「あなたの何かになりたい」(2)
「お疲れ様です!」
事務所の玄関を開け、正通が声を張り上げた。
「江原君か? どうしたんだ、こんな時間に?」
奥の事務室から聞こえたのは岩本の声だった。
「神岡さんも一緒です!」
「なんだって?」
正通と陽子は靴を脱いで室内に上がった。
事務室内にはメンバーの全員がいた。
その中に見たことのない男が二人、薄汚れた作業着を着て座っていた。
五十代と思われる白髪の男と、二十代後半と思われるやせ形の男が一人。どちらも鋭い目をしていた。
「江原クン、陽子ちゃん。こんな遅くにどうしたのぉ?」
事務机に座ってパソコンに向かっていたユミが首をかしげる。
「お疲れ様です! 皆さん、ご心配をおかけしてすみませんでした!」
どこか吹っ切れたような陽子の挨拶に岩本が口元を綻ばせる。
「陽子ちゃん、待ってたのよぉ。うふふっ」
「陽子ちゃん、江原君。夜に出歩くのは感心しないけど、とにかくお久しぶり」
長坂の言葉に正通と陽子は肩をすくめる。帰りは何時になるだろうか。
「陽子さん。戻って来てくれてうれしいです」
「陽子ちゃん、またよろしくな」
アンドレと近江に続いて、作業着姿の二人も笑顔を見せる。
「ははは。やっぱり若い娘がいねえとなぁ」
「ちょっとぉ、守屋さん! 私だってまだ二十代なんですからねっ!」
ユミに叱られ、白髪の男は「わりぃわりぃ」と頭をかく。
「お帰り、陽子ちゃん」
最後に、やせ形の男が片手を挙げて陽子に挨拶を返す。
陽子は照れ臭そうに笑っていた。
――お帰り……か。武井さんはいなくなったけど、神岡さんは一人じゃないんだ。
それは心の中に小さな灯がともるような、心地良い感覚だった。
「お疲れ様です。社長と皆さんにお話があって来ました」
正通はやがて一歩前に歩み出て全員に聞こえる声で言った。
「『お話があります』と来やがった……まさか婚約発表じゃねえだろうなぁ、おい?」
作業着を着た白髪の男がにやりと笑う。
正通と陽子は顔を真っ赤にした。
「違いますっ! また下らないこと言って……そのうちセクハラで訴えるからね!」
物凄い剣幕で陽子に怒鳴られ、白髪の男は手で顔をかばう仕草を見せた。
「やれやれ、こんな冗談でセクハラ呼ばわりたぁ、日本も世知辛くなったもんだねぇ」
べらんめえ口調で愚痴をこぼすと、隣に座るやせ形の男が「ははは」と笑った。
いつもと変わらない陽子の様子に、他のメンバーは安心した表情を見せた。
「お疲れ様です! 僕は江原正通と申します。守屋さんと鈴木さんですね」
正通は作業着姿の男達に頭を下げた。
「おうよ。俺ァ守屋猛ってんだ、よろしくな。そんで、この若造が鈴木幸平な」
守屋は親指で鈴木を指差すと、鈴木が不満げに顔をしかめる。
「俺の台詞取るなよ、親父さん。よろしくな、江原君」
「お二人とも、よろしくお願いします」
正通が改めて頭を下げると守屋は大きく頷き、鈴木は片手を挙げて笑った。
「それで……江原君。話とは何だね?」
岩本は落ち着いた声で正通に問いかけた。
不意に、事務室内に沈黙が訪れる。
「僕を、神岡さんの専属マネージャーにしてください」
「専属マネージャー……?」
岩本が聞き返すと、正通は大きく頷いた。
「はい。武井さんの仕事を僕が引き継ぎたいと思います」
正通がそう言った瞬間、室内の空気が一変した。岩本をはじめ、全員の表情が険しくなる。
「江原君、知ってて言っているのか? それは我々が請け負う『もう一つの業務』に君自身が関わることを意味するんだぞ」
全員の鋭い視線を感じる。あのユミまでもが、普段の表情からは想像もつかない鋭い眼差しを向けていた。
正通は数秒の間を置いて、再び口を開いた。
「覚悟はできています。どうか、よろしくお願いします」
正通はまっすぐ岩本の目を見つめて言った。
「俺は反対だぜ、正通よ」
突然、口を開いたのは近江だった。
「近江さん……?」
近江は席を立つと、ゆっくりと正通に近づいた。そして――。
すれ違いざまに、耳元である名前を囁くと優しく肩を叩いた。
「近江さん、どうして……」
「頭のいいお前ならわかるはずだぜ。早まらないでくれ……俺は寝るからな」
そう言って近江は入口近くの応接間へと向かった。
正通はその背中を見送り、ぐっと拳を握り締めた。近江の言う通り、何故その名前を口にしたのか、すぐに理解できた。
「江原君、私が許可しよう」
岩本が思いがけない言葉を口にした。
「おいおい、信ちゃん。マジで言ってんのかい?」
守屋が眉間にしわを寄せて問い質すと、岩本は軽く頷いて言葉を続けた。
「だからもう一つの業務について、ご両親に話して許可をもらって来なさい。君は十八歳未満なんだから当たり前だろう?」
「うっ……」
口ごもる正通に、岩本は険しい表情で言い放った。
「話はここまでだ。理由は沢山あるが……まず、君はまだ若すぎる。ご両親が聞けば間違いなく反対するようなことを、君の『覚悟』だけで決めてはいけない。我々はこれ以上、君を危険な目に合わせるわけにはいかないんだ」
正通は拳を握り締めたまま、ただうつむくことしかできなかった。
「待ってください、社長」
「神岡さん……?」
後ろに立っていた陽子が一歩前に進み、言葉を発した。
「彼は確かに処刑人には向いていません。ですが、私達がこれからも『もう一つの業務』を続けていく以上、今後も先日のようなことが起こらないとは限りません。最低限、彼には身を守る術を授けるべきだと思います。できないならば、江原くんを雇い続けるべきではありません」
氷の刃のような岩本の視線を、陽子は正面から受け止めていた。
重い空気が漂う中、長坂が手を挙げた。
「陽子ちゃんに賛成です、社長。江原君は少々、危なっかしいところがありますからね」
「長坂さん、危なっかしいって……」
「忘れたのか? この間、銃の使い方も知らないのに敵を撃とうとしただろ。社長にも、このことは報告しましたよね」
岩本がため息交じりに腕を組み、考える素振りを見せる。
「ホントかよ。すげーな、おい」
鈴木が椅子から身を乗り出して正通を見ると、守屋がその頭を軽く叩いた。
「……なんだよぉ」
「ちったぁ黙ってろよ、おめえは」
「はいはい、分かったよ。黙ってりゃいいんでしょ、黙ってりゃ」
ずっと沈黙を守っていたアンドレが手を挙げた。日本に住んで長い為、こういった習慣もすっかり身についている。
「私も陽子さんに賛成です。この間、事務所が襲撃されました。もしあの場にいたのがユミさんではなく正通さんだったら、殺されていたでしょう」
岩本はふうっと息を吐くと、机に手を着き、席を立った。
「そのことに関しては私も同意見だよ。先日の一件を受けて、江原君には今週から稽古をつけるつもりでいた」
「社長! それじゃ……」
正通の顔がぱあっと明るくなる。
「あまり喜ばないでくれ。それに、専属マネージャーの件とは別の話だぞ、これは」
正通は少したじろいだものの、すぐに立ち直って口を開いた。
「では、社長。僕は高校を卒業したらここに就職します。そうしたら僕を神岡さんの専属マネージャーにしてください。僕はそれまでに強くなります。それなら問題ないはずです!」
「な、なんだと……?」
困惑の表情を浮かべる岩本に、正通は畳みかけるように言葉を続ける。
「そうです。社長はさっき、十八歳未満は両親の許可が必要って言いましたよね。僕は来年の五月で十八歳になります。それなら問題ないはずです!」
岩本が頭を抱えて椅子に座り込んだ。
「やれやれ、君の前ではいい加減なことは言えないな。分かった、その方向で考えよう。しかし、君を処刑人としての適正なしと判断した場合は、あくまでも平時のスタッフとして勤務してもらうことになるぞ。わかったね?」
「はいっ! ありがとうございます、社長! 僕は頑張ります!」
室内に響き渡るような大声だった。
「神岡さん、ありがとう。僕、頑張るから」
陽子は「ふん」と鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
「別に……君を専属マネージャーとして認めたわけじゃないわ。せいぜい頑張ってね」
「うん、頑張るよ」
――よかった。いつもの神岡さんだ――。
ちょうどその時、事務室にかけてある時計が鐘を鳴らした。時刻は午後十一時になった。
「さて、今日はここまでだぁな。坊ちゃん嬢ちゃんは帰った、帰った」
そう言いながら、守屋が手を叩く。他のメンバーが苦笑を浮かべる中、岩本は困惑の表情を浮かべたままだった。
話が終わり、アンドレが正通と陽子を車で送っていくことになった。
正通は玄関前で足を止め、応接間へと引き返した。
「どうしたんですか、正通さん?」
「すいません、先に行っててください。僕もすぐに行きますから」
薄暗い応接間に入ると、近江が巨体をソファに横たえていた。
「……近江さん」
「起きてるぜ。話も聞こえてた」
暗がりの中、近江がゆっくりと身体を起こした。
「どうやら意志は固えみたいだな。それに、社長がああ言うんなら仕方ねえ。幸いにも今までこの会社から死者が出たことはねえが、それは俺達が強いからだ。お前にはそれと同じものを求めることになる。訓練は厳しい。覚悟しといてくれよ」
「はい、近江さん。それと……」
「何だい」
正通は深々と頭を下げた。
「あの時のお礼を言いたくて。あの時、僕を助けてくれたのは……近江さんだったんですね」
「助けた……か。俺がしたことといやァ、煙を焚いて玄関のドアを壊したことだけだ。あの時はそれしかできなかった。むしろお前に謝りてえくらいだ」
正通は大きくかぶりを振った。
「そんなこと、ありません。これまでの日常があるのは近江さんのおかげです。本当に……本当にありがとうございました。おかげで僕達家族は、今の暮らしを……」
気がつけば目から涙が溢れてきた。
「当事者から直接礼を言われるのは初めてだな。でもなァ、正通。今の日常があるのはお前と親父さん、お袋さんが助け合って生きてきたからだ。これから何があっても、それだけは忘れないでくれよ」
「……はい」
近江は正通の涙をそっと手で拭った。
「男が人前で泣くなよ。もう行け、アンドレと陽子ちゃんが待ってるぜ。またな、正通」
「近江さん。僕も近江さんのことを名前で呼んでもいいですか?」
近江は困ったような笑みを浮かべ、正通に手を差し出した。
「ははっ、何だか照れ臭いなァ、おい。これからもよろしくな、正通」
「はい、大輔さん。おやすみなさい」
正通は近江の手を握り返した。その大きな手は、拭った涙で濡れていた。
「……おやすみ」
初めて会った時には、ただ恐怖しか感じなかった近江。そんな彼が過去の自分と、家族とつながっていた。
どこか無邪気な近江の笑顔を前にしながら、正通は不思議な運命の巡り合わせを感じていた。
「社長、本当にいいんですか?」
正通達がいなくなった事務室で、ユミが眼鏡に手を添えながら岩本に尋ねた。
「江原君の意志は固い。それに彼を引き込んでしまったのは我々だ。こうなった以上、我々がすべきことは彼を一人前の戦士に育て上げることだ。彼にはその素養も見受けられる」
「……まぁ、ヒデや武井の話を聞く分には、そのようだが」
守屋が禁煙パイプをくわえながら言うと、長坂が大きく頷く。
「死体を見た後でも、平気で飯が食える。この間なんかは絶体絶命の危機にもかかわらず、一切取り乱す様子がなかった。それどころか楽しんでさえいるようだった。俺はそんな奴を見たことがない。昔、同じような状況に陥った時、俺は小便を漏らしちまった。対して江原君は……あの客観性と冷静さ、状況判断力。おそらく天性のもんだろうな」
「まあ、俺なんかろくに運動もできないのに自衛隊に入ったからな。それでもやってみればどうにかなった。あの坊ちゃんも大丈夫だと思うよ。にしても嬉しそうだね、長坂さん」
鈴木に指摘され、長坂は「ふっ」と笑った。
「そんな顔してたか? ま、今のところ社内で一番暇なのは俺だからな。弟子ができたような気分になってるのかも知れない」
「なるほど。坊ちゃんの世話をするのは長坂さんになるな。そう言えばあいつ、近江さんと何かあったの?」
鈴木の頭をぺしっ、と音を立てて守屋が叩いた。
「いてっ。何すんだよ」
「ったく……人のプライバシーに首、突っ込むんじゃねぇよ」
鈴木は「くっくっ」と笑う。
「親父さんがプライバシーなんて言葉使うとはね」
「るせえっ、黙ってろい」
守屋が顔を赤くしていると、岩本が咳払いをした。
瞬時に、全員が彼の方に向き直る。
「基礎訓練と格闘訓練は長坂君に任せる。銃器類の操作は山城君。その他、必要に応じて各自、江原君の指導にあたってくれ。頼んだよ。では、今日はこれにて解散だ」
「了解!」
岩本を除く全員の声が一つになった。
各自が席を立つ中、岩本が守屋と鈴木に視線を向ける。
「守屋さん、鈴木君。今日の任務についての最終報告を頼むよ」
「おっ、そういや忘れてたな」
守屋と鈴木が席を立ち、岩本の机の前にやって来る。
「今回みてえなのは初めてだよ、信ちゃん。なんせ、俺達が仕事する前に標的が死んでたんだからな」
守屋の言葉に鈴木は苦々しい表情で頷いた。
「何者かが我々の動きを掴んだ上でやったのは間違いない。警察と委員会にも調査を頼んでいるが……この件に関して、二人で情報の収集にあたってくれ。よろしく頼む」
「了解!」
守屋と鈴木は直立姿勢で応えた。




