちゃんっ」
「そうですよ。中でゆっくり話しましょう、ねっ」
アズリとブランカに促され、陽子は「はい……」と答えて室内に足を踏み入れた。正通が陽子に「ごめん」と頭を下げると、陽子は苦笑しながら「もういいよ」と答えた。
「申し遅れました。僕はスヴォーロフ・プロの江原正通と申します。彼女――神岡陽子のマネージャーをしています」
正通がアズリとブランカに頭を下げる。
「アズリだよっ! すごいねー、まだ若いのにマネージャーなんてっ」
アズリは正通に駆け寄って微笑んだ。
「いえ、そんな……」
「はじめまして。私はブランカと申します」
ブランカは一歩離れたところで頭を下げる。その控えめな態度はアズリとは対照的だった。
「よろしくお願いします。こちらは名刺です」
正通がそっと差し出した名刺を二人は嬉しそうに受け取った。
「なつきぃ! 名刺もらっちゃったぁ! んふふふっ」
「アズリ、あなたも名刺を持っているでしょう? こちらもお渡ししないと失礼よ」
ブランカの言葉にアズリは「あ、そうか」と言ってポケットを探った。
「それでは、こちらも」
「はいっ、どーぞっ」
二人に名刺を差し出され、正通は丁重な所作でそれらを受け取った。
「ありがとうございます!」
三人のやり取りを見守っていた陽子に、なつきが声をかける。
「神岡さん。よかったら座って」
「ありがとうございます。でも、もう失礼しますので……」
陽子はいつになく礼儀正しい。いつもこうならいいのだが……と正通は思った。その時、ドアをノックして誰かが入って来た。
「あれ……お客さんかな?」
ドアを開けながらそう言ったのはペンタメローネのベース担当・真崎香苗だった。その横にはドラム担当・ベアトリスと、見たことのない白人男性の姿があった。
「お邪魔してます。スヴォーロフ・プロ所属の神岡陽子と申します」
「彼女のマネージャーをしています、江原正通です」
ベアトリスと男性が口を開きかけたその時、不意に香苗が正通の前に歩み出た。そして、突然の行動に面食らう正通の頬をそっと撫でた。
「あ……あのっ……!」
柔らかな手の感触。心拍数が急上昇する。
髪を短く切り揃え、男物の服を上品に着こなす香苗は百七十八センチの長身と切れ長の目が印象的な美少女だった。いや、その中性的な外見は『絶世の美男子』との表現が相応しいかもしれない。
「なかなか可愛いじゃないか、君。江原正通君……か。覚えたよ、その名前」
まるで美男子のような美少女に優しく頬を撫でられ、耳元で甘い言葉を囁かれる。正通はこの状況にどう対応すればいいのか分からなかった。
「ちょっと、香苗! いきなりそんなことをしたらびっくりするでしょう?」
見かねたなつきが香苗を嗜める。
「かたいことを言うなよ、なつき。まさか嫉妬してるのかい? 僕に? それとも……彼に?」
妖艶な微笑を浮かべる香苗。独特の色香が感じられる表情だった。
「ばっ、莫迦! 何を言ってるの!」
正通となつきは揃って顔を赤くする。
「あははっ、二人とも可愛いよ。ああ、いけない。挨拶がまだだったね。僕は真崎香苗……よろしく、江原君、神岡君」
香苗の後ろでベアトリスがため息をつく。
「ごめんね、君。いつも注意してはいるんだけど……まぁ、それだけ自分が魅力的なんだと思って大目に見てやって。私はベアトリス。よろしくね、二人とも」
ベアトリスは艶やかな茶色のウェーブヘアーと青い瞳を持つ、大人びた雰囲気の美少女だった。少しだけ鼻にかかったその声には日本人と違った魅力がある。
「は、はい。お二人ともよろしくお願いします」
正通と陽子は同じタイミングで頭を下げた。
ややあって、隣に立っていた男性が思い出したように頭を下げる。
「失礼。神岡サン、江原サン。ワタシはヴァーグナーといいマス。彼女達のマネージャーをしていマス。あなたと同じですネ、江原サン」
ヴァーグナーはそっと手を差し出す。
「こちらこそ。よろしくお願いします、ヴァーグナーさん」
正通は出された手を握り返した。
ヴァーグナーは眼鏡をかけた穏やかそうな金髪の男だった。年齢は三十歳前後だろうか、スーツを着ている上からでも筋肉質な身体つきが見てとれる。
正通の視線に気づいたのだろう、ヴァーグナーが歯を見せて笑った。
「ワタシの趣味は日本の武道デス。肉体を鍛え、精神を鍛える武道はスバラシイと思いマス」
「はぁ、なるほど……そうですね。あ……そうだった」
正通は名刺を取り出し、香苗、ベアトリス、ヴァーグナーの三人と交換した。
その様子を見ていたなつきが陽子に話しかける。
「神岡さん。江原君はマネージャーを始めてどれくらいなの?」
「まだ一ヶ月にもなりません。私と二人だけで出たのもこれが初めてです」
陽子は少し恥ずかしそうに言った。
「そう……あなたは芸能活動を始めてどれくらいになるの?」
「デビューしてもう二年になります。でも、まだまだ全然です」
恥ずかしそうに目を伏せる陽子の両肩になつきが手を置いた。
「神岡さん。確かにあなたはまだ有名じゃないかも知れないけれど、この二年間……いいえ、これまでの人生で培ってきた、誰にも負けないものがあるはずよ。あなたもそれを無駄にはしたくないはず。そうでしょう?」
なつきの真剣な眼差しと不思議な説得力に陽子は圧倒された。
「はい……疾風さん」
言い終わると、なつきは再び優しい笑顔を見せた。
「それに、あなたからは他の人が持っていないものを感じるの。だから頑張ってね、神岡さん」
「ありがとうございます……疾風さん」
陽子はペンタメローネのファンではない。それどころか、スクラップヤードでの戦闘をきっかけに、拒否反応に近いものを覚えるほどになっていた……が、しかし。
局内で迷った陽子に対して気さくに声をかけ、楽しい話題を提供してくれたアズリ。
それを穏やかな笑顔で見守っていたブランカ。
そして、無名の自分を馬鹿にするどころか、まっすぐに目を見て励ましてくれたなつき。
彼女達との邂逅により、陽子の中でのペンタメローネのイメージは大きく変わっていた。
「皆サン、もう六時半デス。そろそろ移動する時間デスよ。準備をお願いしマス」
ヴァーグナーが全員に聞こえる声を発した。
「江原くん。もうお暇しましょう」
「そうだね……皆さん、どうもありがとうございました」
正通と陽子が揃って頭を下げると、香苗やアズリ達が笑顔で声をかける。
なつきをはじめ、ペンタメローネのメンバー達の温かい対応に正通と陽子は感動すら覚えていた。
「本当にありがとうございました。それでは、これで失礼します」
陽子が改めて挨拶をし、正通は一礼した後にドアノブに手をかけた。
「……待って」
流れるような足運びで、なつきが一歩前に進み出る。
「神岡さん。私はいつか、あなたと同じ舞台で共演したい。それまでお互いに頑張りましょう」
「はい……!」
陽子が目を輝かせながら応える。
正通は胸に熱いものを感じながら、ドアを開けた。
「行こう、神岡さん」
「ありがと、江原くん。それでは、お邪魔しました」
陽子は再び一礼し、廊下へ出た。
正通が続いて一礼し、外へ出ようとした時のことだった。
「あっ……」
正通のすぐ隣になつきがいた。
「疾風さん……?」
なつきは顔を近づけ、髪をそっとかき上げながら囁いた。
「……また二人だけで、話しましょう」
それは、正通の耳にだけ聞こえる声だった。
――これは、本当に現実なんだろうか……?
都内某所の雑居ビルで近江とアンドレはサウンドサプレッサー付きのグロック17を手に、血のニオイが充満する室内に足を踏み入れた。
「これでもう三回目だ。誰かが先回りをして、ターゲットを殺してやがる」
近江が歯ぎしりをする。
他のテナントから人が消えた雑居ビルの最上階。委員会からの委託を受けた二人は、数々の失踪事件に関与した疑いのある不動産業者を拘束する為、屋上から最上階へと侵入した。
そこで見たものは……不動産業者とその部下達の死体だった。
「……それも、見せつけるかのように同じ日に。まだ死後硬直も始まっていません」
アンドレが足元の死体に触れながら言った。
「……長居は無用だ。ずらかろうぜ」
近江がぼそりと呟くと、アンドレは死体に向かって静かに両手を合わせた。
「分かった、警察と委員会には私から連絡を入れる。撤収してくれ。二人とも、ご苦労だった」
岩本は険しい表情で電話を切った。
「社長。またですか?」
パソコンにデータの打ち込みをしながら、ユミが尋ねた。
「うん。これで三回目だ……当分、『もう一つの業務』は中止すべきだな。警察と委員会にはそのように申し入れる。まったくもって不本意だが……それと、長坂君も調査に当たらせよう」
「先日、警察と委員会から送られて来た情報を……どう思います?」
問いかけながらユミが席を立った。
「何者かに殺害されたと考えられる行方不明者……それも、暴力団や外国人犯罪組織の構成員、凶悪事件の被疑者の数が四年前から急増している。そう、四年前から」
ユミの目が眼鏡の奥で光る。
「警察でも委員会でもない、もう一つの勢力。その存在に……もっと早く気付くべきでしたね」
「あのやり方……委員会を、そして我々を挑発しているとしか思えない。いずれは我々の前にも姿を現すだろう」
ユミは台所のガスコンロにヤカンを置き、火にかけた。
「以前の同僚やかつての敵にもあたっていますが、詳しいことは何もわかっていません」
「そうか。各国諜報機関の目をかいくぐり、これだけ派手なことができるとはな。一連の事案が同一の組織によるものだとすれば、の話だが。そしてその目的は……」
岩本は顔をしかめながら椅子の背にもたれた。
「警察や委員会に取って代わること……そうとしか思えません」
「そう。まるで、これまでのやり方が手ぬるいと言わんばかりだ」
そう言って岩本は事務机に飾られた集合写真を見た。
写真の中では岩本・長坂・近江を中心に、医療ボランティアと現地コンゴの人々が微笑んでいた。
「社長。何を召し上がりますか?」
ユミが茶道具の入った棚のガラス戸を開けて尋ねた。
岩本は写真を見て寂しげに微笑んでいたが、やがてユミに向き直った。
「そうだね。ほうじ茶をお願いするよ」
岩本は明るい笑顔で答えた。




