「来たれ、見よ、勝て!」(1)
ホームルームが終わると、正通は鞄に荷物を詰めて席を立った。
「江原君。もう帰るの?」
「これからバイトなんだ。それじゃまた明日!」
声をかけてきた友人の長谷川寛と吉岡に手を振ると、正通は勢いよく教室を駆け出した。
二人の友人はその背中に別れの挨拶をした後、互いに顔を見合わせた。
「なあ、長谷川。江原って最近、やけに元気だよな」
「うん。なんだか爽やかになったよね」
正通が下駄箱で靴を履いていると、ポケットの携帯電話が着信を知らせた。発信元は長坂の携帯電話だった。
「はい、江原です」
「よう、江原君。突然ですまないが、今日の歓迎会は延期だ。飛び入りの仕事が入ったもんでね。これから陽子ちゃんを乗せてそっちへ向かう。学校の前で待っててくれ」
急いでいる様子が声からも伝わってきた。
「わ、分かりました! それでは校門の前で待ってます」
「ありがとう。なるべく急ぐからな」
その言葉と共に電話が切れた。
驚きはしたが、早く仕事に慣れるチャンスだと考え、逸る心を抑えながら靴を履いて校門へと向かった。
「江原君。バイトじゃなかったの?」
校門の前に立っていた正通に声をかけたのは、長谷川だった。その隣には吉岡もいる。
「うん。これから迎えに来てくれるって」
正通は、今では珍しくなったMDウォークマンのイヤフォンを外して応えた。
聴いていた曲は『Walking Scarecrow』。これもペンタメローネの曲だ。
「迎えに来るぅ? お前のバイト先ってバーガーショップじゃなかったっけ?」
長谷川と顔を見合わせた後で、吉岡が目を丸くして問いかけた。
「そっちは今週末まで。新しいバイト、始めたんだ」
正通は心の中でペンタメローネのメンバーに謝りながら、曲の再生を停止した。
「新しいバイトって、何の仕事?」
「げいの――」
――待てよ、言ってもいいのか?
言いかけて、はたと気がつく。
会社が請け負う裏の業務のことを考えれば、誰かれ構わず仕事のことを話すのは避けた方がいいのではないか。
「ゲイの……って言ったか、おい? お前まさか、ゲイバーで働いて……」
吉岡が一歩後ずさりしながら、顔を青くする。長谷川もその隣で目を白黒させていた。
学校の近くには日本最大のゲイ・タウンとして有名な新宿二丁目がある。そこで働いていても無理はないと二人は考えたらしい。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 僕はゲイバーで働いたりしてないって!」
その声の大きさに、校門を出る他の生徒が振り返る。
「それじゃ、どこで働いてるんだよ。まさか、人には言えないような……」
「ははは、何言ってるんだよ、そんなわけ……」
核心を突く吉岡の言葉。平静を装ってはいたが、正通の背中には冷や汗が流れていた。
「江原くん! 待たせたね。行くよ!」
突然背後から聞こえたのは、あの三流アイドルの声だった。
振り返ると、五メートルほど後方に陽子が立っていた。
「神岡さん……」
陽子の登場に、吉岡と長谷川が再び顔を見合わせる。
「ちょ……ちょっと、江原君! あの娘と知り合いなの?」
「あんな可愛い娘と、いつ知り合ったんだよ?」
喰らいつくようにして、二人が正通に迫る。
「い、いや、その……神岡さんは……」
一体、何と説明すればいいのだろう――?
「江原君、何やってんの? 急いで。マネージャーでしょう?」
「ヒィッ!」
気がつけば、陽子がすぐ後ろに来ていた。
正通を問い詰めるのに夢中だった吉岡と長谷川も、正通と同じタイミングで陽子の接近に気づいた。
「マネージャー……江原が?」
吉岡が陽子のすらりとした脚に見とれながら呟いた。
「そう。江原くんは、うちの見習いマネージャーなの。あなた達、江原くんの友達?」
吉岡の視線をさほど気にする様子もなく、陽子は二人に声をかけた。
「はっ、はい! 僕は長谷川寛です!」
「俺……吉岡光雄! よろしく!」
鼻息も荒く、目の色を変えての自己紹介だった。
陽子は露骨に迷惑そうな顔をしたが、ため息をつくと正通を押しのけて二人の前に歩み出た。
「神岡陽子です。あまりテレビには出てないけど、よろしくお願いします」
正通と初めて会った時のような、愛想の欠片もない自己紹介だった。
「さてと、行くよ。向こうで長坂さんが待ってるんだから」
陽子に引きずられるようにして、正通は二人に手を振りながらその場を後にした。
「なんか……顔は可愛いけど、アイドルっぽくないな」
「そうかな……僕は格好いいと思う。他のアイドルにはないよさがあると思うよ。江原君、羨ましいなぁ……!」
遠い目をする吉岡と対照的に、長谷川は目を輝かせながら、遠ざかる正通と陽子を見送った。
「神岡さん。僕の仕事のこと、他の人に話しちゃっていいの?」
歩きながら、前を進む陽子に尋ねた。
「馬鹿だねー。誰にも話さなかったら、営業もできないでしょう。君は平時の担当なんだから、『もう一つの業務』には一切関係ない。だから余計なことは考えないでマネージャーらしく振舞いなさいよ。わかった?」
相変わらずの物言いに正通はげんなりした。
「それに……もし口を滑らせたとして、誰がそんな話を信じるの? 弱小芸能プロダクションの実態が暗殺者集団で、所属タレントは全員プロの暗殺者? ……そんなB級映画みたいな現実味に欠ける話、誰も相手にするわけないじゃない」
「ああぁ、自分で……」
――自分で言っちゃったよ、この娘。
「誰もいない……」
長坂がぽつりと呟いた。
三人が立っているのは、神奈川県内のスクラップヤードだった。民家からも離れ、日の沈みかけた山並の向こうにぼんやりと富士山が見える。
舞い込んだ仕事はCMの撮影だった。長坂はいつものBMWに二人を乗せ、指定された場所へやって来た。
時刻は午後五時八分。指定された時刻より二十二分早く到着していた。
「長坂さん……これって」
積み重ねられた自動車と鉄くずばかりの敷地をぐるりと見渡し、陽子は唾を飲み込んだ。
「罠だ。江原君、すまないが逃げられそうにない」
「えっ……?」
正通が声を発した瞬間、陽子は視界の隅で何かが夕陽に反射して光るのを見た。
「伏せて!」
突然、陽子が正通を押し倒した。
混乱する正通のすぐ近くで大きな土煙が上がり、銃声が鳴り響いた。
「い、今のって……!」
「ライフルね。スコープでこっちを狙ってるわ」
正通の肩を地面に押さえつけながら、陽子が答えた。
陽子が見た光は、光学照準器のレンズに夕陽が反射したものだった。
「江原くん。しばらく我慢して。とにかく君のことは守るから」
「えっ……」
耳元で囁かれ、胸が高鳴るのを感じた。同時に、背中に押し付けられる柔らかな感触に気づく。
思わず唾を飲み込んだ。体温が上昇し、顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「……この、変態!」
正通が頬を赤らめていることに気づくと、陽子は正通を地面に押しつけるようにして遠ざけた。
「狙撃手がいるのか。これじゃ車まで武器を取りに行くのも一苦労だ」
叢に身を伏せながら、長坂が言った。
地面が緩やかな斜面になっていた為、完全に身を隠すことができたが、近くに止めたBMWに近づけば敵に身体を曝すことになる。
「移動するのに三秒として、トランクを開けて武器を取り出すのに五秒はかかる。ライフルの扱いにある程度慣れていれば、この間に四発は撃てる」
「でも、敵が狙撃手だけのはずがありません。きっと敵の本隊がどこかにいます。いつまでもこうしていられません」
「その通りだ。車まで五メートルも離れてないっていうのに……もう一発撃たせて距離と場所を探ろう」
長坂はスーツの内ポケットを探って革の手袋を取り出すと、中にポケットティッシュを袋ごと詰めて膨らませ、ボールペンで刺してそっとかざした。
敵からは、こちらが手を出しているように見えるはずだ。
しかし……敵からの銃撃はない。
「……撃って来ないな。誘いには乗らない、というわけか……それとも」
「この的を撃ち抜くだけの自信がないのか、それとも場所を移動しているのかも」
陽子と長坂が顔を見合わせて頷いたのと同時に、長坂の携帯電話が着信を知らせた。
長坂は岩本からの着信であることを確かめると、静かに正通に差し出した。
「俺達は警戒を続ける。待ち伏せに遭ったと社長に言ってくれ」
「は、はい!」
返事をして、すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし、江原です。待ち伏せに遭いました。長坂さんと神岡さんは無事です」
一息に状況を伝えると、通話口からは岩本の緊迫感に満ちた声が聞こえてくる。
「やはりな。先ほど事務所が襲われた。私と山城君で刺客を倒し、こちらも無事だ。現在は近江君以下、手空きの人員が四名、武装を整えてそちらへ急行中だ。一時間で到着する予定だ」
「えっ、ユミさんが? ……あ、すみません。そのように伝えます」
あの緊張感の欠片もないユミが屈強な男達と銃火を交え、倒すなどとは――正通には信じられなかった。
「ありがとう。今から言うことを伝えてくれ。敵の正体は先日、君達と戦った傭兵組織だ。報復の為に今回の行動に出たらしい。たった今、警察から連絡があった。現在、敵の本拠地に向けて警視庁の特殊部隊が出動中だが、部隊をそちらへまわすだけの余裕はないそうだ。なんとかしのいでくれ。私は神奈川県警に直接協力を要請する」
「はい……わかりました」
正通が返事をした次の瞬間、ライフルの発射音が辺りに鳴り響く。
長坂のすぐ近くで土煙が上がり、草が舞い散っていた。
「今の音はライフルか……すまない、江原君。こんなことに君を巻き込んでしまうとは」
正通は、その言葉に対して何も答えなかった。
「一緒にいる二人は、何があっても君を守ってくれるはずだ。こちらからの電話にはいつでも出られるようにしておいてくれ。それでは伝言を頼む」
その言葉を最後に、電話は切れた。
――なんで、なんでこんなことに……!
込み上げる苛立ちと叫び出したい衝動を必死に抑えて、正通は一字一句漏らさずに岩本からの言葉を伝えた。
「そうか……携帯は君が持っててくれ」
長坂は額の汗を拭いながら言った。
「ここから先、互いにコードネームで呼び合うことにする。彼女はマリュートカ、俺は『ボローダ』と呼んでくれ。君は……そうだな、『オリョール』がいい。分かったな、オリョール」
「わ、分かりました……ボローダさん」
長坂が苦笑した。
「コードネームに『さん』は付けなくていい。それから返事は『了解』だ、オリョール」
「了解……ボローダ」
互いを怪しげなコードネームで呼び合うなど、小学生の時に学校で流行った『エスピオ』以来だ。
再び訪れた生命の危機に際して、何故か昔の記憶が蘇った。正通の心を支配していた恐怖と怒りの感情はいつしか薄れていった。
――僕のコードネームは『ブラック・イーグル』だったかな……? そういえば、『オリョール』ってどんな意味の言葉だろう。聞いてみようか。
「あ……」
正通が口を開きかけると、陽子がきつい目で睨みつけてきた。
「うひぃっ」
――今は駄目だ。聞くのは助かってからにしよう……
長坂が正通につけたコードネーム『オリョール』はロシア語で『鷲』を意味する。何の因果か、正通は再び『鷲』の称号を得ることとなった。
八百メートル四方の広さがあるスクラップヤード。
周囲は金網のフェンスと木々に囲まれ、中央から敷地の奥にかけて、三百メートル四方の範囲に自動車や鉄くずの山が集積し、重機がその付近に置かれていた。
先日の戦闘では武井と陽子に一個分隊が殲滅されたことから、今回はそれ以上の兵力で待ち構えているはずだと、陽子と長坂は考えていた。
「それにしても……変ですね」
陽子がスカートに隠されたポケットを漁りながら言った。取り出したのはビニールパックに入ったカンシャク玉だった。
「私達は車の外へ出たところで射撃を受けました。不可解なのは、私達が外へ出る前には一発も撃ってこなかったことです」
「そうだな。迅速に、確実に殺害するのが目的ならば、まず運転手を狙撃ないし車を狙撃して走行不能にしてから、本隊を投入し一気に片を付けようとするはずだ。狙撃手の腕が良ければ、三人全員を車から出さずに射殺することも可能だろう」
長坂は注意深く前方の様子を窺いながら応えた。
「敵は狙撃でこちらを釘づけにするだけで、それ以外の行動は見せてない。俺ならこの間に本隊を投入して一気に片をつける。どうだ、マリュートカ」
「私も同じ考えです。車を撃ってこないのは、私達が車に乗り込もうとするのを誘っているんでしょう」
正通は冷静に状況を分析する二人の表情に思わず見入っていた。
長坂はもとより、陽子までもがこの上なく知的に見える。命がけの戦いを何度も経験し、それに勝利して生き残った者のみが身に着ける老獪さがそこにはあった。
危機的状況に陥って何故、これほど二人は冷静でいられるのか――。
いや、危機的状況だからこそ冷静でいなければならないのだろう。そうでなければ、おそらく二人はこうしてここに存在することはできない。
「あのスクラップの山……あれが敵陣地と見て間違いない。一発目は正面から飛んで来た。二発目の銃弾は敵陣地左翼からだ。狙撃手が二箇所にいるのか、あるいは」
「同じ相手が移動して二発目を発射したのか」
言い終えて、陽子はポケットから掌サイズの金属製ホッチキスを取り出した。
「神岡さん……そんなもの、どうするの」
「黙ってなさいよ。とにかく君は守るって言ったでしょう。それから、私のことはマリュートカって呼んで」
この状況にあって、陽子は全く動じていなかった。
「下手に動けば狙撃手の餌食になるが、このままじっとしていれば日が暮れるな」
「先日の敵はナイトビジョンを装備していました。おそらく今日の敵も」
「いずれにしろ、向こうの優位は変わらないわけだ。こちらの増援が来れば状況も変わるが」
長坂はスーツの内ポケットからシガーケースを取り出し、その中から鋼鉄製のボールベアリングを数発、手に取った。もう片方の内ポケットから取り出したのは『スリングショット』と呼ばれる強力なパチンコだった。
「よし、マリュートカ。準備はいいか」
「はい。オリョール、少しうるさくなるけど絶対に頭を上げないで」
正通の目に映ったものは、勇ましい女戦士の顔だった。
「りょ、了解……マリュートカ」
陽子はホッチキスにカンシャク玉を軽く挟んで固定すると、勢いよく両手で綴じ込んだ。
カンシャク玉の炸裂音が木霊する――それと同時に、二十メートル前方にあった自動車のフロントガラスが割れた。
「もう一つ!」
長坂の合図でもう一度、カンシャク玉の炸裂音が木霊する。
今度は同じ車のドアガラスが割れた。カンシャク玉の音と同時に長坂が弾丸を飛ばしてガラスを割り、銃を持っているように見せかけるという欺瞞行動だった。
敵陣地とは二百メートルの距離がある為、直径九ミリのベアリングは向こうからは目視できない。
「よし……向こうが動く気配はないな。マリュートカ、頼む」
陽子が頷くのを確かめると、長坂は近くにあった拳ほどの石を掴み、叢の中に放り投げた。地上三十センチほどの高さで投げられた石は草を揺らしながら二メートルほど飛び、地面に落下した。
それと同時にライフルの発射音が轟き、石が落ちた場所の土と草が大きく舞い上がった。
「かかったな」
長坂は笑みを浮かべると――。
「ぐああああッ!」
敷地内に響き渡るほどの悲鳴を上げた。俳優だけあって、その悲鳴はまさしく迫真だった。
長坂の悲鳴と同時に再び発射音が轟き、同じ場所に土煙が上がった。
「どうだ、マリュートカ」
先ほどの悲鳴が嘘のように、長坂は落ち着き払って陽子のコードネームを呼んだ。
「見えました。発射炎は二発とも同じ場所……敵陣地左翼にある重機の陰からです」
「そうか。狙撃手は一組のようだな」
「それに加えて、二発目の発射まで三秒のタイムラグがありました。おそらく敵のライフルはボルトアクションです」
ボルトアクションライフルは一発撃つごとに排莢と装填を手動で行う必要があり、速射ができない代わりに命中精度は高い。
全世界の警察・特殊部隊に配備されているスナイパーライフルと狩猟用ライフルの多くがこの方式であり、軍用狙撃銃としても依然、その主流を占めている。
「ボルトアクション装備の狙撃手だけなら、戦いようはある。問題は敵本隊の装備だ。この距離ではサブマシンガンは力不足だ。だが、敵本隊がサブマシンガンよりも射程の長いアサルトライフルを装備しているとすれば……」
「狙撃手しか撃って来ないのは長射程のライフルは一挺だけ、と思わせて油断させる罠かも知れませんね」
三人が隠れた場所から重機までの距離はおよそ二百メートル。この距離であれば、連射性と命中精度を兼ね備えるアサルトライフルはより大きな脅威になる。
「その可能性が高いな。もうしばらく様子を見よう」
正通は固唾を飲んで、二人のやり取りを見守っていた。
高鳴る鼓動は、恐怖によるものとは明らかに違っていた――。




