「La Strada (ラ・ストラーダ)―道―」(3)
「はっ!」
正通は肩で大きく息をしながら、渾身の正拳突きを繰り出した。
「動きが大振りになってきたよ、江原くん」
陽子はポニーテールにまとめた髪を揺らしながら正通の攻撃を難なくかわし、余裕の態度を見せる。正通が汗だくになっているのに対し、陽子は汗一つかいていなかった。
――何で、何で当たらないんだ?
正通が繰り出した攻撃を陽子は全てかわしていた。それも、必要最小限の動きで――。
陽子は道着に着替えて三階のスタジオ兼道場で正通に稽古をつけていた。
長坂は最初の数分だけ一緒にいたが、その後は書類整理の為、一階に戻ってしまった。
「いい? 攻撃の『目的』はあくまで、相手にダメージを与えること。突きも蹴りも、ダメージを運ぶ為の運搬手段に過ぎないってことを、忘れちゃ駄目よ」
陽子が話している間に正通は二発の突きと一発の回し蹴りを繰り出していた。
陽子は全ての攻撃をギリギリでかわすので、攻撃する側は追撃を加えれば当てられるのでは、との期待を持ってしまう。
「はーっ、はーっ……!」
しかし、それが陽子の策だった。
攻撃の手数を増やせばその分、体力は消耗する。僅か三分足らずで正通は息も絶え絶えになっていた。
「そろそろ、カラータイマーが点滅する頃ね。スペシウム光線を放つエネルギーは残ってる? 八つ裂き光輪でもいいけど」
――『八つ裂きコウリン』って、何だろう……?
特撮にあまり興味がない正通は、陽子が口にした残酷な必殺技を知らなかった。
「どうしたの? ほら、来なさいよ、江原くん」
汗一つかかず、余裕の態度で自らを翻弄する陽子に、怒りが湧いた。
「くそぉッ!」
正通は陽子の顔面に向けて、鋭いフックを繰り出した――!
「……神岡さん」
「何? 江原くん」
二人は互いの名を呼んだ。
正通の瞳に陽子の姿が、陽子の瞳に正通の姿が映り込んでいる。
「ど、どうしてッ……、よけないの?」
怒りと困惑を押し殺しながら、呼吸も荒く正通が問いかけた。
正通の拳は……陽子の顔面から二センチ離れた空間で止まっていた。
「簡単なことよ。君には私を殴れないって分かっていたから」
「……ッ!」
正通は息を呑み、思わず拳を引いた。
「君は前に言ったね。『女の子を殴れるわけないじゃないか』って」
陽子は冷たい目で正通を見据えていた。これは……アイドル・神岡陽子の目ではない、処刑人・マリュートカの目だ。
「だから……僕の攻撃をかわそうとしなかったの?」
陽子の瞳に底冷えするような寒気を覚えながら、正通は幾分呼吸を整えて再び問いかけた。
陽子は目を閉じて、髪をまとめていた赤いリボンを解いた。
「まあね。それに……君は私が攻撃をかわす度にホッとしてるんだもの」
目を開いた陽子の瞳には人間味が戻っていた。
「……だって……」
「『だって』じゃないわ。身体を鍛えるのも大事だけれど、どうやら君には意識改革も必要みたいね」
陽子の態度は、まるで弟を叱る姉のようだった。
もっとも、一人っ子の正通と陽子には、そんな感覚は分からなかったが……。
「組手はまた後でやるとして、ランニングにでも行きましょう。外に出る用意をして」
「はーい……」
正通は憮然とした表情のまま、顔の汗をタオルで拭った。
「……それと、江原くん」
「何?」
陽子は背中を向けたまま、話しかけた。
「私と武井さんが女の人を殺したことがある……って言ったら、軽蔑する?」
「えっえっ……まさか、そんな! だって……殺したのは悪い人なんでしょ?」
正通は動揺を隠し切れず、上ずった声で逆に問いかけた。
「そりゃあ……ね。たまにいるのよ。信じられないようなことをする、凶悪な女の犯罪者がね」
「だったら……!」
正通がそう言いかけると、陽子は振り返って正通の目を見た。
「それじゃ、君にもそれができる? 女の子を殴ることもできない自分が、一年後には女の人を殺せるようになれると思う?」
「……えっと、それは……」
陽子の澄みきった瞳の奥に、どんな感情が隠れているのかわからなかった。
進んで影の世界へ足を踏み入れようとする自分への憐れみか、叱咤なのか。或いは、既に影の世界の住人となった自分自身を憐れんでいるのか……
「まあ、いいわ。先に下に降りてるから」
陽子はそう言って踵を返し、階段へと向かった。
「うん……分かった」
正通は短く答えると、陽子が階段を下りたのを確認してから帯をほどき、上衣を脱いだ。上半身は汗まみれだった。
タオルで全身の汗を拭い、鞄に手を伸ばした。中にはスポーツドリンクの入った水筒がある。
「あ……」
鞄の中にしまっていた、ペンタメローネのニューアルバムのチラシが目に入った。今回のアルバムには正通が愛してやまない、あの『ドロメアス』が収録されている。
――発売日が楽しみだなぁ。
先程の会話のことなど忘れたかのように、正通は顔を綻ばせた。
既にCDショップには予約を入れてある。初回特典にPV集が付くのも嬉しい。
しかし、チラシに書かれた『ドロメアス』という文字を見ながら、正通はふと思い出した。
その曲が、ドロメアスという名の美しい鳥の変貌と破滅を描いた物語であることを。
一羽の美しい鳥の……一人の美しい女の変貌と破滅を描いた物語であることを……。
「う~ッ……!」
ペダルを漕ぐ脚が悲鳴を上げる。
今日は十五キロ走らされた。身体中が乳酸漬けで、どこを動かしてもぎくしゃくする。
これから更に訓練が厳しくなるのだと考えると頭痛までして来る。
……が、身体を鍛えてもらえる上に高い時給をもらい、合間には事務や営業の仕事も教えてもらっている。こんなアルバイト先は他にはないだろう。
正通は自分の師である長坂やユミの楽しそうな顔を思い浮かべ、思わず苦笑した。
自転車が杉並区と自宅のある練馬区との境を超えようとした時のことだった。
「…………?」
自然と足が止まった。
どこかから、歌声が聞こえたような気がした。
突然、全身が震え出す。鼓動が早まるのを感じる。
気が付けば、足が勝手に動き出してペダルを漕いでいた。
声の聞こえる方へ、あの声の源へ――。
正通は息を切らしながら、自転車を走らせた。
辿り着いた先は、杉並区内にある大きな公園だった。
暗闇の中、来訪者を飲み込まんばかりに枝葉を広げる木々の威容に正通は息を呑んだが、やがて自転車を降りると吸い寄せられるように園内へ足を踏み入れた。
正通は林の中をひたすら走った。全身を覆う痛みのことも忘れていた。見えない何かに突き動かされるようなこの感覚を、正通は一度だけ体験している。
次第に声が近づいてくる。声の源へ近づいてゆく。その声がはっきりと聞こえるにつれ、鼓動は更に高まっていった。
そして……林を抜けた先で正通は足を止めた。
月の光を受け、池の畔に少女が佇んでいた。その口から発せられるのは、潤いのある伸びやかな声で奏でられる、聴いたことのないメロディ。
まるで金縛りにあったかのように、正通はその場を動けなくなった。
視線の先の少女は喪服を連想させる黒いドレスを身に纏っていた。月明かりに照らし出されたその姿は、まるで自ら光を放っているかのようだった。
光沢のあるベルベット生地で仕立てられたドレスは少女の素晴らしいプロポーションを際立たせていた。
トップスの上からでもはっきり分かる、豊かな胸と細くくびれた腰のライン。フリルの付いたスカートからは黒いストッキングに包まれた長い脚が見える。
胸元を飾る白のリボンとフリルを彩る銀色のパイピングが、黒ずくめの衣装にアクセントを加えていた。
正通は少女の美しさに心を奪われた。
絹糸のような光沢を放つ長い黒髪と、月の光を柔らかく反射する白い肌。
繊細な顔立ちの中でも一際目を惹く、長い睫毛に飾られた切れ長の目――。
その美しさは実在の人間はもとより、絵画や彫刻のそれをも遥かに凌駕しているように思えた。
少女は唄っていた。聴いたことのない不思議なメロディを、潤いのある伸びやかな声で奏でていた。
二人を隔てる距離は十メートルもないと言うのに、少女は正通の存在に気づいている様子はなかった。
少女の横顔を見ているうちに――少女の顔を正面から見たいと思った。
確かめたかった。自らが憧れるあの人に、あまりにもよく似た少女の正体を――。
正通が一歩、踏み出そうと足に力を入れたその時、少女が歌を口ずさんだまま、ゆっくりとこちらを向き始めた。
正通は再び、金縛りにあったかのように一切の身動きが取れなくなった。
視界に入った少女の瞳はまるで赤い月のような、不気味な光を放っていたからだ。
少女が振り向くまでの時間が、異常に長く感じられる。数十秒にも思える時間の後、少女の瞳が正通の姿を完全に視界に捉えようとした――。
「ちょっと、君!」
突然、背後からの呼びかけと共に、肩に手がかけられた。
「…………ッ!」
正通は反射的にその手を払いのけ、瞬時に二歩退いて身構えた。
「うッ……ちょ、ちょっと……!」
思いがけぬ反応に驚いた青年は眉をひそめて再び声を発した。
紺色の制帽に防刃ベスト、水色のシャツ。まだ二十代前半と思しき、巡査の階級章を着けた警察官だった。
「……ご、ごめんなさい! びっくりして、その……」
慌てて頭を下げる正通を前に、巡査はため息をついた。
「こんな時間に何をしてるの。入り口に止めてあった自転車、君のでしょ? ほら、早く家に帰りなさい」
「はい……すみません」
正通は肩をすくめて謝ってから、ふと後ろを振り返った。
池の畔には誰の姿もなかった。
「あれ……?」
「どうしたの」
巡査は面倒くさそうに声をかけた。
「いえ、そこに人がいたんですが……」
「誰もいないじゃないの」
首を傾げる巡査を見て、正通は思いを巡らせた。
彼は自分の背後からやって来た。であれば当然、少女の姿が見えていたはずだ。
それだけではない。あの歌も聴こえていたはずだ。それなのに……。
「あの……ここに来るまでに何か聞こえませんでしたか?」
正通の問いかけに巡査は怪訝そうな表情をした。この反応は……。
「いや、何も聞こえなかったけど」
――僕だけにしか見えなかった。僕だけにしか聴こえなかった……そんなことがあるんだろうか?
背後から聞こえる巡査の声を無視して、正通はただ呆然と立ち尽くしていた。
自分が見たのは、幻だったのだろうか。あの少女は……自分の憧れが具現化したものだったのだろうか――。




