第4話 白鷺寮と三本の合鍵
日が傾きはじめたころ湊はひなたと紗雪に付き添われて、今日から暮らすコテージにたどり着いた。
キャンパスの北側に広がる森の中には男子学生のためのコテージが点々と建っている。
どれもガラス張りの真新しい建物だった。
その一番奥。
「……ここですか?」
湊が見上げたのは蔦の絡まった木造二階建ての古い洋館だった。
白い壁はところどころ剥げていて緑青色の屋根には苔が生えている。
玄関の上にはかすれた文字の看板。
『白鷺寮』
「昔の男子寮なんですって。奨学生の方にはここが割り当てられるのが決まりだそうでございます」
ひなたの説明に紗雪が首をかしげる。
「ほかのコテージは新しいのに……ずいぶん年季の入った建物ですね」
「僕はこっちのほうが落ち着くかも。広すぎないし」
湊が笑うとひなたと紗雪は顔を見合わせた。
「……湊さんはそういうお方ですものね」
「湊さんはそういう方なんですね」
二人の声がぴったり重なる。
それからばちっと視線がぶつかった。
湊が玄関の扉に手をかけたそのとき。
扉が内側から勢いよく開いた。
「おっそ! どんだけ待たせんの!」
中から顔を出したのは明るい金色の髪をした女の子だった。
高い位置でひとつにまとめたポニーテール。
校章入りのジャージを腰に巻いて、袖をまくったTシャツから、日焼けした腕がのぞいている。
耳には小さなピアスが三つ。
猫みたいに少しつり上がった目につやつやのグロス。
「体育学部一年、榊芽衣! 今日からアンタの護衛係だからよろしく!」
芽衣はどんと胸を叩いた。
「玄関の立て付けが悪かったからアタシが直しといた。あと窓の鍵も三か所ガバガバだったから全部交換。この寮、防犯ザルすぎ。マジありえないんだけど」
「え、あ、ありがとうございます……?」
湊が頭を下げると芽衣は「べつに」と鼻を鳴らした。
それから湊の顔を正面から見て――
「……は?」
芽衣の動きがぴたりと止まった。
「え……アンタ、まさか」
芽衣の目がみるみる丸くなる。
「駅裏の弁当屋の……みなちゃん――」
湊はとっさに芽衣の口を手のひらでふさいでいた。
「んむっ!?」
湊はうしろのひなたと紗雪に聞こえないように小さな声で必死にお願いする。
「ご、ごめんなさい! それ内緒にしてもらえませんか……!」
芽衣は口をふさがれたまましばらく固まっていた。
湊の手のひらの下で芽衣の頬がじわじわと熱くなっていく。
湊が慌てて手を離すと芽衣はぽかんと湊の顔を見上げた。
「……え、待って。みなちゃんって……男……?」
湊のつま先から頭のてっぺんまでを芽衣の目が何度も往復する。
「マジで……? アタシ、一年通ってて一回も気づかなかったんだけど……」
湊は泣きそうな顔で人差し指を唇に当てた。
芽衣はさっきまでの勢いが嘘のようにぱっと顔をそらした。
「…………い、言わねーし」
それから胸の前で指先をもじもじと絡ませる。
「てかいきなり女の子の口とかさわんないでよ……ばか」
消えいりそうな声だった。
耳まで真っ赤になって、金色の前髪をいじりながら、ちらちらと湊を見上げてくる。
さっきの「マジありえないんだけど」と同じ人とはとても思えなかった。
「……湊さん。今、何のお話を?」
「湊さん。そちらの方とお知り合いですか?」
うしろから温度のない声が二つ。
「な、なんでもないです!」
湊の声が裏返った。
*
芽衣に案内された白鷺寮の中は外見よりずっと清潔だった。
一階には広いリビングと台所。
二階には湊の部屋と護衛係四人分の個室。
一階の廊下のいちばん奥には板を打ちつけた扉が一つあった。
「……あそこは」
「東翼。昔の寮生の部屋だって。床が抜けてるから閉鎖」
芽衣は扉を振り返りもしなかった。
「入んないでよ。アンタ落ちたらアタシの責任だし」
「で、これ。アンタの部屋の鍵」
芽衣が銀色の鍵を湊の手のひらに落とした。
それからジャージのポケットからじゃらりと鍵束を取り出す。
同じ形の鍵が三本。
「こっちは合鍵。一本はアタシ。一本は予備」
「……三本目は?」
「予備の予備」
芽衣はにっと八重歯を見せて笑った。
「アンタみたいなぽやぽやしたの何かあったらアタシが一秒で駆けつけなきゃじゃん。……外、危ないんだから。なるべくアタシの目の届くとこにいなよ」
そう言ってから芽衣は自分の言葉に気づいたようにまた耳を赤くした。
「い、今のは護衛係としての意見だから!」
そのとき玄関のベルが鳴った。
扉の向こうに夕陽を背にしてスーツ姿の氷室玲奈が立っていた。
逆光の中でひとつに束ねた銀髪が輪郭だけ白く光って見えた。
手には大きなスーツケースと分厚い封筒。
「本日より入居します。氷室玲奈です」
封筒を差し出す前に玲奈は湊の襟もとへ手を伸ばした。
「失礼します。ネクタイが曲がっています」
「あ、すみません」
細い指が結び目をつまんで上へ引き上げる。
その指先のほんの数センチ下で。
湊の喉仏がこくりと動いた。
玲奈の手が止まった。
「……氷室さん?」
「――いえ」
玲奈はネクタイから手を離し一歩下がった。
(記録できません。こういうものは記録のしようがない)
耳の先が熱を持っている。
玲奈はそれを悟られないように封筒を突き出した。
「行動記録規約です。明朝六時、リビングにて説明を行います」
それから玄関の傘立てに目を落とす。
そこには湊が持ってきた安物のビニール傘が一本。
玲奈の動きがほんの一瞬だけ止まった。
「氷室さん?」
「……いえ。本日の就寝は二十三時までに」
玲奈はスーツケースを引いて階段を上がっていく。
心なしかその耳の先が赤かった。
*
その夜。
湊は自分の部屋のベッドに仰向けになって天井を見上げていた。
壁の向こうには四人がいる。
同じ屋根の下に女の子が四人。
十年ぶりに再会した幼なじみのひなた。
僕の作文を暗唱して手を重ねてきた九条さん。
アルバイトのことを知っている芽衣さん。
そして「一秒残らず管理します」と言った氷室さん。
四人とも優しかった。
びっくりするくらい優しかった。
(……でも勘違いしちゃだめだよね)
湊は真剣な顔で自分に言い聞かせる。
(みんな護衛係だから優しくしてくれてるんだ。お仕事なんだから)
枕もとで端末が震えた。
すずからのメッセージだった。
『引越し完了の報告、まだなんだけど? あと寝不足禁止。メモしとくからね』
湊は小さく笑って「無事に着きました。おやすみなさい」と返した。
「……明日から迷惑かけないようにがんばろう」
湊は満足げに目を閉じた。
*
湊の部屋の明かりが消えたのは二十二時五十八分。
その壁の向こうで。
玲奈はスーツケースの底に隠してきたビニール傘をそっと撫でていた。
ひなたは十年前に二人で撮った写真を枕もとに立てかけていた。
紗雪は自分の右手のひらを何度も何度も見つめていた。
芽衣は湊にふさがれた唇に指先で触れて、ベッドの上で枕を抱えてごろごろ転がっていた。
四人が考えていることはたったひとつだった。
――あの人をほかの三人には渡さない。
その当の本人は四人の誰にも気づかないまま眠っていた。
*
夕食のあと。
湊は白鷺寮の玄関先で支給された端末を耳に当てていた。
『――はい、もしもし』
母の声はいつもより少しだけかすれていた。
「母さん。ごめん遅くなって」
『いいのよ。今日、入学式だったんでしょう。どうだった?』
湊は森の暗がりを見上げた。
護衛係のこと。
抽選のこと。
女の子が四人、同じ屋根の下にいること。
どれから話せばいいのか分からなかった。
「……大きい大学だったよ。門から校舎まで歩いて十分かかる」
『あらまあ。湊、迷子にならなかった?』
「なった」
『やっぱり』
母が小さく笑った。
その笑い方で湊の肩から少し力が抜ける。
「母さんこそ今日の検査どうだった?」
『先生がね数値は落ち着いてるって』
「ほんとに?」
『ほんとよ。……湊、あなたまたお金のこと考えてるでしょう』
湊は返事に詰まった。
『いいのよ。お母さん、ちゃんと保険もあるんだから』
嘘だと湊は思った。
その保険では来月からの治療費は足りない。
先週、病院の窓口で説明を聞いたのは湊自身だった。
「……うん。分かってる」
『じゃあ、勉強しなさい。せっかく入れたんだから』
「はい」
『それと湊』
「なに」
『ちゃんとごはん食べるのよ。あなた一人だと平気で抜くから』
湊は思わず笑った。
「食べてる。今日もいっぱい食べた」
それは本当だった。
通話を切って湊は端末をポケットにしまう。
振り返ると玄関の引き戸が半分だけ開いていた。
「……あ」
隙間から金色の髪がのぞいている。
「べ、べつに聞いてたわけじゃないし!」
芽衣が慌てて顔を引っこめた。
「今、出てきたとこだし! 風に当たろうと思って!」
「芽衣さん、聞こえてました?」
「……ちょっとだけ」
芽衣は引き戸の陰からばつが悪そうに顔を出した。
「アンタのお母さん、入院してんの」
「はい」
「……そっか」
芽衣はそれ以上は聞かなかった。
代わりにぶっきらぼうに言った。
「明日の朝ごはんアタシが作る」
「大丈夫ですか?」
「なんで疑うの!?」
「いえ、あの、無理はしないでほしくて」
「するし! めっちゃ無理するし!」
芽衣はどすどすと廊下へ戻っていった。
その背中を見送りながら湊は少しだけ考えた。
(……あの人たちなんであんなに一生懸命なんだろう)
お仕事だから。
湊の中の答えはその日もまだそこで止まっていた。
*
午後十時。
学生自治会室では玲奈が机の上に一枚の紙を広げていた。
『護衛係 当番表(案)』
朝六時から深夜零時まで二十四時間を四人で割った表。
玲奈は万年筆で細かく時間を刻んでいく。
講義の時間割。
移動の経路。
食事の時間。
そのすべてに誰かの名前を入れていく。
(――規約第五条。半径二十メートル以内に常時一名以上)
玲奈は一年前の雨の夜を思い出していた。
あのとき玲奈はホームで動けなかった。
傘を差し出した男の子は走り去った。
追いかけることも名前を聞くこともできなかった。
(今度は目を離しません)
玲奈は当番表の最後の欄に自分の名前を書きこんだ。
深夜零時から朝六時。
誰も希望しなかったその時間帯を。
(第1章 了)




