第14話 動かない青い点
十九時三十分。
白鷺寮のリビング。
長机の上に少しだけ焦げた鍋が置かれていた。
「……肉じゃが。たぶん」
芽衣が腕を組んでそっぽを向いていた。
「たぶんでございますか」
「うっさい。見た目はアレだけど味はたぶんフツーだし」
「見た目が肉じゃがではございませんので」
「じゃあ何に見えんの」
「……炭火焼きの、何か」
「何かってなに!!」
ひなたは箸を取ってひと口食べた。
少しだけ目を丸くした。
「……本当に普通においしゅうございます」
「でしょ!?」
「見た目と味の落差、興味深いですね」
紗雪がファイルに何か書きこんだ。
「……ほんまにどないしたらこの色になるんやろ」
「九条さん今なんか言った?」
「いいえ。何も」
「言った。絶対言った」
「独り言は会話に含まれません」
「会長みたいなこと言うな!」
芽衣が鍋の蓋を乱暴に閉めた。
閉めてからそっと一皿ぶんを小鉢に取り分けた。
ラップをかける。
冷蔵庫のいちばん手前に置く。
「……それは」
ひなたが首をかしげた。
「べつに。余っただけ」
「まだお鍋に半分ございますが」
「余っただけ!」
小鉢のラップには油性ペンで小さく『ゆ』と書いてあった。
ひなたと紗雪は顔を見合わせて何も言わなかった。
言わないかわりに二人ともほんの少しだけ口もとを緩めた。
三人がそうしているあいだ。
上座の玲奈だけは箸を持ったまま手もとの端末を見つめていた。
画面には湊の位置情報。
青い点は北棟の裏手で止まっている。
十八時四十八分から一ミリも動いていない。
「……会長? お箸、止まってはりますよ」
「九条さん、また」
「……止まっていますよ」
玲奈は顔を上げなかった。
「夜間男子学習室の入口は北棟の正面玄関側です」
「はい?」
「対象の位置情報は北棟裏庭。学習室とは反対側です」
リビングの空気がすっと冷えた。
ひなたが箸を置いた。
「……昨日と同じ場所でございますね」
「四十二分間。一度も動いていません」
「動いていない、というのは」
「人間は座っていても少しは動きます。位置情報の誤差も普通なら数メートルは揺れる。これはまったく揺れていない」
紗雪がファイルを閉じた。
「……端末だけがそこに置いてある可能性があるということですね」
その瞬間ソファの上の芽衣の肩がびくっと跳ねた。
ひなたはそれを見逃さなかった。
「榊さん」
「な、なに」
「何かご存じでいらっしゃいますか?」
「べ、べつに。なんも知らないし」
「さようでございますか」
ひなたはにこやかに微笑んだ。
「ではなぜ今時計をご覧になったのでございますか?」
芽衣の視線は確かに壁の時計に向いていた。
十九時三十二分。
「……見てないし」
「見ていらっしゃいました」
「見てないって言ってんじゃん!」
芽衣が声を荒らげた。
それからしまったという顔で口を押さえた。
「……結城、課題やりたいって言ってたし。邪魔すんのよくなくね?」
いつもの芽衣よりずっと小さな声だった。
玲奈は芽衣を見た。
長い沈黙。
それからゆっくりと立ち上がった。
「確認に行きます」
「わたくしも参ります」
「うちも」
「アタシも行く!」
「いいえ。私一人で行きます」
「なんで!?」
「大人数で行けば目立ちます。対象が本当に自習をしていた場合、ほかの学生に余計な注目を集める」
正しい理屈だった。
でもひなたは玲奈の手もとを見ていた。
ノートを握る指先が白くなるほど力がこもっていた。
「……会長」
ひなたはいつもより少しだけ低い声で言った。
「湊さんを見つけたらすぐにご連絡くださいませ。わたくしたちも同じ護衛係でございますので」
玲奈は一瞬だけ足を止めた。
「……承知しました」
玄関の扉が閉まった。
リビングに残された三人は、しばらく誰も口を開かなかった。
芽衣が膝を抱えて小さく呟いた。
「……アタシなんも言ってないからね」
「ええ。榊さんは何もおっしゃっておりません」
「ええ。何も」
二人の声は同じくらい優しかった。
同じくらい何かを確信していた。
「……その顔やめて」
「どの顔でございましょう」
「二人ともアタシのこと分かってますみたいな顔」
「分かっておりませんよ。何も」
「分かってない顔もやめて!」
芽衣はクッションに顔をうずめた。
うずめたまま冷蔵庫のほうをちらりと見た。
『ゆ』と書いた小鉢がまだいちばん手前にあった。
*
白鷺寮から北棟へ続く夜の森の小道。
玲奈は走っていた。
スーツのまま。
パンプスのまま。
踵が石畳でかつかつと鳴った。
(落ち着いてください)
自分に言い聞かせる。
(端末を置き忘れただけかもしれません。本当にベンチで休んでいるだけかもしれません)
でも足が止まらなかった。
頭の中にあの雨の夜がよみがえる。
傘を押しつけて雨の中へ走り去っていく背中。
名前を聞く前に消えてしまった人。
一年間どこを探しても見つからなかった人。
(見ていなければ――)
玲奈は唇を噛んだ。
(見ていなければまたいなくなる)




