「ファンとの邂逅」(3)
「ここが……あなたのお部屋?」
少女は正通の部屋の前で尋ねた。
「……はい」
正通が頷くと、少女は「ふふっ」と笑った。
「そんな、他人行儀な口の利き方しないで。それじゃ、失礼するわね」
少女は部屋のドアノブに手をかけ、静かにドアを開けた。
月明かりに照らされた、薄暗い八畳の自室。正通は少女の手でそっとベッドに横たえられた。
「……お姉さん」
「……なぁに?」
少女は正通の身体に布団をかけながら、優しく尋ねた。
「どうして……僕を助けてくれたの?」
少女はベッドのそばに屈みながら、しなやかな手で正通の額をそっと撫でた。
「あなたが……大切だから」
正通は頬を赤らめ、思わず顔を逸らした。
「ふふふ」
少女は正通の髪を細く柔らかな指で梳かすと、潤いのある唇を正通の頬に近づけた。
「……お姉さん」
「……なぁに?」
少女の潤った声と吐息が、耳を震わせる。
正通は背中に痺れるような感覚を覚えながら、少女に向き直った。人形のように整った顔とルビーのような赤い瞳が、目の前にあった。
「あいつらを……殺したの?」
「……そうよ」
少女は微笑みを崩すことなく頷いた。
「どうして……殺したの?」
正通は少女の目をまっすぐ見つめながら問いかけた。
「どうして。どうして……ですって?」
少女は少しだけ目を見開いて正通の言葉の意味を問い質した。
「だって……」
言葉に詰まり、正通は思わず目をつぶった。
「だって……なぁに?」
優しさを失わない、少女の声。
「だって……人を殺すのは悪いことでしょ?」
正通は目をつぶったまま、言い放った。
少女からの返事はない。室内には時を刻む時計の音だけが聞こえる。
数秒の後、正通は右の頬に柔らかなものが触れるのを感じた。
少女の手が頬を撫でているのが分かった。
恥ずかしさに身をすくめようとしたその時、左の頬に別のものが触れるのを感じた。
指よりもずっと柔らかく滑らかで、心地良い熱さを持つもの。それが少女の唇だと分かり、正通は思わず目を開いた。
少女は目を閉じ、呼吸を止めて正通の頬に優しく口づけしていた。
「お……お姉さん……!」
少女は正通の頬からゆっくりと唇を離し、微笑んだ。
「どうして、そんなことを言うのかしら」
「どうして……? どうして、って……」
「……素直になって。正通君」
少女は初めて正通の名前を呼んだ。
「彼らが死んだことを……本当は喜んでいるんでしょう?」
少女の声は脳に直接、響き渡るようだった。
正通の身体に一瞬、震えが走った。
「……お姉さんは、一体――」
正通の言葉は少女の人差し指によって塞がれた。
「私が誰か……あなたは知っているはずよ」
少女は耳元で囁くと、立ち上がって正通を見下ろした。
「だから……ね」
少女は正通の肩にそっと両手を置くと、上半身を屈めて真上から瞳を覗き込んだ。絹糸のように光沢のある髪が頬に触れ、芳香が鼻腔をくすぐる。
「呼んで……私の名前を」
少女の頬に、ほのかな赤みが差す。
その恥じらいの表情に、正通の心臓が再び激しく拍動を始めた。
少女の瞳が、唇がすぐ真上にある。それは、正通が少し顔を上げるだけで互いの唇が触れ合うほどの位置だった。
正通は、これが夢なのではないかと思い始めた。
「……駄目よ」
「え……?」
少女は正通の頬を右手で優しく撫でた。
「そんなことを考えては駄目。あなたは自分が幸せになることだけを考えていればいいの。だから……」
少女の中指が、正通の唇をそっとなぞる。
「お願い。私の名前を呼んで、正通君。あなたが私の名前を呼んでくれれば、私はあなたの前に存在し続けることができるの」
ルビーのような瞳が潤み、きらきらと輝いている。その輝きと憂いの表情が、少女をより一層美しくしている。
少女の言葉の真意が理解できなかったが、その表情を前にしては複雑な思考はもはや不可能だった。正通はようやく、口を開いた。
「…………」
正通は少女の名を呼んだつもりだった。
しかし、その声は少女には届いていない。それどころか、自分でも何と言ったのか聞き取れなかった。
「…………! …………!」
何度も少女の名を呼んだが、声にならない。
それでも、正通の唇が動くのを認めた少女は再び微笑んだ。
「可哀想に。声が出なくなってしまったのね」
「…………ッ!」
正通は激しく狼狽した。このままでは、この人がいなくなってしまう。自分を守ってくれる唯一の人が、自分を愛してくれる唯一の人がいなくなってしまう。
目からは自然と涙が溢れてきた。
少女の指が、こぼれた涙をそっと拭った。
「大丈夫。私が……声が出るようになる魔法をかけてあげるから」
少女は頬を赤らめると、垂れ下がっていた髪をかき上げて目を閉じた。それが何を意味するのか、小学五年生の少年にも理解できた。
「あなたも……目をつぶって」
正通は言われるままに目を閉じた。
少女の吐息が顔に触れる。
少女の肌の温もりが空気を通して伝わってくる。
かつてない胸の高鳴りと体温の上昇に、苦しささえ覚えた。
「…………?」
正通は唇に違和感を感じた。人の肌とは思えない、ざらざらとした感触。更に、不快な生温かさを持つものが口の周りを濡らしている。
「あれ…………?」
ゆっくりと目を開けると、目の前には薄暗い部屋の光景が広がった。
しかし、先ほどまで自分がいた部屋とは大きく違う。広さは半分にも満たず、はみ出すまで本やノートを詰め込んだ安物のカラーボックスが室内のスペースの大半を占拠している。
耳に聴こえるのは、疾風なつきの潤いのある歌声。そして、顔の下には唾液でべとべとになった高校物理2の参考書が敷かれていた。
「うへぇっ!」
正通は悲鳴を上げながら上半身を起こした。イヤフォンを着けて音楽を聴きながら勉強をして、そのまま眠ってしまったらしい。
中古で買った勉強机の電灯の光が目に痛い。正通は無造作にスイッチを切って灯りを消すと、流れている曲が終わった時点でCDプレイヤーを停止し、しばし目を閉じた。
あの夜以来、赤い瞳の少女がたびたび夢に現れるようになった。
その内容は決まって過去の自分を彼女が助けに現れるというものだった。
そして、夢の中の少女は回を重ねるごとに親密な態度を示すようになっていた。
正通は未だ高鳴り続ける胸を右手で押さえた。
――あのまま、夢を見続けていたら。もしも、もう一度あの人が夢に出てきたら。
大きくかぶりを振って、妄想を振り払う。深く息を吸い込んで呼吸を整えた。
大きな罪悪感があった。憧れの人と同じ姿をした少女を身勝手な欲望の対象とするだけでなく、夢の中で人殺しをさせてしまっている。
――夢判断とかしたら、大変なことになるんだろうな、これ……。
夢の中では己の願望、特に性欲が強く発現すると聞いたことがある。
自らの心の闇と欲望の歪さを思い知らされているようだった。
自分を苦しめた人間達への憎しみ。
両親への不信。
自分を愛し、守ってくれる人間を求め、ただ依存するだけの心の弱さ。
――彼らが死んだことを……本当は喜んでいるんでしょう――
少女の言葉が脳裏に蘇る。夢の中で少女に殺された男達は、現実世界では闇金業者と共に近江の手によって殺されている。
少女の指摘は本当だった。彼らが死んだと知った時には、心の底からそれを喜んだ。
彼らは死んで当然だと思った。あの部屋に連れ込まれた時、自分以外にも同じ目にあった少年や少女がいるという痕跡を確かにこの目で見たのだから。
自分の憧れの人が、人知れず世の為、人の為に戦うヒーローであったなら。その手で自分を救ってくれたなら。
陽子が武井に寄せていた想いは自分にも理解できる。
そんな潜在意識が夢に影響を及ぼしていたのかも知れない、と正通は考えた。
――でも、あれは……疾風なつきさんじゃない。あの夜に見たのは幻だったんだ。
おそらく、誰に話しても信じてはもらえないであろう、神秘的な出来事。あれは白昼夢のようなものだったのだと考えることで、自分を納得させようとしていた。
ふと、正通は妙なことに気づいた。
――私が誰か……あなたは知っているはずよ――
再び、夢の中での少女の言葉を反芻する。
――呼んで……私の名前を――
正通は額を手で押さえた。
自分はあの少女の名前を……知っている?
――僕は、あの人を何という名前で呼ぼうとしたんだろう?
夢の中で自分が呼ぼうとした、少女の名前。それがどうしても思い出せない。
疾風なつき――ではないとすれば、夢の中の自分は……あの少女を何という名前で呼ぼうとしたのだろう?
胸の中で小さな火がくすぶるような感覚に、息苦しさを覚える。
心身の動揺と興奮は全く収まる様子を見せず、とても勉強どころではない。
数分後、正通は心身の落ち着きを確認してから再び予習に取り組むことにした。
早く予習を終わらせて眠らなくては。明日は大事な仕事があるのだから。
机の電灯を点けて乾いた雑巾で参考書の唾液を拭き取り、古いCDプレイヤーの再生ボタンを押した。
イヤフォンから聴こえてくるのは激しいドラムとリードギターによる前奏。怪鳥の足音と鳴き声を模したものだ。
それは、正通が最も愛する歌――“Dromeas”。




