「Step up」(2)
昇降口に、色とりどりの短冊が飾られた笹飾りが置かれていた。
陽子はその前で立ち止まり、今日が七夕であることをようやく思い出した。
「おはよう、陽子ちゃん。何見てんの?」
陽子に声をかけたのは、同じクラスの平山明美。栗色の髪のショートカットが似合う可愛らしい少女だった。
「あっちゃん、おはよう。ちょっと、ね」
陽子は気のない返事をして、再び笹飾りに目を移した。
「七夕の短冊かぁ……」
明美が陽子の隣に並んで笹飾りを眺める。
あまり深い付き合いの友人がいない陽子にとって、明美は話しやすい相手だった。あだ名で名前を呼べるのも、今のところ彼女だけだ。
それぞれの短冊には「志望校に合格できますように」「全国大会に行けますように」といった高校生らしい願い事に加え、恋愛や将来の夢など、思い思いの願い事が書かれている。
「私は『新しい楽器が部室に入りますように』って書いたよ。陽子ちゃんは何て書いたの? 教えて、教えて」
「私は……今年の夏が暑くなりませんように、って」
陽子は数秒の間を置いてから、にっこり笑って答えた。
「何それー。つまんない」
明美が笑いながら陽子のブラウスの袖を引っ張る。
「ふふっ。今年の夏が涼しかったら私のおかげだよ。その時は感謝してね」
「その代わり、今年も暑かったら何かおごってね、えへへっ」
一しきり笑った後、陽子は明美に背中を向けた。
「先に教室行ってるね、あっちゃん。宿題がやりかけなの」
「うん。あたしは部室に寄って来るから。また後でね!」
陽子は明美に背を向けて歩きながら、手を振って応えた。
昇降口から歩いて他の生徒がいない場所まで来ると、陽子はスクールバッグを開けて赤い短冊を取り出した。
――武井さんが帰ってきますように――
短冊に書いた願い事を見ているだけで、涙が溢れ出した。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……」
「立てっ! もう一度、向かって来い!」
正通は投げ飛ばされた痛みと筋肉痛に悲鳴を上げる身体を奮い立たせ、長坂の腰目がけてタックルを仕掛けた。
長坂はあまりに直線的なその動きを瞬時に読み取り、足払いをかけた。
「うぁっ!」
身体がひっくり返り、前転宙返りの格好になる。
辛うじて受け身をとるが、背中が床に叩きつけられて一時、呼吸困難に陥った。
「げほっ、ごほっ……!」
「馬鹿野郎ッ! 受け身をちゃんと取らないからだ! 何度倒れてもいい。しかし受け身だけはきちんと取れ! わかったか、このボケ!」
時刻は午後五時を回っていた。正通は筋力トレーニングの後、格闘訓練に励んでいた。
「は、はい……!」
正通は一つ面白いことに気づいていた。
口汚く罵声を浴びせる長坂だが、それでも自分を呼ぶ時には必ず『江原君』と呼ぶのだ。
「どうした! 君の覚悟はそんなもんか、江原君! とっとと立ち上がれ!」
「はっ、はい……長坂さん」
闘志にみなぎる正通の目を見た長坂は「ふん」と鼻を鳴らす。
「いい目だ。だが、実力がまったく追いついてないな。まだまだこれからだぞ!」
「はい! よろしくお願いします!」
タックルを仕掛けてはかわされ、投げ飛ばされ、立ち上がってはまたタックル。
パンチやキックは許されず、とにかくタックル。この奇妙な格闘訓練は午後九時過ぎまで続いた。
「ねえ、陽子ちゃん。今度の日曜日、空いてる?」
「えっ……?」
放課後、帰り支度をしている陽子に明美が声をかけた。
「遊園地、行かない? フリーパス、もらったの。伊藤さんと宏美も一緒なんだけど」
「えっ、遊園地……?」
陽子が何気なく視線を動かすと、明美のすぐ後ろで学級委員長の伊藤真紀と、明美と同じ管弦楽部に所属する扇谷宏美が笑顔で手を振っていた。
真紀はボブカットで眼鏡をかけた、一見物静かな印象を与える少女だが性格は明るく、何事にも積極的なことで生徒・教師達からの人望も厚い。
宏美は髪をポニーテールにまとめた小柄な少女で、口数は少ないがいつもニコニコしているのが印象的だ。明美が言うには、フルートの腕前はかなりのものらしい。
「ごめんね、あっちゃん。その日は予定が入ってて……せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」
「なんだぁ、そう。どこかでイベント?」
明美は陽子がアイドルとして活動していることを知っている。
そもそも、陽子はそのことを隠していないのでクラスの生徒全員が知っている。
「そういうわけじゃないんだけど……その日は空けておくように事務所から言われてるの。伊藤さんに扇谷さんも、ごめんね」
陽子が手を合わせて謝ると、真紀は両手を握り締めてはしゃいで見せた。
「かっこいいー! 『事務所』だって! いいなぁ、私もそんな台詞、言ってみた~い!」
真紀のはしゃぎように、陽子を含めた三人が笑みをこぼす。
「うーん、伊藤さんが想像してるのとだいぶ違うと思うけどね。私、人気ないし」
そう言った途端に、周りの空気が重くなる。
「神岡さん、綺麗なのにね。歌もうまいのに……この間の研修旅行。帰りのバスで神岡さんが唄ったら、すごく盛り上がったよね」
宏美がその小さな唇から声を発した。重い空気が少しだけ軽くなった。
「ありがとう、扇谷さん。でも、私よりずっと綺麗で歌がうまい人は沢山いるから、もっと頑張らなきゃ」
「ああ! 疾風なつき、とか?」
陽子は思わずどきっとした。
先日のスクラップヤードでの戦闘が脳裏に蘇った。
「やっぱりペンタメローネは凄いよね。この間のライブも凄かったって、先輩が言ってたよ」
真紀が話に喰いついてきた。
「チケット取れたんだぁ。いいなぁ、あたしも行きたかったの」
宏美がうらやましそうに言った。
明美達三人がペンタメローネの話で盛り上がる中、陽子は一人、俯いていた。
「神岡さん?」
不意に肩を叩かれ、陽子が驚いて顔を上げると、三人が心配そうに見ていた。
「ねえ、神岡さん。どうしたの?」
肩から手を離し、真紀が尋ねる。
「う、うん。ちょっとボーッとしちゃって。それで何の話だっけ?」
陽子は気を取り直して笑顔を見せ、再び話に加わる。
「今度発売される、ペンタメローネのアルバムの話してたの。これまでアルバムに入ってなかった曲が収録されるんだって」
明美が嬉しそうに語る。
「あ、そう……何て曲?」
陽子は何の気なしに曲名を尋ねた。
「『ドロメアス』。知ってる?」
「…………!」
陽子はたちまち、表情をこわばらせた。
この曲名を聞いただけで、武井が去って行ったことを思い出してしまう。心の中で様々な感情がない交ぜになって、理性と激しくぶつかり合う。
「陽子ちゃん、買う? 初回版にはPV集が付いて来るんだって」
陽子は目を伏せ、椅子から立ち上がった。
「私……買わないわ。あの曲、好きじゃないから」
「そう? まあ、嫌いな人も多いからね、あれ」
陽子はそれに応えず、スクールバッグに荷物を詰め始めた。
「……それじゃ、私はもう行くね。誘ってくれてありがとう。またね」
精いっぱいの笑顔を見せ、陽子は足早に教室を出て行った。
「陽子ちゃんもアイドルだから、他のアイドルの話ばっかりされて嫌だったのかな?」
明美がそう言うと、真紀は「そうだね、きっと」と答えた。
「そうかな。多分、違う気がする……」
宏美は陽子がいなくなった机を見つめながら呟いた。
「おはようございまーす」
いつもより小さな声で挨拶をし、陽子は事務所の玄関を開けた。
「おはよう、陽子ちゃん」
「おはようございます、ユミさん。いるのはユミさんだけ?」
ユミはふふっ、と笑って天井を指差す。
三階のスタジオ兼道場から、勇ましい掛け声と共にミットを叩く音が聞こえてくる。
「長坂さんが稽古をつけてるの?」
「うふふ。ヒデちゃんだけじゃないわよぉ。アンドレ君に幸ちゃん、社長まで。なんだかみんな、すごく張り切ってるの」
ユミは楽しそうに笑った。
「そらっ、どうした! もっと強く打ち込んで来い!」
ミットを構えた長坂が大声を上げる。正通は息を切らしながら、それでも左右のパンチとキックを交互に繰り出していた。
「馬鹿野郎! こんなものが効くか! もっと強く打ち込め!」
道着を着た岩本達に囲まれて、正通はひたすらパンチとキックのミット打ちを続けていた。
今日の練習メニューは過酷だった。
準備体操が終わると岩本による柔術の稽古が始まり、その後でミット打ち。それが終わればアンドレと鈴木との組手。
そしてまた、正通は長坂とミット打ちをしていた。
一見めちゃくちゃに見える練習メニューだが、『格闘訓練に規則的なものを取り入れてはいけない』が岩本の持論だった。
打ち込みの練習が終わり、息を切らして膝を着く正通の前に岩本が現れる。
「立ちなさい、江原君。今度は私が稽古をつけよう」
「はっ……はい! お願いします!」
岩本が長坂の方を向くと、長坂は無言で頷き、二人の近くに立った。
「はじめ!」
「おはようございまーす」
長坂の号令の直後に、制服姿の陽子がドアを開けて顔を出した。
「あ、神岡さん――」
「どこを見ているんだ」
次の瞬間、正通の身体が宙を舞う。見事な一本背負いだった。
「くッ!」
左手で畳を叩き、受け身を取る。
しつこいくらいに練習をさせられたおかげで、無理な体勢からも受け身が取れるようになっていた。
「立ちなさい、江原君。神岡君も来たか。少し休憩にしよう。話があるんだ」
「話……ですか?」
陽子がきょとんとして尋ねる。
岩本は陽子に頷いてみせると、正通の腕を引いて起こした。
「大したことじゃない。今度の日曜日、遊園地に遊びに行って来なさい。江原君と二人でね」
「えっ……?」
正通と陽子は同時に声を発し、顔を見合わせた。




