「ファンとの邂逅」(2)
正通はランドセルを前に抱えていた。背負って歩くと、文房具や教科書が音を立てるからだ。
少しでも音を立てれば恐ろしいことになると考え、神経過敏になっていた。
昨日は運悪く、勝手口の前で待ち構えていた取り立て屋に遭遇し、恐ろしい思いをした。
同じことにならないように離れた場所から家の周囲を観察し、誰もいないことを確かめてから玄関に近づいた。
5LDKの広い家は正通と両親の自慢だった。
小学三年生の頃に父・正二が土地と共に購入したもので、外観・内装・立地共に申し分ない高級住宅だった。
日当たりが良く広いリビングには大きなテレビとテーブル、ソファが置かれ、床暖房がある為、冬でも快適だった。
正通は友達を家に招いてリビングでテレビゲームをしたり、自室で漫画を読んだり、庭でラジコンカーを走らせたりするのが好きだった。
夏には近所の人々や会社の従業員とその家族、正通の友達を招いて庭でバーベキューや花火をしたり、冬には餅つきをしたりした。
しかし、最近ではそんな楽しみもめっきりなくなり、もはや家に帰ることは苦痛でしかなくなっていた。
昼間でもカーテンを閉め、音を立てないようにコソコソと過ごす。父は夜遅くに帰宅すると、母の作った夕飯もろくに食べずに酒ばかり飲んでいた。
若々しく温厚だった父はいまや見る影もなく、気に入らないことがあれば怒鳴り散らし、それでも飽き足らない時には暴力を振るうようになった。
音を立てないように玄関の鍵を開け、ゆっくりとドアノブをひねる。ドアを開けると、滑り込むように中へ入って素早く内側から鍵をかけた。
室内からは声がない。「ただいま」「おかえり」の挨拶が遠慮なくできたのも、過去の話だ。
自分用のスリッパを履き、静かに廊下を歩く。
「……お母さん?」
リビングを覗き込んで、控えめに声を発した。
しかし返事はなく、リビングに人影もない。テーブルを見たが、書き置きなどもない。
「お母さん。帰ったよ」
続いて台所を見たが、やはり母・恵子の姿はない。
「お母さん……」
嫌な予感に、背筋が凍る思いがした。全身から冷や汗が吹き出してくる。
気がつけば、家じゅうを駆けずり回って母を探す自分がいた。
正通からの一報を電話で受け取った父・正二は「仕事中に何だ」と第一声で正通を叱りつけたが、事の次第を聞くと「そうか」と力なく答えた。労わりの言葉はなかった。
――見捨てられた。
正通には、そうとしか思えなかった。
優しい母が自分を置いて逃げるなど考えたくなかったが、そうとしか思えなかった。
暗い部屋でヘッドフォンを着け、テレビゲームをプレイする。
大画面のテレビに映し出される幻想世界。巨大な魔獣と勇ましく戦う自らの分身。
魔獣の背後に回って大剣で斬りかかるが、尻尾で薙ぎ払われる。いつもは難なくできていたことができず、苛立ちが募る。
やがて三十分もしないうちに正通はプレイを中断し、ゲーム機の電源を落とした。
自らの腹が鳴る音で空腹であることに気づく。鍋に湯を沸かしてインスタントラーメンを食べることにした。
材料を取り出そうとして冷蔵庫を開けると、今日の夕飯の材料だろうか、魚の切り身がチルドパーシャルに入っていた。
百グラム百四十八円のラベルが貼られた、小さなカジキマグロの切り身が三枚。
ラベルに記された加工日が今日であることからすると、母は昼頃までは家にいたようだ。家出を決断したのは、つい数時間前だとしか思えない。
自分がもう少し早く帰って来れば母を引き止めることができたかも知れない。或いは、自分も一緒に連れて行ってもらえたかも知れない。
正通はくだらない寄り道で時間を潰してしまったことを激しく後悔した。時間の価値というものが、初めて分かったような気がした。
沸騰した湯に乾麺を投じ、キャベツとニラ、小間切れの豚肉を加えて煮る。火を止めて付属のスープを入れて混ぜ、器に盛って出来上がり。
カーテンを閉め切った部屋の照明は常夜灯とテレビ。薄暗い部屋で食事をするのにもすっかり慣れた。
小学五年生ながらも栄養のバランスを考えて用意した食事は、美味くも不味くもなかった。
食事を終えて、再びゲーム機の電源を入れる。クリア間近で放置していたロールプレイングゲームをプレイすることにした。
先日、ラストダンジョン攻略に挑んでパーティーが全滅したことから、装備の見直しとレベル上げをすることにした。
戦っても損害が軽微で済む程度の敵を求め、ラストダンジョン周辺のフィールドを歩き回る。主人公のパーティーと遭遇した魔物達は有効な反撃もできずに殲滅されてゆく。
画面の中で繰り広げられる、一方的な殺戮。剣に裂かれ、攻撃魔法に砕け散り、悲鳴を上げながら絶命する魔物達の阿鼻叫喚。
パーティーの連携攻撃は魔物の群れを次々と葬り、メンバーの経験値は少しずつ蓄積されてゆく。普段であれば退屈でしょうがないはずの、単純作業とも呼べるレベル上げの戦闘。
にもかかわらず、何故か正通の表情には笑みが浮かんでいた。
戦闘が百回に達した頃でふと、正通は異変に気づいた。
何者かが玄関のドアを叩きながら、怒鳴り声を上げている。
ヘッドフォンと耳の間から漏れ聞こえるのは、何度も聞いた不愉快な声。毎日のようにやって来る、あの取り立て屋に違いない。
正通はデータをセーブすると、静かにコントローラーを置いた。ゲーム機とテレビの電源を切り、常夜灯を消す。音を立てないように、細心の注意を払った。
玄関からは罵声とドアを叩く音がひっきりなしに聞こえてくる。
いるのは一人ではない。三人の男が激しく怒鳴りながら、チャイムを鳴らしたりドアを蹴ったりしている。
ソファの下にうずくまって、耳を押さえながら恐怖に震える。自分はまだ子供だというのに、男達は容赦がない。この夜は恐怖を分かち合う母もいない。
男達が早くいなくなるのを願って、正通はただ震え続けた。
どれほどの時間が過ぎただろうか、玄関から聞こえていた声と音がぴたりと止んだ。
男達は諦めて帰ったのか? 静かに耳を澄ますと、突然、悲鳴が聞こえた。
悲鳴は一瞬だった。それから間もなく、水を打ったような静寂が訪れた。
正通の足は自然にリビングを離れ、廊下から玄関に向かった。
表で何が起きたのか、確かめずにはいられなかった。
時刻は既に午後九時を回っている。そのはずなのに、玄関からはかすかに光が漏れていた。
足音を立てぬよう静かに歩き、そっと玄関の前に立った。ドアの向こうからは物音一つしない。
正通は意を決し、サンダルを履いてドアノブに手を伸ばした。
「ヒッ……!」
突然、ドアが開いた。内側から鍵をかけていたのに、ひとりでにドアが開いた。
そして――正通は目の前の光景に凍りついた。
玄関の向こうで、取り立て屋の男達が血だまりの中に倒れている。
その傍らで喪服を思わせる黒いドレスを着た少女がこちらに背を向けて、男達を見下ろしていた。
夜空には異様に大きな月が浮かび、赤い光を放っている。空の色は、まるで血が滲んだような錆色だった。
声を出してはいけない。正通は恐怖に震える身体を必死に制御してその場を逃げようとしたが、足が自由に動かない。
静かに後ずさりしようとしたが、足がもつれてバランスを崩してしまった。
「……うわッ!」
尻餅を着くのと同時に、思わず声を上げてしまった。
全身を震わせながら玄関の向こうに立ち尽くす少女の後姿に恐る恐る視線を移した。
しかし少女は微動だにせず、動かなくなった男達を見下ろし続けている。
今のうちに室内へ逃げようとするが、腰が抜けて立ち上がることができない。
床に手を着き、仰向けに這って行こうとしたが、まるで金縛りにあったかのように体が動かない。
やがて、男達を見下ろしていた少女がゆっくりとこちらを振り向いた。
夜空に浮かぶ月と同じ色をした、赤く光る瞳。
目と目が合った瞬間、正通は思わず悲鳴を上げそうになったが、喉がこわばって声が出ない。
少女は無表情のままゆっくりと踵を返すと、正通のもとへ近づいて来る。
身動きもとれず声も上げられず、正通はただ恐怖に震えるばかりだった。目からは自然と涙が溢れ、心臓は胸の中で暴れ狂うように激しく拍動していた。
やがて、少女は正通の目の前にやって来た。
――殺される!
命の危機を感じた正通に、少女はそっと手を差し出した。
「さあ、立って」
少女は優しく微笑みながら右手を差し出した。
その手は白く細く、瑞々しい肌と指は滑らかできめ細やかで、まるで白磁の人形のそれに絹の柔軟さを加えたような美しさだった。
「……えっ……あぁ……」
訳も分からず、正通は口をぱくぱくさせて震える手を差し出した。
「……私が、怖いの?」
少女は困ったように微笑んだ。
氷の微笑ではない。温もりを感じさせる、自然な笑顔だった。
正通は少女の笑顔に少しだけ冷静さを取り戻し、小さく頷いた。
「怖がる必要はないのよ。私はあなたを助けに来たんだから」
少女は正通の左手をそっと握ると、力を加えて引こうとした。
「……ごめんなさい。起き上がるのは無理みたいね」
少女は手の力を緩めると、突然、床に手を着いて正通の身体に自らの身体を傾けた。
「お……お姉さ……!」
全て言い切る前に、正通の身体は少女の腕に抱き締められた。
「怖かったでしょう? でも、私が来たからもう大丈夫。あなたを苦しめる者はいないわ」
少女は耳元で囁くと、正通の身体をそっと抱き起こした。
少女の柔らかな胸が頬に触れた時、正通の目からは堰を切ったかのように涙が溢れ出した。思わず、自分よりも大きい少女の身体をきつく抱き締めていた。
「だから安心して……今日はもうお休みなさい。私もお家に上がっていい?」
正通は少女の胸元を涙で濡らしながら、小さく頷いた。少女の身体からは甘い香りと共に、かすかな血のニオイがした。
少女は正通の身体を片手で支えたまま、もう一方の手で靴を脱いだ。
膝の下まである黒い編み上げのブーツを脱いだその下には、黒いストッキングを履いた長い脚があった。
腿から爪先までの見事な曲線を描く脚の美しさに正通は思わず見とれた。
「……もう」
正通の視線に気づいた少女は恥ずかしそうに微笑むと、右手で肩を支え、左手を膝の下に入れて正通の身体を持ち上げた。俗に言う『お姫様抱っこ』だった。
自分より二回りほど大きいとはいえ、華奢な体格の少女が自分を軽々と持ち上げたことに正通は驚いた。
「ベッドまで連れて行ってあげる。あなたのお部屋はどこ?」
「……二階です」
正通はようやく、まともに口が利けるようになった。
「そう、分かったわ。それじゃ……お邪魔します」
少女は穏やかな微笑みをたたえたまま、正通を抱いて廊下の近くにある階段を静かに上った。
少女に運ばれながら、正通は自然と目を閉じた。身体に伝わる少女の温もりが、宙に浮かぶような感覚が心地良かった。




