「懐かしき戦場」(1)
「ウッ……」
精鋭のみで構成される警視庁SATといえども、これほどの状況は想定外だった。
突入した全員が目の前の凄まじい光景に絶句し、込み上げてくる嘔吐感を抑えるのに必死だった。
江戸川区内の海にほど近い場所に、寂れたマンションがあった。
住人は暴力団の構成員や不法滞在の外国人ばかり。周辺の住民はここには近寄らず、まさしく吹き溜まりと呼ぶに相応しい場所だった。
アフリカや旧ユーゴスラヴィアなど、海外での戦場経験がある日本人傭兵と元暴力団員が作り上げた傭兵組織――『ケントゥリア』。
百名余りの傭兵を中心とした組織は警察の装備を上回る武装を持ち、暴力団抗争への加勢や裏社会の人間の護衛に加え民間人の殺害や誘拐、事故を装った爆破テロなどを業務とし、多くの凶悪犯罪に手を染めていた。
その本部が、このマンションの地下に存在した。
「ひどいな……」
隊員の一人が思わず声を漏らす。
司令部として使用されていた地下室は床も壁もおびただしい血に染まっていた。
階段を降りてすぐの部屋には十四人分の死体があった。床に横たわり、机に伏せ、壁によりかかったそれぞれの死体が光を失った目で隊員達を凝視していた。
どの死体も、自分に何が起きたのか理解できない、といった表情だった。
SAT用に小改良を施されたMP5Fを手にした三人の隊員が、死体を避けながら隣の部屋へと向かう。
通信機器やパソコンなどが置かれた六畳ほどの部屋には、喉を切り裂かれた四人分の死体が横たわっていた。
「これは……」
部屋の中で、一人の隊員があるものに気づいた。
パソコンデスクの隅に置かれた、真っ赤なハンカチ。
壁にまで血が飛び散っている中で椅子だけが綺麗になっていた。このハンカチで椅子に飛び散った血を拭き取ったようだ。
「ここに座って外部と連絡を取ったのか。詳しいことは鑑識に任せよう」
別の班が向かった部屋は司令官の執務室だった。
室内は十畳ほどで、部屋の中央には本革張りの立派なソファが二組と黒壇製のテーブル、奥にはシンプルだが品のいい事務机がある。
入口近くには拳銃を持ったままの死体が四体、奥の机に突っ伏すようにして一体の死体があった。これが司令官であり、組織のボスだと思われた。
文字通りむせ返るような血のニオイに、三人は顔をしかめた。
「おい、机の上に何かあるぞ」
司令官が死んでいる事務机。赤い布の上に、血を綺麗に拭き取ったナイフがあった。
「果物ナイフだ。リンゴなんかを剥くような……」
机の上に置かれていたのは果物ナイフだった。
サバイバルナイフやコンバットナイフではない。食後のデザートとして果物を剥いたりする為の、どこの家庭にでもある果物ナイフだった。
「刃こぼれ一つしてないが……まさか、これ一本で全員を殺したっていうのか?」
「馬鹿言え! 銃で武装した奴ら二十人以上を相手に、そんなことできるかよ!」
三人の視線が机の上の果物ナイフに注がれる。
それは五人分の死体が転がるこの部屋にあって、不気味な存在感を放っていた――。
「警視庁からの連絡によれば、武井君の病室から無くなっていた果物ナイフと、敵のアジトで見つかった果物ナイフは同一の物だと鑑定結果が出たそうだ。更に二十三人の死体を調べた結果、全員がそのナイフで殺されていたことがわかった」
神奈川県警に保護された三人は岩本と共に最寄りの警察署へ移動し、風呂と替えの衣服の提供を受けた。
そして特殊犯捜査係(特殊捜査班)による事情聴取を終え、現在は会議室の一室を借りて、署内の食堂から取り寄せたうどんを食べながら岩本に説明を受けていた。
「くだもの、ナイフ……」
正通が虚ろな目で呟いた。
武井が桃を剥いてくれた時に使った果物ナイフ――。
道具は用いる人によって凶器にもなり得る、とは言うが、その例とするにはあまりにも極端すぎる。
「組織の構成員が反撃を試みた形跡はあったが、侵入者のものと思しき血痕は見つかっていない。一方的に殲滅された、といっていいだろう。しかも見つかったナイフは刃こぼれ一つしていなかったそうだ」
「こんなことができるのは……」
長坂が眉をひそめながら口を開いた。
「うん……私の知る限りでは彼しかいない」
岩本の言う『彼』とは誰か、説明する必要はなかった。
陽子は右手に箸を持ったまま、何もない空間を呆然と眺めていた。
「しかし、何故このタイミングで?」
「分からない。武井君が何故、今日という日を選んで襲撃を行ったのか、いつの間に敵の本部を突き止めていたのか……」
長坂の問いかけに、岩本は額を手で押さえながら答えた。
「武井さんは……逮捕されるんですか?」
正通が声をひそめて尋ねると、岩本は苦い顔をしながら首を横に振る。
「我々は『殺しのライセンス』を持つ身だ。無論、相手が凶悪犯の場合に限ってのみだが。そして殺されたのは皆、例の傭兵組織『ケントゥリア』の構成員。逮捕されることはないだろう」
「そう、ですか……」
正通が安堵の表情を見せると、長坂は口髭を撫でながら言葉を付け足した。
「でも、これは完全に独断でやったことだ。警視庁の連中が快く思うはずがない」
「その通りだ。我々は一つ、警視庁に借りを作ったことになる」
岩本は紙コップのコーヒーを飲み干し、大きく息を吐いた。
「借りって言えば、社長。今日の神奈川県警の協力も大きな借りになるんじゃないですか」
岩本は苦笑して、手を横に振った。
「その心配はない。警視庁に先んじてケントゥリアの幹部を逮捕できたことに、県警上層部は感謝の意を示している。今回の件はむしろ貸しを作った、と言っていい。これも、あの急場をしのいでくれた君達のおかげだよ」
「なるほど。縦割り行政も悪いことばかりじゃないってわけだ」
「……社長は」
沈黙を守っていた陽子が、ようやく口を開いた。
「武井さんがいなくなったことについて、社長は何か知っているんでしょう?」
しばらくの間、陽子と岩本の間で無言のやり取りが続いた。
岩本は陽子の鋭い視線を受け止めていたが、やがて大きく頷き、再び口を開いた。
「……君に隠し事はできないな。分かった、話そう」
岩本の表情に影が差した。
「三ヶ月ほど前、彼に相談を受けた。『日本を出て他の国へ行きたい』と。当然、私は反対した。『私を含め会社の人間は皆、君を必要としている』と言ってね」
岩本は空になった紙コップの底を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「彼はその言葉に納得したようだった。しかし、その一ヶ月後に私は、武井君が海外からある情報を集めていることに気づいたんだ」
「ある情報?」
正通が何気なく尋ねると、岩本は視線を戻して言葉を続けた。
「……世界各地の紛争地の情報だよ。紛争の規模や入国ルート、どういった勢力が交戦し、どういった国・組織がその背後にいるのか、どんな兵器が使用されているのか。またそれらの国の民族や文化など……それらを実に詳細に調べていた。すぐに分かった。彼が再び戦地に赴くつもりなのだと」
正通は先日、自分が見舞いに行った時のことを思い出した。武井があの時、自分にアフリカや中東の少年兵について語って聞かせたことを。
「私は必死に彼を止めた。だが、その決心を変えさせるには至らなかった。私は折を見てこのことを皆に話し、なんとかして……力ずくでも彼を止めるつもりだった」
「だったら、今すぐにでも武井さんを探さないと!」
正通が立ち上がって叫んだ。
長坂がその肩に手を伸ばした時、陽子が静かに口を開いた。
「江原くん、座って」
陽子の口調はあくまで落ち着いていた。
「でも……神岡さん」
「社長の話は、まだ終わってないよ」
正通は陽子の表情を前に、無言で腰を下ろした。
陽子が動揺や戸惑いを瞳の奥に閉じ込め、気丈に振る舞っているのが分かった。
「ありがとう、神岡君。武井君の行方については、山城君をはじめ他のメンバーがあたっている。情報が入ればすぐ私に連絡が来るようになっているよ」
険しい表情だった岩本が口元を綻ばせたが、その顔はすぐに真剣なものへと変わった。
「話を戻そう……なんとかして武井君を止めるつもりだった私は、彼の負傷をきっかけにこのことを君達に話し、彼を説得してもらうつもりだった。しかし……どうしてもすぐ話す気にはなれなかった」
重い沈黙の中、岩本はテーブルに手を着き、頭を下げた。
「申し訳ない……私の決断がもう少し早ければ、このようなことにはならなかっただろう」
「社長が謝ることはありません。顔を上げてください」
岩本はゆっくりと顔を上げ、「すまない」と呟いた。陽子は平静を装っていたが、その表情からは動揺が見てとれた。
「この間、お見舞いに行った時……武井さんから少年兵の話を聞かされました。僕にその話をしたのは、武井さん自身が紛争地に行こうとしていたからでしょうか?」
岩本はしばし手を組んで考え込んでいたが、テーブルに手を着いて立ち上がった。
「その話は後にしよう、江原君。私はまだ説明することがあるから、もう一度特殊捜査班に行って来る。三人とも、もうしばらくここにいてくれ」
三人を残して岩本は会議室を後にした。
「武井さん……本当に海外に行くつもりなんでしょうか」
正通が呟くように問いかけると、長坂は思い出したように冷めたうどんをすすり込んだ。
「今から海外に行くとすれば、出国の時点でその情報は入って来る。というよりも、もう社長が警察に根回しをしているはずだ。出国しようとすれば必ず足止めを喰らうよ」
「そうですか……」
正通は横目で陽子の様子をうかがった。
陽子は右手に箸を持ったまま、何もない空間を呆然と見つめていた。
「神岡さん……大丈夫?」
正通の声に小さく身を震わせた後、陽子は丼を手に、一気にうどんをすすり込んだ。
「何で君が私の心配をするの?」
陽子はきつい目を正通に向けた。動揺していることは一目瞭然だった。
「よせよ、陽子ちゃん。江原君も疲れてるんだから」
「はい……」
会議室に再び沈黙が訪れた。
何もしないでいることに苦痛を感じた正通は、静かに冷めたうどんを食べた。もはや味も何も感じなかった。
岩本が会議室に戻ってきたのは十分後のことだった。
「話は終わった。服も乾いたそうだし、もう行こう」
岩本に従って正通と長坂が席を立とうとした時、陽子が突然口を開いた。
「社長、何があったんですか?」
唐突な質問だった。
正通は陽子の横顔を見た。彼女が時折、人の心を見透かしたような態度を見せることから、正通は得体の知れないものを感じ始めていた。
岩本はゆっくりと振り返り、少し考える素振りを見せた。
「警視庁から連絡を受けた。我々に至急、処理して欲しい案件があるらしい」
岩本の表情からは不快さが伝わってきた。
「フッ……早速、借りを返せってわけか」
長坂が呆れたように言った。
「仕方があるまい。それに凶悪犯を野放しにできない、ということに関しては私も賛成だ」
岩本がまだ言い終わらないうちに、陽子がその前へと歩み出た。
「社長、私が行きます」
「神岡さん……?」
傍らにいる正通の声を無視して、陽子は言葉を続けた。
「ユミさん達が武井さんを探しているのなら、『仕事』は私がやります」
その言葉を聞いた岩本の目つきが不意に鋭くなった。
正通は周囲の温度が一気に下がったような錯覚に陥った。
「神岡君。君に現在、こちらの業務に携わる権限はない。武井君とそう約束したはずだ」
岩本はきっぱりと言い切った。
「しかし、社長。武井さんは私のマネージャーです。武井さんのしたことであれば、私にもその責任を共有する必要があります!」
「個人的な理由でしかないな、神岡君。第一、業務は必ず二人以上で行うことが我が社の原則だよ。君はそれを無視して一人で行動するのか? それとも君個人の事情に他のメンバーをつき合わせるつもりか? 君達の指揮官として、私はそのどちらも許可できない」
岩本はまっすぐ陽子の目を見据えて、噛んで含めるように言った。
陽子はそれ以上反論できなかった。岩本の発する静かな気に、完全に圧倒されていた。
「三人とも、疲れただろう。今日はもう、帰って休むんだ」
岩本の言葉に陽子が頷きかけた時、正通が口を開いた。
「社長、待ってください。もう少し神岡さんの話を……」
最後まで言うことはできなかった。岩本と目を合わせただけで正通は恐怖に凍りついた。岩本は鋭い目を向けながら、あくまで丁寧な口調で正通に語りかけた。
「江原君。あくまで君は平時担当だということを忘れないでくれ。平時の業務については君の意見を可能な限り尊重する。だが、君は『もう一つの業務』には一切関わらないという契約を会社と交わしたはずだよ」
「はわ……」
この人に逆らってはいけない……本能がそう伝えていた。
「江原君、もういいだろ?」
絶句する正通の肩を長坂が叩いた。
長坂の言葉にようやく冷静さを取り戻し、正通はそっと陽子の様子を窺った。
「江原くん。私のことは気にしないで」
視線を察した陽子が口を開いた。落ち着いた口調だった。
「社長、私はこれで失礼します。今日はありがとうございました」
「えっ……ちょっと、神岡さん!」
慌てて声をかける正通を一瞥すると、陽子は再び岩本の正面に立ち、頭を下げた。そしてすぐに正通と長坂の前に向き直り、頭を下げた。
「長坂さん、お疲れ様でした。江原くんもお疲れ様」
「ああ、お疲れ様。気をつけてな」
長坂は寂しそうに応えた。
「お疲れ様、神岡君。制服は一階の受付で受け取ってくれ。帰りの交通費は後日支給しよう」
「はい、分かりました」
陽子は抑揚のない声で返事をすると、そのまま会議室のドアを開け、一礼して部屋を出て行った。
正通は声をかけることもできず、ただその後ろ姿を見送った。
陽子が部屋を出て行くと、岩本は正通の前に向き直り、深々と頭を下げた。
「江原君、今日はこんなことに君を巻き込んでしまい、本当にすまなかった」
「い、いえ、僕は……」
どう返事をすればいいのか分からなかった。「まったくだ!」と文句を言う気にはならず、「気にしないでください!」と明るく振る舞うのもおかしい。
「当然のことだが、本日分の給料は払わせてもらうよ、危険手当付きでね。無論、そんなことで許してもらえるとは思っていないが。それと……君さえよければ、引き続き我が社での勤務を続けてもらいたい」
「えっ……」
――それもそうか……あんな危ない目にあったんだ。普通だったら「もう辞めてやる!」と言い放つところなんだろうけど……。
正通がしばし考え込むのを見て、岩本は口元を緩めた。
「すぐに返事ができないということであれば、後でいい。私達もそろそろ帰るとしよう」
「行こうぜ、江原君」
岩本と長坂がドアに向かって歩き出すと、正通はその後ろ姿に声をかけた。
「辞めるつもりはありません。でも……続けていく上で教えて欲しいことがあります」
「江原君……」
戸惑いの表情を見せる長坂に、岩本は二、三度頷いてみせた。
「分かった。ここまで来れば、君にもある程度のことを知ってもらう必要があるね。詳しくは車の中で話そう」




