「ファンクラブをつくろう!」(1)
「梓はさ、江原君のことどう思う?」
「えっ、何?」
教室から聞こえてくる話し声に正通は足を止めた。
――僕のこと、話してる……?
放課後の学校。忘れ物を取りに教室へと戻って来た時のことだった。立ち聞きするなど良くないとは思ったが、話の内容が気になった。
「だからさ、江原君って梓のこと好きみたいじゃない? 梓はどう?」
その言葉に、正通の心臓が大きく脈を打った。
「えっ……! そうなの、瑞樹ちゃん?」
「うそぉ! 気づいてなかったの、梓? 信じらんない、マジで鈍感すぎない?」
教室にいるのは藤原梓と篠谷瑞樹のようだ。
――バレてたのか……。
恥ずかしさで赤くなった正通の顔を、夕陽が更に赤く染めた。
「で、でも……江原君、私に『好きだ』とか言ったことないよ?」
室内から「がたっ!」と音が聞こえた。
「あ、梓……本気で言ってるの?」
「えっ……変かな?」
しばらくの間、室内からは声が聞こえなくなった。瑞樹が梓に呆れているのだろう。
梓に対する自分の好意が周囲にばれていた恥ずかしさを忘れ、正通は可笑しさを必死でこらえていた。
「変だから! おかしいから! 梓って……ホント、そういうの疎いよねー」
正通の心臓が再び高鳴る。そう、正通は彼女のそんなところに惹かれていた。
梓は親友である活発な瑞樹とは対照的に、大人しい少女だった。
正通が同級生・藤原梓と最初に会話らしい会話をしたのは、クラス替え後の委員会活動でのことだった。
二人は共にクラスの風紀委員を務めることになり、その最初の仕事として職員室へ書類を取りに行くことになった。
梓は浮かない顔だった。正通同様、「真面目そうだから」という理由で半ば押し付けられるように与えられた役割だった。
「あ……あのさ、藤原さん」
職員室に向かう廊下を歩きながら、正通は思い切って梓に話しかけてみた。
「何、かな……江原君」
梓はおずおずと返事をした。
「あのさ……僕も、やるんだったらもっと楽な仕事の方がいいと思うんだけど」
「うん……」
話しかけたはいいが、先が続かない……。正通は気まずい沈黙に耐えた。
「何ていうかその……せっかく同じ委員になったわけだし」
「うん……」
何を伝えたいのか分からない、正通の言葉。梓は下を向いたままだ。
――どうしよう……この後、何て言えばいいんだろう……?
そうこうしているうちに、職員室の前まで来てしまった。
正通は意を決して、口を開いた。
「……ふ、藤原さん。風紀委員なんて楽しい仕事じゃないけど、任されたからには……これは藤原さんと僕にしかできない仕事なんだって、みんなが思うくらいに頑張ろうよ。確かにみんな……面倒な仕事をしたくないっていうのもあるだろうけど、藤原さんなら任せても大丈夫だっていう期待もあったと思うんだ。だから……」
梓は歩みを止め、顔を上げて横を歩く正通の顔を見た。
正通もまた歩みを止め、しばし二人は見つめ合った。
正通は言葉を失った。
梓の可愛らしさに気づいたのは、この時だった。大人しく、どちらかと言えば地味な印象を与える彼女だったが、近くで見れば髪は美しく、整った顔立ちをしていることが分かる。
他の男子は、おそらく彼女の魅力に気づいていないだろう。優越感にも似た思いが沸き起こった。
やがて、梓が嬉しそうに微笑んだ。
「……うん、そうだね。せっかく任されたんだから、頑張らなくちゃ!」
正通は梓の言葉に笑顔で頷き、応えた。
「ありがとう、江原君」
「いや……お礼なんて」
正通は頬を赤らめて目を逸らした。梓に対して、素直に好感を抱いた。
それからというもの、正通は委員会活動が楽しくなった。
誰もやりたがらない服装のチェックや遅刻の取り締まり、放課後の見回りに掲示板の管理。二人はそれらの活動を積極的にこなしていった。
梓は控えめで優しく、気配りの行き届いた少女だった。正通は彼女とうまく役割を分担し、いつも滞りなく仕事を済ませることができた。
委員会活動を通じて、必然的に正通と梓が二人で過ごす時間は増えてゆく。梓は正通に対して自然な笑顔を見せるようになっていった。
放課後は一緒に帰ることも多くなり、正通は梓の笑顔を見る為に色々な話をした。
……そして、いつしか梓を好きになっている自分に気がついた。
「でさ、どうなの?」
「ど、どうって言われても……」
正通には室内の様子が手に取るようにわかった。
梓が恥ずかしそうにうつむく姿が、ありありと思い浮かぶ。正通は梓と想いを共有するかのように、自らもうつむいた。
「江原君って背は低いけど顔は悪くないし、頭もいいじゃない。私は、お似合いだと思うけどな。梓だって嫌いじゃないんでしょ? 江原君のこと」
「そ……それは、そうだけど。江原君は優しくて、真面目だし。いい人だよ」
正通は顔を上げ、思わず両手で心臓を押さえた。
「もーっ、そうじゃなくて! ぶっちゃけ、梓は江原君のこと……好きなの?」
「そ、そんな……急にそんなこと言われても、私……!」
梓の困惑した様子が声からも伝わってくる。しかし、決して嫌がっている様子は感じられない。
「じゃあ、嫌いなのぉ?」
「そんなことないよ!」
梓は間髪入れずに否定した。
正通の胸は期待に膨らんでいた。瑞樹がクスリと笑う声が聞こえた。
「もうさ……思い切って、付き合っちゃえば?」
「えっ……? えぇぇぇぇっ!」
悲鳴のような声の後、不意に室内が静かになった。
正通は気づかれないように、ドアの隙間からそっと様子を窺った。
夕陽に染まった教室で、梓と瑞樹が机を挟んで向かい合っている。梓は片方の手を胸に当て、恥ずかしそうにうつむいていた。
――恥ずかしがってる藤原さんも、可愛いなぁ……。
やがて、梓が徐に口を開いた。
「……あのね、瑞樹ちゃん」
「何、何?」
瑞樹は机に身を乗り出して耳を近づけた。
「……瑞樹ちゃん、だから言うけど……私も……江原君のこと……」
正通は口に手を当て、声が出ないように必死でこらえた。心臓の動きが急速に活発化し、沸き立つような熱い血が全身を駆け巡るのを感じる。
――藤原さんも、僕のこと……!
「だったらさ、もう告白しちゃえば?」
「そそ、そんなこと言われても。私、どうしたらいいか分からないし。それに……まだその、こ……恋人、とか……早過ぎると思うし」
梓は顔を真っ赤にして、しどろもどろに答えた。
「早過ぎるって、私達もう中二だよ? ここで彼氏作っておかないと、高校に上がるまでこんなチャンスないと思うけどな。それとも、何か江原君とは付き合えない理由でもあるわけ?」
瑞樹に問い詰められ、梓は押し黙ってしまった。正通は梓の姿から目が離せなくなっていた。
「……あのね、瑞樹ちゃん」
ようやく梓が口を開いた。しかし、その顔には自然な微笑みが浮かんでいた。
「その、私は……もう少しだけ、このままの関係でいたいの」
「何、何? 友達以上恋人未満ってやつ?」
瑞樹は身を乗り出しながら、面白そうに問いかけた。
梓は再び口をつぐんだが、やがて握り拳を手に当てて大きく深呼吸した。
「その、何ていうか……江原君とは少しずつ距離を縮めていきたいの。私は今の、少しずつお互いのことを知っていく関係が……いいの」
「うーん……そういうもんかな?」
瑞樹が小首を傾げて椅子に座り込むと、梓はふふっ、と笑った。
「お互いのことを知る……かぁ。うん、梓らしいって言えば梓らしいかも」
「うふふふ。そう思う?」
梓の笑顔を見ているうちに、ふと自分が恥ずかしくなった。自分から彼女の気持ちを確かめる勇気がないから、こんなことをしているのだろうか。
急に自分が情けなく思えてきた。
――行こう。藤原さんの気持ちが分かったんだから。
忘れ物をしていたこと自体を忘れ、正通は静かに踵を返した。
「ねえ、瑞樹ちゃん。そういえば……江原君ってどこの小学校だったか知ってる?」
その場を立ち去ろうとした正通の足が止まる。
「えっ? うーん……そういえば、どこなんだろね。うちのクラスでも同じ小学校だったって人、いないよね」
正通は思わず唾を飲み込んだ。全身からじわり、と嫌な汗が吹き出すのが分かった。
「っていうか……梓は江原君とそういう話、しないの?」
「うん。江原君とは色々お話するんだけど、中学より前の話って、あまりしたことないの」
梓と瑞樹の何気ない会話を耳にしながら、正通は身体を小刻みに震わせていた。
「そっか。ひょっとして、そういう謎めいたところが好きだったりするわけ?」
「そういうんじゃないけど……でも、言われてみると……確かに江原君って他の男の人にはない雰囲気があるかも」
梓の何気ない言葉に、正通の心臓が異常なまでの反応を示した。胸の中で大きな虫が暴れているような、耐えがたい苦しさを覚えた。
「へぇーっ、どんな?」
「何ていうか、ちょっと大人びてるところがあるっていうか。たまにね、表情に影が差すような時があるの」
梓の口調に悪意は感じられなかった。むしろ、そこには年上の男性に対する憧れのようなものが含まれていた。
「大人びてる……かぁ。そう言われると、何か見る目が変わってきちゃうかも!」
「今度、ゆっくり聞いてみたいな。江原君が小学生の頃の話とか、小さい頃の話とか――」
正通はこらえ切れずにその場を逃げ出し、急いでトイレに駆け込んだ。
トイレの個室で激しく嘔吐しながら、正通はひたすら過去の悪夢と戦った。
自分が惨めだった。
過去の話を好きな人とすることもできない自分。あの時のことを思い出すだけで、平常心を失ってしまう自分。
自分が清純な梓には釣り合わない、ひどく汚れた存在のように思えた。
父の言葉に従った、あの時の自分が憎くてたまらなかった。何故、あんな提案を受け入れてしまったのだろう?
――なんでだよ。なんで……なんで?
「なんで……!」
そう口走った瞬間、正通は周囲の異変に気づいた。
「……おい、江原。よりにもよって『なんで』とは何だ?」
「……あれ……?」
周りでは高校の制服を着た生徒達が机に向かっている。その多くがこちらを見て、くすくすと笑いを漏らしていた。そして、すぐ前で物理教諭の八重樫が呆れ顔で自分を見下ろしているのがわかった。
「まったく、居眠りなんてお前らしくないな。もっかい言うぞ。あの問題、前に出て解いてみろ。『なんで』は通用しないからな!」
生徒達の笑い声が教室に鳴り響いた。
「は……はい、すみません……」
何とかそれだけ答えて席を立とうとすると、急な眩暈が正通を襲った。
「江原君! 大丈夫?」
後ろの席の長谷川が声をかけた。
「う、うん。大丈夫だから……」
額を押さえながら崩れる正通の身体を、八重樫が慌てて支えた。
「……顔色が悪いな。誰か! 江原を保健室まで連れてってくれないか」
「それじゃ、僕が!」
保健委員よりも早く声を上げたのは長谷川だった。
「おっ、そうか。頼んだぞ」
「はい。行こう、江原君。立てる?」
長谷川が席を立ち、肩に手をかける。離れた席の吉岡が心配そうにこちらを見ているのがわかった。
「うん……ありがとう」
口ではそう言ったものの、周りの音が耳の中で激しく反響し、視界が安定しない。
一人では立ち上がることも困難で、長谷川に肩を借りてようやく席を立つことができた。
「ありがと、長谷川……」
「いいから。ゆっくり歩くよ」
長谷川は正通の背中から腕を回して脇の下に通すと、腰に力を込めて慎重に歩き出した。
大人しい長谷川が最初に声を上げ、肩を貸してくれたことが正通には意外だった。
華奢だと思っていた長谷川の身体が頼もしく、力強く感じられた。




