「救いの手」(2)
「陽子ちゃん、おじさん達のことなら気にしなくていいんだよ」
伯父――春信は遠慮がちに言った。妻である芳江がそれに続く。
「そうよ。一人で暮らすわけにはいかないでしょう。陽子ちゃんさえよければ、うちに来てもかまわないのよ」
陽子は二人の顔を見上げた。そこには、孤児になった自分を憐れみながらも、どこか迷惑そうにしている二つの顔があった。
「施設に行くっていうのもあるけど、知らない人と暮らすのは寂しいだろう?」
無言の陽子に対し、二人の大人はなおも言葉を続けた。
「そうよ。うちだったら、ここからそんなに遠くないし……ね?」
「あぅ……」
陽子は口を開いたが、何と言えばいいのかわからなかった。
「今後のことを考えると、施設に行くよりもその方がいいと思うんだけどな。もちろん、陽子ちゃんさえよければの話だけれど」
二人とも、「うちに来たら?」とは言うものの、「うちに来なさい」とは言わない。陽子は恐る恐る二人の顔色を窺うしかできなかった。
もしも伯父の家に行ったら、毎日二人の顔色を窺う窮屈な生活を送らなければいけないのだろうか?
たぶん、自分は伯父さんの家で暮らすことになるんだろう。
そういえば、伯父さんの家にはいつも吠えてくる怖い犬がいたっけ。
中学生の義信兄さんも自分に優しくしてくれたことはない。お父さんの甥っ子なのに、お葬式が済むとすぐに帰ってしまった。
いつか、義信兄さんが「めんどうくさい」と言っているのを聞いたことがある。すぐに帰ってしまったのも、「めんどうくさい」からなんだろうか?
自分の部屋はあるのか。お小遣いはもらえるのか。
手伝いはどれ位すればいいんだろうか。どうやっていれば怒られないで済むんだろうか。
心の中には不安ばかりがよぎる。
しかし、いくら嫌だと思ってもそれを受け入れなければいけないということはわかっていた。
ごくりと唾を飲み込むと、陽子は無言で席を立った。
「あら、陽子ちゃん。どうしたの」
「お外にいく」
陽子は一言口走ると、春信の横をすり抜けて襖を開け、廊下を走って行った。
「ちょっと、陽子ちゃん!」
芳江が走り去る背中に声をかけたが、陽子は何も聞こえないかのように玄関で靴を履き、そのまま外へと駆け出していった。
陽子は走りながら考えていた。
八歳の彼女にはどうしても分からなかった。自分は両親が死んだ悲しみに浸っていたかったのに、何故か大人達はそれを許さない。
「泣いてばかりだとお父さんとお母さんが悲しむ」、「しっかりしないとお父さんとお母さんは安心できない」などと、自分や両親のことをろくに知らないくせに勝手なことばかり言う。
どう返事をすればいいのか分からずに泣いていると、そのうちため息をついてどこかに行ってしまう。それなら最初から声をかけたりせず、放っておいてほしい。
陽子はこぼれる涙を拭いながら、何処へともなく走り続けた。
家のすぐ近くの角を曲がろうとした時のことだった。
ろくに前を見ずに走っていたら、歩いて来た誰かにぶつかってしまった。
「きゃっ!」
それは自分よりずっと大きい、大人の身体だった。はね返されて後ろに転びそうになる陽子の身体を、ぶつかった相手が素早く支えた。
「おっとっと……」
ぶつかった相手は、黒いスーツを着た優しそうな青年だった。
「いきなり飛び出して来ちゃ、危ないよ」
青年はポン、と陽子の肩を軽く叩いて言った。
「……ごめんなさい」
青年の笑顔に少し安心して、陽子は素直に謝った。
「……おや」
青年は陽子の着ている黒い服を見て、動きを止めた。
どうかしたのかと陽子が青年を見つめると、青年は膝をついて陽子の肩に両手を置いた。
「君が、陽子ちゃんか」
「うん……」
青年は黒のフォーマルスーツを身に着けていた。この青年もまた、葬儀に出席する為にやって来たのだということが分かった。
「お兄ちゃん、お葬式に来てくれたの? ……お父さんの友だち?」
「え……? うん、そうだよ。本当はもっと早く来たかったんだけど、知らせを聞いた時は遠い所にいたからね。これでも急いで来たんだけど、告別式には間に合わなかったね」
大人の優しい顔を見たのは久しぶりのような気がした。
青年は陽子の肩から手を離すと、そのままの姿勢で膝に手を着き、陽子に頭を下げた。
「遅くなって本当にごめんね。遅れて来たこと、お父さんとお母さんにも謝らなくちゃ」
大人が膝を着いて謝るなどという光景は、これまで見たことが無かった。
陽子はどうすればいいか分からず、ただ立ち尽くしていた。
「それじゃ、僕もお父さんとお母さんにお別れの挨拶をするね。お家に入ってもいい?」
青年は寂しそうに笑うと、膝を手で払って立ち上がった。
頷きかけて――陽子は突然、青年の手を取った。
「……どうしたの?」
青年がきょとんとして陽子を見下ろした。
「……だめ!」
陽子は力いっぱい青年の手を引いたが、青年の手はびくともしない。
「何が駄目なの?」
「だめ! うちに入っちゃ、だめ!」
陽子は精いっぱいの力で青年の手を引き続けた。そんな状態が十秒ほど続いた。
「分かった。それじゃあ、どこか他の所でお話ししようか」
やがて青年は笑って言うと、もう一方の手で陽子の手を優しく握った。
「うん」
陽子はようやく手の力を抜き、青年の横に並んだ。
「喉が渇いたね、何か飲もうか。陽子ちゃんは何がいい? パフェ? それともケーキかな?」
パフェと聞いて陽子の目が輝く。しかし、そのすぐ後に困った表情に変わった。
「あ……ごめんごめん。知らない人について行くのはいけないね。僕は武井っていうんだ。お父さんの友達だよ。これならいいでしょ?」
「うん……たけいさん」
陽子はしばしの間、武井と名乗る青年の目を見つめていたが、やがて彼の手を取り、一緒に歩き始めた。
「いらっしゃーい」
入口のドアを開けると、口髭を生やした初老のマスターが新聞から目を離して挨拶した。
駅前にある小さな喫茶店は閑散としていた。
店内にいるのは武井と陽子、マスターにウェイトレスの中年女性と、奥で書き物をしている若者の五人だけだった。
「お好きな席へどうぞー」
にこやかだがどこか適当なウェイトレスの声。
武井はにっこり笑って頷くと、ソファがある奥のテーブル席へと移動した。陽子に壁際の奥の席を示すと、自分もソファへ腰を下ろす。
「ふう。今日は暑いね」
「うん。あついね」
そわそわした態度の陽子に武井はテーブル脇からメニューを抜き取り、差し出した。
「メニューをどうぞ」
「たけいさんはメニュー、見ないの?」
陽子は目を丸くして武井の顔を見上げた。
「店に入る前から決めてたんだ。僕はクリームソーダ」
そう言って武井は笑った。その笑顔はまるで純真な少年のようだった。
「失礼しまーす」
ウェイトレスがおしぼりと水を持ってきた。水に入った氷がカラン、と音を立てる。
「どうも」
武井が微笑んで頭を下げると、ウェイトレスもにこりと微笑む。
陽子は、この青年が人を笑顔にする力を持っているように感じた。
「ご注文が決まったらお知らせくださいね」
「あっ、あの……」
おずおずと陽子が声を発した。
「なあに? お嬢ちゃん」
ウェイトレスが陽子に優しく尋ねた。
「わたしも、クリームソーダ」
言ってから、いたずらっぽい顔で武井の顔を見上げた。
「陽子ちゃん、パフェやケーキのセットもあるよ。クリームソーダでいいの?」
「ううん。クリームソーダがいいの。同じのが、いいの」
陽子は少し恥ずかしそうに答えると、武井はうん、と頷いてから――。
「クリームソーダを二つ、お願いします」
ウェイトレスに爽やかな笑顔で注文を伝えた。
「はーい。クリームソーダお二つですね」
ウェイトレスは伝票に手早く注文を書き取ると、「少々お待ち下さいね」と武井に頭を下げ、陽子にも笑顔を見せた。
「はい、おしぼり」
武井は陽子にステンレスの皿に載ったおしぼりを差し出すと、自らもおしぼりを取り、両手を拭いた。
「ありがとう。……たけいさんは、おしぼりで顔をふかないの?」
「僕は、やらないよ」
武井はそう言っておしぼりをテーブルに置き、水を一口飲んだ。
陽子はおしぼりで手を拭きながら、武井の顔を見つめていた。
この人はお父さんや学校の先生、伯父さんとは違う。同じ大人なのに、どうしてこんなに違うんだろう?
お父さんの友達だということは、きっと三十歳くらいなんだろう。でも、この人はずっと若く見える。それに……他の大人は、この人のようには笑わない。
「陽子ちゃん、お家には今、誰がいるの?」
穏やかな口調で武井が尋ねた。
「……今は、おじさんとおばさんがいる」
「そう……おじさん達は、この後どうするって言ってた?」
「今日、あっちの家に帰るって。今日はわたしにもあっちに泊まりなさいって……言ってた」
陽子は顔を伏せながら、声を震わせて言った。
武井が陽子の肩を優しく叩く。
「分かった。その話はもう少し後にしよう。クリームソーダが来たみたいだしね」
陽子が顔を上げると、トレイにクリームソーダを載せて歩いてくるウェイトレスの姿が見えた。
陽子と目が合うと、ウェイトレスはにこりと笑った。
「お待たせしました。クリームソーダ、お二つね」
ウェイトレスがクリームソーダを武井と陽子の前に置く。
「どうも」
武井の笑顔は爽やかそのものだった。
「……ありがとう」
陽子も続いて礼を言うと、そのはにかんだ笑顔にウェイトレスが優しく微笑んだ。
「お嬢ちゃん、可愛いわねえ。そっちのお兄さんは従兄さん?」
「ハイ! そうでーす」
陽子はウェイトレスの質問に間髪入れずに答えた。
可愛いと言われたことへの照れ隠しもあって、授業中に手を挙げる時のような大きな声になった。
「そう。こんなかっこいい人が従兄でいいわねえ」
「いやぁ、そんな。かっこいいだなんて……」
武井は頭に手をやって、照れてみせた。
釣られて陽子も頬を赤らめる。確かに武井は稀に見る美男子だった。
大きな目にすっと通った鼻筋。日に焼けていたが肌は滑らかで、穏やかな言動に相応しい繊細な顔立ちをしていた。
「それじゃ、ごゆっくりどうぞー」
ウェイトレスは二人に頭を下げると、カウンターへと戻って行った。
武井はそれを見送ると、右手で頬杖をついて陽子の顔をじっと見た。
「駄目じゃないか。嘘ついちゃ」
「だって、お父さんの友だちって言ったら、あやしまれると思ったんだもん」
武井はずるり、と顔を手から滑らせた。
「ひどいなぁ。そんなに怪しい顔してるかな、僕?」
「うふふふ」
嘘だった。本当は、従兄妹同士だと思われたのが嬉しかったのだ。
「ま、いっか。アイスが溶けちゃうね。……それじゃ、いただきます」
「うん。いただきます」
丸く大きなグラスの中は鮮やかな緑色のソーダ水と氷で満たされていた。その上にこんもりとバニラアイスが盛られ、天辺に赤いサクランボが飾られている。
「きれいだね、たけいさん」
「うん、そうだね」
陽子がストローでソーダ水を一口飲んだのを見てから、武井も一口飲んだ。
「おいしいね」
「うん、おいしいね」
何気ない会話をしながら、二人でクリームソーダを飲んだ。
いつしか武井が本当の従兄のように思えて来た。
武井の笑顔はまるで本当の家族に接するように温かで優しかった。
たけいさんが自分の、本当の家族だったらいいのに。
お父さんとお母さんの思い出がいっぱいの家に、たけいさんといっしょに住めたらいいのに。
伯父さんの家に住むより、そのほうがずっと楽しいはずなのに――。
「陽子ちゃん?」
「え……」
武井に声をかけられて、自分が泣いていることにようやく気がついた。
「あ……わたし……」
武井の手が陽子の手に触れる。その瞬間、これまで抑えていた感情がこみ上げて来た。
「あっ……うぅっ……」
楽しい時間には必ず終わりがある、ということはこの数日間で嫌というほどわかっていた。
大好きな両親が死んでしまったことが、その何よりの証拠だった。
この優しい青年も葬儀にやって来たからには、家に上げなくてはいけないのだろう。そして「ごしゅうしょうさまです」と言って『おこうでん』を伯父さんに渡し、お線香を上げて帰ってしまうのだろう。
この楽しい時間も、もうすぐ終わってしまうのだ。
もうこの青年に会うこともないのだろう。大好きな父も母もいない、辛い日々が始まるのだろう。
そう考えると、溢れ出る涙を止めることができなかった――。
「あ……あれ……?」
気がつけば、陽子は布団に横たわっていた。
手でそっと自らの頬を撫でると、涙に濡れた。汗ばんだパジャマのボタンを外そうと手を動かすと、胸のふくらみに気がついた。
重いまぶたを開き、自らの身体と周りを見る。
身体はすっかり大きくなり、大人のそれになりつつあった。布団の周りには簡素な勉強机と、幼い頃にはなかった家具がある。
カーテンの隙間からは日光が降り注ぎ、朝が来たことを教えていた。
――私、いつの間に大きくなっちゃったんだろう。
昔の夢を見ていただけだというのに、一晩のうちに歳をとってしまったような錯覚に陥っていた。
シーツは汗で湿気を帯び、パジャマも下着も汗を吸って気持ちが悪い。
室温が三十度近い寝室を出ると、自然に足は風呂場へと向かった。
あくびをしながら、だるさの残る手でパジャマと下着を身体から引き剥がす。汗を吸った衣類を全て脱衣かごに入れると、目をつぶったまま風呂場のドアを開けた。
熱いシャワーは古くなった全身の皮膚を融かしてくれるようで心地良い。
石鹸の泡で包まれた身体をシャワーで流すと、まるで脱皮しているような感覚に陥る。
昨日までの悪い出来事を、古い自分と共に洗い流す。朝のシャワーは新たな一日を始める為の儀式だった。
全身の泡を洗い流すと、起きたばかりの時ははっきりしていなかった意識がようやく覚醒し始める。
湯気で曇った鏡には何も映っていない。手で軽く曇りを拭き取ると、そこには成長した自分の姿があった。
――そっか……もう九年も経ったんだっけ。
陽子は風呂場を出ると手早く汗を拭いて新しい下着を身に着け、制服に着替えて朝食の用意を始めた。
フランスパンを切り分けてハムエッグと生野菜のサラダを作り、紅茶を入れる。
茶葉は先日、伯父である春信から贈られたものだった。
「伯父さん、伯母さん、ありがとう。いただきます」
陽子は手を合わせて食卓を拝むと、紅茶にスライスレモンを浮かべ、砂糖を加えて一口飲んだ。
上質のディンブラ茶葉はレモンと相性が良く、香り・口当たり共に素晴らしい。
「ん……おいしい」
学校と仕事で忙しい平日の朝であっても朝食はしっかり摂る。陽子にとって大切な日々の習慣だった。
「ごちそうさまでした……っと」
食事を終えて手を合わせると、陽子はスケジュール帳を開き、今日の予定を確認した。
(六月三十日:歓迎会 午後五時半から事務所にて)
「変態くんの歓迎会かぁ……私は歓迎するつもりなんかないのに」
ぱたん、と音を立ててスケジュール帳を閉じると、陽子は食卓の上に置かれたカチューシャを両手でそっと髪に挿した。
陽子の髪を飾る、明るい琥珀色のカチューシャ。
他にもカチューシャは持っているが、彼女の髪を飾るのは決まってこれだった。




