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「来たれ、見よ、勝て!」(3)

 斜面に隠れた正通達は、あっという間にずぶ濡れになった。


「最悪だな。ゲリラ豪雨に出くわすとは……風邪をひいちまうぞ」

「でも、これだけの雨なら狙撃手もやりにくくなるでしょう?」


 濡れた髪に手櫛を入れながら陽子が苦笑すると、不意に正通の携帯電話が着信を知らせた。


「オリョール。スヴォーロフ関係者からの電話なら出てくれ」

「はい……電話じゃなくてメールです。……これ、ひょっとして武井さんかな?アドレスに『shunsuke』ってあるし」


 陽子が顔をしかめるのに気づくことなく、正通は受信したメールを開いてみた。


 ―― 来たれ 見よ 勝て ――


 件名はなく、本文はそれだけだった。


「何だ、これ……『来たれ、見よ、勝て』……どういう意味だろう?」

「『来た、見た、勝った』じゃなくて?」


 正通と違い、陽子は古代ローマ史の知識を持っていた。


「文面はそれだけか? 他に何かないのか?」


 正通はメールにデータが添付されていることに気がついた。


「添付ファイル? この歌は……『ドロメアス』」


 正通は病室で武井と話した時のことを思い出していた。

 武井と音楽について語り、特に大好きな歌――ドロメアスについて熱く語ったことを。

 武井が興味深そうに耳を傾けていたことを覚えている。


「ドロメアスって、ペンタメローネの?」


 陽子が訝しげに問いかけた次の瞬間――突然、敵陣地からの一斉射撃が始まった。

 無数の銃弾が近くの地面に着弾し、泥と水しぶきを激しく撒き上げる。

 敵陣地右翼からは、六人の兵士が低い姿勢でM4カービンを乱射しながら接近して来た。


「マリュートカ、仕掛けて来るぞ! 接近して来る敵だけを倒せ!」


 長坂が叫ぶのと同時に、稲妻が空を走った。眩い光と共に、空と大地を揺るがすような凄まじい音が轟く。


「了解! オリョール、絶対に動かないで!」

「りょ、了解!」


 陽子は頭を撃たれないように注意深く様子を窺いながら、石を一つ取って固く握り締めた。


「全員、伏せろ!」


 曹長が号令を発すると、遊撃隊は地面に身を伏せる。陽子と長坂から反撃がないのを見て、曹長はにやりと笑った。


「立ち上がれ! 敵は丸腰だ、射撃しながら接近する!」


 言うが早いか、立ち上がって身を曝した。

 他の遊撃隊員は一瞬戸惑ったが、反撃がないのを見て全員が一斉に立ち上がった。


「くそ! 丸腰だってバレたぞ!」


 長坂が思わず声を荒げると、頭上を何発もの銃弾が通過していった。


「わっ!」

「オリョール!」


 鋭い音と音と共に、正通の肩を五.五六ミリ弾がかすめた。

 驚いて落とした携帯電話を、地面に落ちる前に陽子が掴み取った。


「……あっ」


 掴んだ拍子に陽子はどこかのボタンを押してしまったらしい。

 手の中で突然、音楽が再生される。

 それは、武井が送ってきたメールに添付されていた歌――『ドロメアス』。

 激しいドラムとギターで表現された怪鳥の足音と鳴き声が、疾走感溢れる前奏が、通話口の小さなスピーカーを通して聞こえてくる。


「マリュートカ、音楽を止め……」


 言葉の途中で再び稲妻が走り、雷が敷地のすぐ外に落ちた。耳元で銅鑼を打ち鳴らすような凄まじい音に、鼓膜がじんじんと痛む。


「くそ。近いな、今のは……」

「近づいてるのは雷だけじゃないですよ」


 陽子が耳を押さえながら呟く。

 付近への落雷に一瞬は怯んだものの、遊撃隊は再び射撃を行いつつ、じりじりと接近して来る。敵陣地からは猛烈な射撃が続き、まったく頭を上げられない。

 陽子は携帯電話をそのままブラウスのポケットにしまうと、再び石を握りしめた。


 ――どうしたんだ?


 正通は陽子の行動に疑問を持った。

 まだ、歌が聞こえる。にもかかわらず、長坂は『曲を止めろ』と言わない。

 正通にはその理由がわからなかった。


 楽園は遥か空の上

 もがれた羽根は風に散り 私は草原を彷徨う

 羽を焦がす陽光ひかりの下

 赤い足跡だけ残し 私は草原を彷徨う


 ――不思議だ。どうしてこの歌は……


 無数の銃声と銃弾の飛翔音、豪雨の雨音に雷――。携帯電話から聞こえる独特のメロディと疾風はやてなつきの美しい歌声は、それらと見事に調和していた。

 今、流れているこの歌はこの状況にあってもまったく違和感がない――それどころか、戦いを盛り上げるようでさえある。

 まるで、映画の戦闘シーンで流れるBGM。いや、この歌にはそれ以上の何かがある。

 恐怖をなくし戦意を昂らせ、勇気を奮い起すような何かが。


 ――神岡さんと長坂さんが歌を止めないのは、だからなのだろうか――?


 正通は抑えきれないほどの胸の高鳴りに苦しんでいた。じっとしていれば、気が狂いそうだった。

 そんな中、遊撃隊を率いて五十メートル先まで迫った曹長がM4を天に高くかざして大声を上げた。


「突撃ぃぃ!」


 号令と共に銃口を天に向けての一連射。超音速の五.五六ミリ弾が雨粒を蹴散らしながら真っすぐ天空を目指し駆け昇って行く。

 部下を奮い立たせるために行った曹長の行為が、天の怒りを買った。

 一条の閃光が、銃弾とその真下にいる曹長を飲み込んだ。

 目の前が真っ白になるような光の嵐と、空間そのものを破壊したかのような、恐ろしいほどの轟音。現場にいる誰もが、視覚・聴覚共にすぐには回復しなかった。


「一体、何が……」


 正通が目を開けた次の瞬間には、ほんの五十メートル先に地獄が存在していた。

 鼻腔に入り込む焦げ臭いニオイ。

 落雷の際に起きた爆発により、直撃を受けた曹長は五体が吹き飛び、もはやその原型を留めていなかった。

 カービン銃は溶けて四散し、周りにいた遊撃隊の兵士達は全身を焼かれて辺りに吹き飛ばされていた。

 落雷があった中心部からはもくもくと煙が立ち上り、視界を遮っている。

 あまりの出来事に中尉ら兵士達は言葉を失い、放心状態に陥っていた。

 何分間にも思える長い数秒が過ぎた。陽子と長坂は未だ聴力が回復せず、何か言い合っても互いに聞こえていないようだった。

 そんな中、正通の耳に最初に聞こえてきたのは『ドロメアス』のサビの部分だった。


 見えない何かに つき動かされ

 断末魔さえも 喰らい尽くして

 真紅に染めたこの羽を 休める場所はどこにあるのだろう

 草原を染める赤い陽が この身体をも飲み込んでゆく

 

 これまでに感じたことのない震えが全身を駆け巡る――。

 恐怖ではない。それは――正通が初めて感じた、武者震いだった。

 顔を上げると、十メートル先に無傷のM4カービンが落ちているのが見えた。

 目の前には凄惨極まりない光景が展開されている。にもかかわらず、恐怖は感じない。

 先日、建設現場で死体を見た時のような吐き気も感じなかった。たった一度の体験で、死体を見ることに慣れてしまったのだろうか?

 まるで、スローモーションの世界で自分だけが通常のスピードを維持しているような、不思議と心地良い感覚。

 気がつけば、手が、足が勝手に動いていた。

 後ろから陽子と長坂が呼んだような気がしたが、耳にはっきり聞こえるのはあのメロディと歌声だけだった。

 M4に向かって、正通は走り出した。中尉と観測手、イシカワがようやくこれに気づいて射撃を試みたが、煙に視界を遮られてうまく狙えない。


「取ったぞ!」


 地面に滑り込むようにして、泥にまみれたM4を掴む。プラスティックのグリップとアルミ合金製のレシーバーはまだ熱を持っていた。


 ――よし、これで……


 地面に伏せながら、ストックを肩に付けて構える。

 アクション映画の見様見真似だったが、すんなりと構えられた。後ろから声が聞こえるが、かまわず狙いをつける。


「…………!」


 照門を覗き込むと同時に、視界の隅で何かが動いていることに気がついた。


「この、ガキィ……ッ……! ぶっ殺してやるッ……!」


 上半身が焼けただれた兵士が呪詛の言葉を吐きながらM4を構え、こちらを狙っていた。


「う……ッ……!」


 兵士の胴体へ素早く狙いを定める。しかし細かく銃口がぶれ、どのタイミングで引鉄を引けばいいのか分からない。


 ――早く! 早く撃たないと、やられる!


 正通の慣れない動作を目の当たりにした兵士の口元が歪む。その引鉄にかけた指に、ゆっくりと力が込められた。


 ――引鉄を引け! 引くんだ!


 正通も同様に、引鉄にかけた指に力を込めた。

 そして――一発の銃声。


「…………?」


 正通は反射的につぶった目を、恐る恐る開けた。その銃声には聞き覚えがあった。


 ――この銃声は……ライフルじゃない。これは……あの日、僕を救ってくれた銃声こえだ……。


 ようやく、自分が引鉄を引いていなかったことに気づく。

 そして……自分を狙っていた兵士が笑みを浮かべたまま、前のめりに倒れるのが見えた。


「何やってるの、馬鹿野郎!」


 続いて、聞き慣れた罵声が耳に飛び込んできた。

 びしょ濡れの制服を着た陽子がすぐ横にいた。左手で正通のM4を押さえつけながら、右手でトカレフを構えていた。


「君は、引鉄を引いちゃいけない」


 陽子は敵陣を見据えたまま、振り返ることなく呟いた。


「え……っ」


 未だ動けずにいる正通からM4を奪い取ると、陽子はトカレフをスカートのウェストベルトに差し込み、M4を両手で構えて射撃を開始した。

 けたたましい銃声を伴って放たれた銃弾がスクラップの山に当たり、激しく火花を散らす。


「オリョール! 隠れていろ!」


 旧ソ連製のSKSカービンを手にした長坂が叫びながら駆け寄って来た。

 左手には近くの死体から奪ったM4のスペアマガジンがあった。長坂はスペアマガジンを陽子に投げ渡すと、自らも射撃に加わった。


「りょ、了解!」


 這って後退する正通の耳に、ようやく戦場騒音が聞こえ出す。正通はあることに気づいた。


 ――歌が……『ドロメアス』が、もう聞こえない……。


「くそったれ! 何でこうなるんだ!」


 イシカワは悪態をつきながら陽子を狙った。しかし、彼女はまるでこちらが完全に見えているように正確に反撃を行ってくる。

 しかも百メートルの距離では、ボルトアクションよりオートマティックの方が有利だ。こちらが一発撃つ間に、向こうは三発撃てるのだから。

 イシカワが場所を移動しようとして腰を上げたその時だった。


「ウァァァァッ!」


 傍らの観測手が突然、悲鳴を上げながら倒れ込んだ。頭から血を流し、足元には破損した双眼鏡が落ちている。


「おい、しっかりしろ! 傷を見せてみろ!」

「うあぁ……チクショォォォ!」


 銃弾の直撃を受けたわけではないが、目と額がレンズの破片で傷つけられていた。


「衛生兵! こいつを頼む!」


 イシカワは一言叫ぶと、素早くライフルを手にスコープを覗き込んだ。


「なっ……?」


 スコープの中心に見えたのは、陽子が持つM4の銃口だった。

 トリガーを引くべきか、身を退くべきか――。一瞬の迷いの後、地面に伏せようとしたイシカワは突然、肩に熱さを感じ、仰向けにひっくり返った。


「イシカワ!」

「あ、中尉……肩が」


 中尉の呼びかけに、イシカワが呆然とした表情で応えた。イシカワは右肩を撃ち抜かれて戦闘不能となっていた。

 中尉はイシカワの身体をスクラップの陰に隠しながら、歯噛みした。


 ――こちらの動きが、全て読まれているかのようだ……!

「うわぁぁッ!」


 部下の悲鳴が、思案に耽っていた中尉の意識を呼び戻す。


「中尉、現在の負傷者は七名です!」


 衛生兵が報告した次の瞬間、敷地内の木に雷が落ちた。

 閃光と轟音に兵士達が怯み、発砲が止む。この機を逃さず陽子と長坂は一気に距離を詰め、陣地とその両翼に激しい射撃を加えた。

 そのうちの何発かがスクラップの山を貫通し、隠れた兵士達の身体をかすめる。反撃を試みた兵士の一人が腹部に被弾し、悲鳴を上げながらのたうち回った。


「すごい……」


 正通は感嘆の言葉を漏らした。

 数の面では圧倒的に不利だというのに、陽子と長坂は戦いの主導権を奪い取った。

 短い時間で、二人は敵の行動パターンを正確に分析していた。

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