第3話 紙コップ
職員が報告を終えひなたが湊のうしろの席に行儀よく収まったころ。
扉を控えめに三回ノックする音がした。
「失礼いたします」
入ってきたのは雪のように白い肌をした女性だった。
腰まで届くまっすぐな黒髪。
淡い藤色のワンピースに胸の前でそっと抱えた分厚いファイル。
ふわりと白檀のような落ち着いた香りがした。
彼女は湊の前まで来ると流れるような所作で頭を下げた。
「文学部二年、九条紗雪と申します。第二十二ハウスの所属ですが、このたび護衛係を務めさせていただくことになりました。どうぞよろしくお願いいたします」
丁寧で落ち着いた声だった。
ただ語尾の抑揚だけがほんの少しやわらかい。
「……あの、もしかして関西の方ですか?」
「あら。分かりますか?」
紗雪は少しだけ困ったように眉を下げた。
「京都です。普段は出ないように気をつけているんですけれど」
紗雪は顔を上げて湊をじっと見つめた。
そのままぴたりと動かなくなる。
十秒。
二十秒。
「……あの、九条さん?」
「……っ、かんにんえ」
口からこぼれた言葉に紗雪自身がはっとした。
ファイルを胸にぎゅっと抱きしめて小さく咳払いをする。
「……失礼しました。ずっと文字の上でしかお会いしたことがなかったものですから。本物の湊さんが目の前にいらっしゃると思ったら、少し胸がいっぱいになってしまって」
紗雪はほんのりと頬を染めて微笑んだ。
それからすうっと息を吸って大切な歌を詠むように唱えはじめる。
「『僕は守られるだけの人間にはなりたくありません。いつか僕を守ってくれた人たちを今度は僕が守れるようになりたいです』」
湊の顔が一瞬で真っ赤になった。
「そ、それ僕の奨学生選考の作文……!?」
「はい。公開論文集に掲載されていました」
「あれ公開されてたの!?」
「全文、暗唱できます。続きもお聞きになりますか?」
「聞かなくていいです……!」
湊が両手で顔を覆うと紗雪の視線がその手にすっと吸い寄せられた。
「……湊さん」
「は、はい」
「少しだけその手を見せていただいてもよろしいですか?」
言われるまま湊はおそるおそる右手を差し出した。
紗雪は自分の白い手のひらを湊の手のひらにそっと重ねる。
ひやりと冷たい指先。
湊の手のほうが指の関節ひとつぶん大きかった。
「……ああ」
紗雪の唇からため息のような声がこぼれた。
重なった手のひらごしに紗雪の指先が湊の中指のペンだこをそうっとそうっとなぞる。
「この手ぇであの作文を書かはったんやねえ。……えらいがんばってはる手や」
囁くようなほどけた言葉だった。
さっきまでの丁寧な口調がどこかへ消えている。
湊はどうしていいか分からず固まっていた。
心臓の音が手のひらから伝わってしまいそうだった。
「――九条先輩」
うしろの席からひなたの声がした。
穏やかで丁寧で温度のない声。
「湊さんがお困りでございます。お手をお離しくださいませ」
「あら、七瀬さん。えらいこわいお顔しはって――」
そこまで言って紗雪は自分の口調に気づいたらしい。
湊の手をぱっと離し耳まで赤くなってファイルで口もとを隠した。
「……失礼しました。うち研究のことになるとつい気が抜けてしまって」
二人はにこやかに微笑みあう。
部屋の温度が二度ほど下がった気がした。
*
職員からひと通りの説明が終わり湊は空になった紙コップをゴミ箱に捨てた。
振り返ると――紗雪がゴミ箱の前にしゃがみこんでいた。
白い指先が湊の紙コップをそうっと拾い上げる。
紗雪はそれを日付の書かれた透明な袋に入れて丁寧に封をした。
「……九条さん。それゴミだよ?」
紗雪は顔を上げてふわりと微笑んだ。
「ゴミではありません。記録資料です」
*
――九条紗雪は殿方の「本当の声」を、一度も聞いたことがなかった。
代々学者の家に生まれ選んだ専攻は男性社会学。
フィールドワークで何人もの殿方に話を聞こうとした。
けれど誰もが同じ答えを返した。
「国のために個人的な意見は控える」
「僕の言葉が君に余計な期待を持たせるといけないから」
皆、誠実な人たちだった。
誠実すぎて誰一人、自分の気持ちを口にしてくれなかった。
紗雪のノートに残ったのはどこかで聞いたような立派な建前ばかり。
一年前。
奨学生の論文集の中でひとつだけ紗雪の指を止めた文章があった。
――守られるだけの人間にはなりたくありません。
建前ではない一人の男の子のまっすぐな本音だった。
紗雪はその晩、生まれて初めて論文を読んで泣いた。
(ほかの殿方は建前しか聞かせてくれはらへん)
紗雪は日付入りの袋を胸に抱いてそっと目を閉じる。
(せやけど湊さんだけは――うちが初めて、言葉に恋をしたおひとや)
七瀬ひなたはあの方の過去を持っている。
氷室玲奈はあの方の現在を管理しようとしている。
うちにはあの方の言葉しかあらへん。
(せやから集めるんどす。……どなたにも負けしまへんえ)




