第5話 午前六時のリビング
午前五時五十五分。
湊があくびを噛み殺しながらリビングの扉を開けると四人がそろっていた。
長机の上座には朝からスーツ姿の氷室玲奈。
ソファにはクリーム色のカーディガンを着た七瀬ひなた。
その向かいでファイルを広げている九条紗雪。
台所では榊芽衣がジャージ姿でフライパンと格闘していた。
「おはようございます湊さん」
ひなたが静かに立ち上がり小さく会釈する。
「おはようひなたちゃん。みんな早いね」
「……うち四時半から起きてて……ふぁ。湊さんの寝息、壁ごしに聞こえへんかなあ思て……」
ソファにもたれた紗雪は半分まぶたが閉じていた。
それからはっと目を開けて背筋を伸ばす。
「……いえ。何でもありません。寝ぼけていました」
「……九条先輩。それはわたくしも四時から試みておりましたが聞こえませんでした」
ひなたと紗雪がにこやかに見つめあう。
湊がソファの横を通り過ぎるときひなたがほかの三人に聞こえない声で囁いた。
「……一番に『おはよう』って言いたかったのに」
耳もとにかかる吐息に湊の肩がびくっと跳ねる。
台所から焦げくさい匂いが漂ってきた。
「……っ、あーもう! なんで卵ってこんな秒で焦げんの!?」
芽衣が真っ黒になった目玉焼きを前に頭を抱えていた。
「芽衣さん、大丈夫?」
「だ、大丈夫だし! てか見んな!」
芽衣はフライパンを背中に隠した。
「……アンタの朝ごはんちゃんと作ろうと思ったの。護衛係の一日目だし」
小さな声でぼそっと。
金色の前髪の隙間からしょんぼりと下がった眉がのぞく。
「ありがとう。僕、焦げてるの平気だよ」
「……っ、べ、べつにアンタのためとかじゃ……」
芽衣は真っ赤になってフライパンで顔を隠した。
「五時五十五分。集合時刻の五分前」
上座で玲奈がストップウォッチを止めた。
「良い傾向です。結城湊さん」
「ありがとうございます」
湊がにこっと笑うと玲奈は無言でノートに何かを書きこんだ。
ペン先がほんのわずかに震えていた。
「着席してください。行動記録規約の説明を始めます」
湊の前に置かれた冊子には『白鷺寮 行動記録規約(全三十二条)』とあった。
「第三条。起床および就寝の時刻を護衛係に報告すること」
「はい」
「第五条。学内において対象の半径二十メートル以内に常時、護衛係一名以上が在席すること」
「……二十メートル」
「講義中も食事中も移動中もです。護衛係四名で当番を組みます」
「じゃあ、一人になる時間は」
「原則、ありません」
玲奈は冊子のページをめくった。
「ただしただし書きがあります。……管理局が指定する『保護区画』の内側にいる場合は護衛係の在席を要しない」
「保護区画?」
「男子学生の単独行動が例外的に認められている区画です。学内では三か所」
玲奈は指を三本立てた。
「医務室。男子用の更衣区画。そして北棟の夜間男子学習室」
「なんで自習室が」
「入口が学生証の認証式で内部は全域が監視カメラ下にあるからです。加えて――」
玲奈はそこで少しだけ言葉を選んだ。
「あの区画は男子学生専用です。女子学生は立ち入れません」
「専用?」
「正式名称は『夜間男子学習室』。管理局が全国の大学に設置を義務づけている施設です」
玲奈は規約の巻末の図を指した。
「きっかけは十二年前の事例です。ある大学で男子学生が夜間に一般の自習室を使ったところ噂を聞いた学生が百人近く集まりました」
「……百人」
「入口に人が詰まって退出できなくなったそうです。その男子学生は四時間後に過呼吸で運ばれました」
湊は言葉を失った。
「以来、男子学生が落ち着いて学習できる区画を各大学が用意することになりました。学生証の性別情報で認証しますので、女子学生はそもそも扉が開きません」
「職員の人も?」
「入れるのは管理局の常駐職員だけです。……護衛係はただの学生ですので」
湊は目を瞬かせた。
「え。じゃあ、僕が自習室にいるあいだみなさんは」
「入口の外で待機します」
玲奈は眼鏡を押し上げた。
「規定上、そうするしかありませんので」
玲奈は眉ひとつ動かさずに続けた。
「第七条。毎食の品目と残した食材を記録」
「残した食材まで……」
「第十一条。対象が会話した女子学生の人数と氏名を記録。挨拶も含む」
紗雪がそっと手を挙げた。
「会長。会話の中身は記録なさらないんですか?」
「プライバシーに配慮し対象外としました」
「……もったいないですね」
「第十九条。お世話係の指名に関する相談は事前に護衛係へ行うこと」
その条文にひなたと紗雪と芽衣の肩が同時にぴくりと動いた。
「第二十四条。管理局支給の端末を常時携帯し位置情報を護衛係と共有」
その条文を聞いたとき湊の心臓がどくんと跳ねた。
(木曜日のアルバイト、どうしよう……)
湊が顔に出さないように膝の上で指を握ると、台所の芽衣がちらりとこちらを見た。
「――第三十二条。本規約は護衛係の合議により随時追加・改定が可能。以上です」
玲奈が冊子を閉じたその瞬間。
三本の手が同時に挙がった。
「第三十三条、うちから提案させていただいてもよろしいですか」
「……わたくしもひとつよろしいでしょうか」
「アタシも!」
「えっと……どうぞ?」
湊がうなずくと紗雪が一枚の紙を取り出した。
「第三十三条。湊さんが使われた食器や筆記具は学術資料として、うちが大切に保管します」
「却下」
玲奈が即答した。
ひなたが膝の上で手をそろえたまま微笑む。
「第三十三条。移動時、湊さんの右隣は幼少期より湊さんの生活習慣を把握している護衛係が務めるものといたします」
「特定個人への利益誘導。却下」
芽衣がフライパンを持ったまま身を乗り出した。
「第三十三条! 結城の外出はぜんぶアタシが同伴! 外マジ危ないから!」
「……却下」
玲奈は眼鏡を押し上げ三人を順番に見据えた。
「規約は結城湊さんの安全のためのものです。私的な欲求の持ちこみは禁止」
三人が一斉に玲奈を見た。
「では会長ご自身のご提案は?」
「ありません」
「本当に?」
「本当です」
ひなたがちらりと玲奈のノートに目を落とした。
表紙の端から付箋が一枚はみ出している。
『第33条(案):対象の笑顔の記録は会長のみが――』
玲奈は音もなくノートを閉じた。
リビングに見えない火花が散る。
その真ん中で湊だけが首をかしげていた。
(みんなすごく真剣に僕のことを考えてくれてるんだなあ)
そしておずおずと手を挙げる。
「あの……僕もひとつ言ってもいいですか?」
四人がぴたりと動きを止めた。
「異議、あります」




