「Step up」(1)
「ハッ、ハッ、ハァッ……!」
男は息を切らしながら闇の中を走っていた。
二人いた仲間はもういない。彼には、自分達の身に何が起きたのか理解できなかった。
先日、金を出し合って買い取った、渋谷区内の使われていない六階建てビル。
事務所にする予定の最上階の部屋で酒を飲みながら今後の利用法を話し合っていたら、突然電気が消えた。
ブレーカーを確認しに席を立った仲間が突然倒れ、彼に近づいたもう一人の仲間も呻き声を上げてその場に倒れた。
一人残された男は、地面に這いつくばって部屋を抜け出し、階段へと向かった。
それでも何者かが執拗に自分を追って来る。彼は恐怖のあまり失禁していた。
手探りで闇の中をかけずり回り、ようやく階段の前へ来る。
手すりを掴もうとして壁に手を伸ばすと、柔らかいものに触れた。
それが人間の手だと分かり悲鳴を上げながら引っ込めようとしたが、その手は凄まじい力で男の手を捉え、離さない。
「あッ、ああぁッ……!」
手の甲が、指が軋む。数秒後には、音を立てて骨が砕けた。
「ぎあぁぁぁぁぁッ!」
暗闇の中に男の悲鳴が響き渡る。
「ちッ、畜生! 誰なんだ、てめェェ! 俺に何の恨みがあって……」
そう言って、はたと気づいた。
人から恨みを買うことは数知れず……とうの昔に極楽へ行くことは諦めた。この男は、自分に恨みを持つ誰かが放った刺客だろう。
「そんな台詞は身に覚えのない人間が言うものだ。神岡梨緒……この名前を覚えているか?」
男が少し考える素振りを見せると、刺客は捉えたままの手をくるりとねじる。
それだけで手首の関節が砕けた。
「あぁぁぁぁ! やめてくれぇぇぇッ!」
「自分で殺した人間の名前も覚えていないのか、ゴミめ」
情けない叫び声を上げる男に対し、刺客は吐き捨てるように言い放った。
「あぁっ、あぁっ……もう、やめてくれよぉ、お願いだッ……!」
息も絶え絶えに言う男の手を離し、刺客は男の首を掴んだ。
「『ごめんなさい』はどうした?」
「ご、ごめんなさい……」
その瞬間、首を掴んだ手に力が込められる。
「がっ、カハァ……ゲェッ……!」
「私に謝ってどうする。これまでに殺した全ての人に謝れ。お前のせいで大切な人や財産を失った全ての人に謝れ。全員の名前を思い出して謝れば、楽に殺してやる」
言い終わると刺客は手の力を緩め、男を見下ろした。暗闇の中で、その双眸だけが冷たい光を放っていた。
「ゲホッ、ゴホ……えっ……あっ……」
男は口ごもった。名前など――ろくに覚えていなかった。
「覚えていないのか。やはりクズはどこまで行ってもクズだな」
「あっ……あぁぁ……!」
ようやく暗さに慣れた男の目に、刺客の顔が映り込む。その冷たい瞳の奥に、青く燃える炎が見えたような気がした。
それが――男が最後に見たものとなった。
それから数時間後、ビルの最上階が全焼し、焼け跡からは三人の死体が発見された。警察と消防は当時の状況から煙草の不始末が原因と判断した。
翌日の新聞には、この火災が小さく報じられていた。
「百二十二! 百二十三! 百二十四! どうした、しっかりしろ!」
「は……はい……!」
正通はぷるぷると震えながら腕を曲げ、胸とあごを床に近づけた。
「よーし、百二十五! 百二十六! おい、休むな!」
長坂の怒鳴り声が耳にびんびんと響く。
事務所の三階にあるスタジオ兼道場。
正通は全身に汗をかきながら筋力トレーニングに励んでいた。
背筋、腹筋、スクワットに腕立て伏せ。これといったスポーツをやっていない正通には過酷な練習メニューだった。
しかも、彼は陽子のアパートから事務所まで、八キロの道程を自転車で走破した後である。
「百二十七! 百二十八! ペースが落ちてるぞ! しっかりしろ!」
「ハッ……はいっ……んぐぐ……」
乳酸漬けの身体に力と神経を行き渡らせ、正通は必死に規定の練習をこなしていた。
「よし、二百! 小休止!」
「はっ、はい……」
水筒に入れたスポーツドリンクを一口飲むと、不意に嘔吐感がこみ上げてきた。
「吐くな、馬鹿野郎! 飲み込め!」
長坂の怒声に、胃から逆流して来た今日の昼食を必死で飲み込む。目を白黒させながら両手で口を押さえていると、鼻から反吐の一部が噴き出してきた。
「んぐ! むぐぐ……!」
「鼻も押さえろ! しばらくすれば落ち着く!」
――そんな無茶な!
……と、言いたくても言えない。口から手を離せば、一気に吐き出してしまう。やむなく片方の手で鼻をも押さえる。
呼吸もままならない状態が三十秒ほど続き、意識を失う寸前でようやく逆流して来たものを全て飲み下した。胃液で焼かれた食道と舌が痛んだ。
「よーし、水を飲んだらランニングだ!」
「えッ……?」
再び嘔吐感がこみ上げ、正通は必死で口を押さえた。
その後、正通は十キロのランニングに挑戦、辛うじてこれを完走した。
長坂は正通が完走できるとは思っていなかったらしく、共に走り終えた時の喜びようは大変なものだった。
――この人が、僕の先生か……。
社屋の前で膝を着きながら、正通は笑みを浮かべていた。
「江原クン。それじゃ、拳銃の使い方から教えるわねぇ。わからないことがあったら何でも聞いてちょうだいねっ!」
「はい、よろしくお願いします」
訓練が始まって二日目。筋力トレーニングとランニングの前に、武器についての講座を受けることになった。
「これがリヴォルヴァー……いわゆる回転式拳銃よぉ。それでこっちがオートマティック。自動拳銃ねぇ。構造は少し複雑になるけど、自動拳銃の方が弾丸を沢山込められるからぁ、今では世界中の軍隊や警察の多くが自動拳銃を使ってるわぁ。ウチでもリヴォルヴァーを使ってる人はいないわよぉ」
机の上に置かれていたのはS&W(スミス&ウェッソン)M686とグロック17。
無論、実銃である。正通はその程度では驚かなくなっていた。
M686はアメリカ・S&W社製の拳銃であり、リヴォルヴァーの代表的なモデルの一つである。安全性向上の為に大型のフレームを使用し、錆びに強いステンレスで作られている。
グロック17はフレームにプラスティック素材を採用していることが大きな特徴であり、十七発という装弾数の多さや軽さ・扱いやすさにより、世界の軍や警察組織で広く採用されているオーストリア・グロック社製の自動拳銃である。
「というわけでぇ、今日は座学とフィールド・ストリッピング……最低限の分解・組み立てを教えるわねぇ」
「はい。ところでユミさん」
正通が手を挙げた。
「なぁに、江原クン?」
「武井さんと神岡さんが使ってるのは、これと違う銃ですよね。もっと古めかしい形だったような……」
正通がグロックを指差すと、ユミは「うん」と頷いた。
「あの二人が使ってるのはトカレフよぉ。江原クンも聞いたことなぁい? トカレフって名前」
トカレフ――。
日本において、この名が良いイメージで語られることは少ない。おそらく、銃器に疎い者が語るのであればなおさらだろう。
「はい。昔、暴力団の抗争によく使われてたっていう……確か、銃弾が前に飛ばない、とか」
「一般的なイメージはそんなところねぇ。オリジナルの旧ソ連製トカレフはそこまでひどい銃じゃないんだけど、一昔前に出回っていたのが粗悪品ばっかりだったから。最近の裏社会ではトカレフに代わってコンパクトで命中精度も高いマカロフが出回ってるわぁ。本国ロシアではそのマカロフも新型拳銃に取って代わられてるんだけどねぇ」
ユミは後ろのホワイトボードにトカレフの特徴を箇条書きしながら説明を続けた。
「トカレフは安全装置が付いてないし、弾丸が小さいから人体に与えるダメージも少ないの。戦訓と人間工学に基づいて設計された現代の拳銃と比べると、はっきり言って時代遅れよぉ。弾速が高いから貫徹力は高いけどね。でも他に突出した性能はないし、装弾数も八発だけだからぁ、よほどの物好きでもなければ、わざわざこれを選んだりはしないわねぇ」
「武井さん達はどうしてそんなものを使うんですか?」
ユミは顎に手を当て、しばし考え込んだ。ユミのような美女がやると、とても絵になる。
「武井さんと陽子ちゃんのトカレフはね、特別に精度のいい部品で組み立ててあるの。だから命中精度と作動性能は抜群よぉ。それでも、総合的にこれより優れた拳銃は沢山あるのに、武井さんはトカレフを使っていたの。『僕にはこれで十二分だから』って。いくら腕が立つからって、ちょっと自信過剰よねぇ。陽子ちゃんは『武井さんが使うなら私も』って」
「で、でも……敵がもっと強力な銃を持ってることもあるじゃないですか。僕が見た戦いみたいに。それなのに、それだけの理由で……神岡さんは時代遅れの銃を使ってるんですか?」
武井のことを想っているからとはいえ、陽子がそこまでする理由が正通には理解できなかった。
「……江原クぅン」
不意に、ユミが口を尖らせる。
「え、何ですか?」
正通が慌てて居住まいを正す。
「江原クン、陽子ちゃんの前でトカレフを『時代遅れ』なんて言っちゃ駄目よぉ」
「え? あ、はい……」
正通が気の抜けた返事をすると、ユミは幾分、表情を和らげた。
「陽子ちゃんは、あのトカレフを宝物みたいに大事にしてるのよぉ。仕事が終わった後はいつもピカピカに磨いてるわ。武井さんとお揃いの上に、グリップは彼女の手に合わせて武井さんがローズウッドを削って作った手製の一品なの。あのグリップを受け取った時の嬉しそうな顔、今でもはっきりと思い出すわぁ」
ユミはグロックのマガジンを抜き取り、弾倉が空になっていることを確かめると再びグリップに収めた。手慣れた動作だった。
正通は、ユミがいつしか真顔になっていることに気づいた。
「江原クンは武井さんのこと……好き?」
ユミはグロックを手にしたまま、静かに問いかけた。
「えっ……? その……あ、僕は……!」
唐突な質問を受けて、しどろもどろになる自分がいた。
今、鏡を見れば、自分の顔は真っ赤になっているはずだ。『好きか』という言葉は恋愛感情を指すものではないはずなのに……。
「……そう。好きなのね」
ユミは微笑みながら、正通の心を察したように言った。
「え……はい」
戸惑いながらも、正通はユミの言葉を肯定した。
「何ていうか、僕は武井さんのことをあまりよく知らないんですが……強くて頼もしくて、何より優しくて。それに……うまく言えないんですが」
「……なぁに?」
ユミはグロックをそっと机の上に置いた。
「……武井さんは大人なのに、子供の立場に立ってくれるというか……子供の気持ちが分かる人だと思います。ああいう人が先生だったらいいのにな、って。そう思います」
顔を赤らめながら、正通は自らの思いを打ち明けた。
「ふふふ。それじゃ……こういうことも私じゃなくて、武井さんに教えてもらいたかった?」
いたずらっぽく笑いながら、ユミはウィンクした。
「い、いいえ! そんな……こうしてユミさんに優しく教えてもらえて、僕はとっても嬉しいです。その……ユミさんみたいな人が先生だったら、毎日の学校が楽しみになるのに」
「……ホントに?」
ユミが机に手を着いて正通の顔を覗き込む。
突然、目の前に現れた豊満な胸。正通は自らの視線が胸ばかりに集中しないように、何度も頷いた。
「……嘘じゃ、ないみたいねぇ。嬉しい……うふふっ」
「ユミさん……」
これほど自然なユミの笑顔を見たのは初めてのように思えた。
「ユミさんだけじゃありません。長坂さんや近江さん達……ここの皆さんが先生だったら、きっといい学校ができると思います」
お世辞などではなく、正通は心からそう思っていた。
無力な人々の為に勇気と知性、そして実力を持って人知れず悪と戦ってきた彼らならば、どんな問題からも生徒達を守り、正しい道を示してくれることだろう。
「面白いわねぇ、それ。私は音楽と英語で、ヒデちゃんは歴史、それとも古文かしら。大ちゃんは体育、アンドレくんが数学とフランス語……守屋さんと幸ちゃんは何が向いてるかしら? 家庭科ならみんなできるわねぇ。社長は……立場的に校長先生しかないわねぇ。ふふっ」
「あははっ」
名付けて、私立スヴォーロフ学園とでも言ったところか――。楽しい空想に笑いの花が咲く。
「武井さんは……何の先生が向いてるでしょうか」
何気なく発した一言。ユミの表情に影が差した。
「武井さんは……何でもできるわねぇ。教員免許こそ持ってないけど、戦地で子供達の先生になったことが何回もあるし、陽子ちゃんが特待生なのも武井さんが勉強を教えてくれたからよ。それに……武井さんに会った子供はみんな、あの人を好きになるんじゃないかしら」
「えっ、特待生?」
思わず声が裏返ってしまう。
「そうよぉ。『見た目だけで勉強もできないアイドルなんて格好悪すぎる』っていうのが陽子ちゃんの考えなの。陽子ちゃんらしいわねぇ。日本最難関も安全圏だって話よぉ」
正通はしばし絶句した。自慢ではないが、自分も学校の成績は悪くない。
しかし、上には上がいるのだ。
「…………?」
正通はようやく、ユミの表情から笑みが消えていることに気付いた。
「さっき、江原クンが言った通りよ。武井さんは大人の寛容さと子供の純真さを併せ持っている。でも、それはね……大人の冷酷さと子供の残忍さを併せ持つということの裏返しなのよ」
正通が思わず息を呑む。ユミの言葉は武井という人間を最も的確に表していた。
「……だから、あの人は目的の為には一切の迷いを捨てることができる。誰も……目的に向かって突き進むあの人を止めることはできない。別の時代に生まれていれば、あの人は必ず……戦史に名を残す存在になったでしょうね」
ユミは寂しく笑い、少しだけ俯いた。
「……正直に言うわ。私ね、武井さんがあまり好きじゃないの。陽子ちゃんはあんなにいい娘なのに、あの人の手ほどきで処刑人なんて危険なことをしている。それに……陽子ちゃんがあれだけ尽くしたのにあの人は振り向かない。それどころか、あの娘を捨てて消えてしまった」
いつしかユミの口調は、いつもの甘ったるいものではなくなっていた。
「あの人がそういう人だということは、よく分かっているわ。でもね、もう少しだけ……陽子ちゃんの気持ちに応えてくれたら。自分を想う人の気持ちに応えてくれたら……そう考えずにはいられないの」
その言葉からは、ユミの静かな怒りが伝わってくる。
陽子の想いを知る正通には、反論することはできなかった。




