第2話 みーくん
飛び込んできたのは明るい栗色の髪をした女の子だった。
職員の腕をするりとくぐり抜け長机を回りこみそのまま――
「わっ……!?」
湊に正面から抱きついた。
「みーくん……ほんとにみーくんだ……!」
「え、ちょ、ちょっと待ってあの……っ」
ふわりと甘い匂いがする。
「規定違反です! ただちに離れなさい!」
職員の鋭い声に女の子の背中がぴくりと固まった。
彼女はゆっくりと腕をほどき一歩下がる。
乱れた髪を指先で整えスカートの裾をそっと直す。
それから職員に向き直り両手を前でそろえて深く美しく一礼した。
「……大変、失礼をいたしました」
さっきまでとは別人のような小さく澄んだ声。
「経済学部一年、七瀬ひなたと申します。本日より第三十八ハウスに配属となりました。このたびは護衛係も拝命いたしましたので、ご挨拶に伺ったのでございますが……取り乱してしまいお恥ずかしい限りでございます」
伏せられた長いまつげ。
ほんのりと染まった頬。
どこから見ても控えめで品のいいお嬢様だった。
職員は毒気を抜かれたように咳払いをして報告のために背を向ける。
その途端、女の子はくるりと湊を振り返った。
そして背伸びをして湊の耳もとに唇を寄せる。
「もー、ひどいなあ」
吐息まじりのくすぐったい囁き声。
湊の背筋がぞくっと震えた。
「今、『誰だっけ』って顔したでしょ。……わたしのこと忘れちゃったの?」
顔を離した女の子の大きな瞳。
目尻の小さな泣きぼくろ。
湊の記憶の底で何かがちかりと光った。
夕暮れの公園。
砂場の隅でいつも一人でうつむいていた女の子。
湊が話しかけたときだけぱっと笑ってくれた女の子。
「……ひなた、ちゃん?」
「正解っ」
ひなたは湊のおでこを人差し指でつんとつついた。
「で、でも名字……ひなたちゃん、小野だったよね」
「今は七瀬なの。七瀬の家の養女にしてもらったんだ。星陵って家の名前がないと入れないでしょ?」
「そんな簡単に……」
「簡単じゃなかったよ。すっごくがんばったもん」
ひなたはにこっと笑う。
「さっきの挨拶、別の人かと思った」
「当たり前でしょ。ここお嬢様しかいないんだから。ちゃんと猫かぶらないとね」
ひなたはもう一度背伸びをして湊の耳もとで囁いた。
「――みーくんの前以外ではね」
耳が熱い。
「……でもひなたちゃん。僕の進学先が決まったの先月なんだ」
「うん」
「養女になるのって先月からじゃ間に合わないよね? しかもハウスまで一緒なんて……」
ひなたはほんの一秒、湊の目をじっと見つめた。
それから人差し指をそっと自分の唇に当てる。
「ないしょ」
そのとき開いたままの扉の外で、スマートフォンを構えた女子学生たちがこそこそと中を覗いていた。
ひなたはすっと背筋を伸ばし一瞬でお嬢様の顔に戻る。
「申し訳ございません。こちらは立入制限区域でございますので……お引き取りいただけますでしょうか?」
穏やかで丁寧で少しも棘のない声。
なのに女子学生たちは「ひっ」と息をのみ転がるように逃げていった。
振り向いたひなたはお日さまみたいな笑顔だった。
「今日から同じおうちだね。みーくん」
*
――湊にはきっと分からない。
七瀬ひなたにとって「みーくん」がどういう存在なのか。
小さいころのひなたは人前で声が出せない子どもだった。
砂場の隅でうつむいていたひなたに湊だけが言ったのだ。
――ひなたちゃんって笑うとすっごくかわいいね。
それから湊の前でだけは笑えるようになった。
七瀬家の養女になってからの三年間ひなたは社交界で、何人もの名家の殿方と顔を合わせた。
彼らは皆、礼儀正しかった。
そして皆、同じ目をしていた。
この娘は国の未来にふさわしいか。成り上がりの家の養女で務まるのか。
審査する目。
ひなたはそのたびに完璧な笑顔を作った。
殿方の審査に合格するためのただのお仕事の笑顔を。
でも湊は違う。
湊はひなたの笑顔を審査しなかった。
ただ嬉しそうに「かわいいね」と言ってくれた。
本物の笑顔を見たがってくれる男の子は世界中でたった一人しかいない。
(だからほかの男じゃ意味がないの)
ひなたは湊の隣でにこにこと微笑みながら、頭の中で三つの名前を並べていた。
氷室玲奈。
九条紗雪。
榊芽衣。
(みーくんの「隣」は、十年前からわたしの場所なんだから)
ひなたは湊の袖口を指先でそっとつまんだ。




