第6話 眼鏡の向こう
四人の視線が一斉に湊に集まった。
「えっと……皆さんが、僕のために一生懸命なのはすごく伝わってます」
湊は言葉を選びながらゆっくり続けた。
「でもご飯の中身とか誰と挨拶したかとか全部記録するのは……皆さんも大変じゃないですか?」
湊としては四人を気づかったつもりだった。
「大変ではありません」
「まったく苦ではございません」
「むしろご褒美――いえなんでもあらしまへん」
「ぜんぜん余裕だし」
四人がほぼ同時に答えた。
「そ、そうなんだ……」
湊は少しだけ気圧された。
「男性保護法、第八条」
玲奈がすらすらと暗唱する。
「保護対象男性の私的領域は安全確保に必要な範囲で制限可能。本規約は全条文がこの範囲内」
「九条さん、そうなの?」
「ええ。ほかのコテージに比べたらかなり緩いほうですよ」
紗雪はそう言ってからちらりと玲奈を見た。
「ただ……この規約でいちばん記録の権限を持っているのは作成した会長ご本人ですね」
「作成者が運用するのは当然です」
ひなたがソファで静かに微笑んだ。
「僭越ながらわたくしも気になっておりました。分担を提案いたします。朝と夜は幼なじみのわたくしが」
「は? 朝と夜はアタシっしょ。部屋、結城の隣だし」
「言葉の記録は専門のうちが」
湊を置き去りにして話し合いはどんどん白熱していく。
「七瀬ひなた。あなたは入学したばかり。学内の事情を把握していません」
「先輩こそ湊さんの小さいころを何もご存じありませんよね」
「過去は安全管理に不要」
「好きな食べものも苦手な虫も雷が鳴ると眠れなくなることもでございますか?」
玲奈のペンがぴたりと止まった。
紗雪のペンは猛烈な速さで動き出した。
「ひなたちゃん、それは言わなくていいから……!」
湊が真っ赤になって止めてももう遅い。
「うち音のしない耳栓を研究しておきます」
「雷とかアタシが全部ぶっ飛ばすし。……あ、いや、雷は殴れないか……じゃあ隣で起きててあげるけど……」
「……雷の日は就寝確認を二回に増加」
ひなたはにこりと勝ち誇ったように微笑んだ。
湊は机に突っ伏した。
(僕のプライバシーの話、どこにいったんだろう……)
*
結局、規約はそのまま承認されることになった。
湊は冊子の最後の署名欄に自分の名前を書く。
「……あの、氷室さん」
顔を上げると玲奈は湊の署名を確認するために、眼鏡を外してレンズを拭いているところだった。
「どうしてそこまで僕のことを気にかけてくれるんですか?」
玲奈の手がほんの一瞬だけ止まった。
――一年前、あなたが傘を貸してくれたからです。
喉まで出かかった言葉を玲奈は飲みこむ。
「……職務だからです」
玲奈は眼鏡をかけ直さないまま、署名を確認しようと冊子に顔を寄せた。
眼鏡がないと玲奈の視力は〇・一もない。
だから署名を読むために顔を近づけて。
もっと近づけて。
気がつくと玲奈の顔は湊の顔のすぐ目の前にあった。
「ひ、氷室さん……?」
吐息がかかるほどの距離。
眼鏡越しではない長いまつげと少しだけ潤んだ碧い瞳。
いつもの鋭さが消えて、ぼんやりと焦点を探すその目はびっくりするほど無防備だった。
玲奈は眉をひそめてじいっと湊を見つめる。
玲奈の視界はぼやけていた。
それでもはっきり見えるものがある。
開いた襟もとの首筋の線。
そこだけがやけに近かった。
「……結城湊さん。前髪に寝癖があります」
「え、あ、はい」
「右側、三センチ。記録――」
そこでようやく玲奈は自分の目の前にあるのが署名ではなく湊の顔だと気づいた。
一秒。
二秒。
ぼんっと音がしそうな勢いで玲奈の顔が耳まで真っ赤に染まった。
「…………訂正します」
玲奈は光の速さで眼鏡をかけ冊子を奪い取るようにして立ち上がった。
「署名、確認完了。記録を開始します」
早足でリビングを出ていく玲奈の背中を湊はぽかんと見送った。
「……氷室さん、目、悪いんだね」
その場に残された三人はそれぞれ別の顔をしていた。
ひなたはにこやかな笑顔のままソファの肘掛けに爪を立てていた。
紗雪はファイルに『会長眼鏡を外すと近眼。距離、推定十五センチ。……危険』と書きこんでいた。
芽衣はフライパンを握りしめたまま口をぱくぱくさせていた。
「い、今のありなの!? 規約違反じゃないの!? ねえ!?」




