第15話 ログ第1462行
十九時四十一分。
北棟裏庭。
通用口の扉を押し開けた玲奈は、息を切らしたまま立ち止まった。
ベンチの上には誰もいなかった。
いや。
ベンチの片方の端にフードをかぶった誰かが寝そべっていた。
そしてもう片方の端に管理局の端末がぽつんと置かれていた。
画面の隅で位置情報のアイコンが小さく点滅していた。
「……結城湊さんは」
声が少しだけ震えた。
フードの下から跳ねた毛先がのぞいた。
「……知らね」
千景は寝そべったまま答えた。
「あーし何も見てないし」
玲奈はベンチに近づいて端末を手に取った。
湊の端末だった。
「久遠千景さん。あなたは第三十八ハウスのゼミのTAですね。昨日、この場所で結城湊さんと接触していた」
「昨日はあいつが勝手に来ただけ」
「今日は」
「知らね」
「あなたは知っている」
玲奈は端末を握りしめた。
「この端末は一時間前からここにあります。あなたも一時間前からここにいた。結城湊さんがこれを置いていくところを見ていたはずです」
千景はフードを少しだけ持ち上げた。
眠たげな半目がまっすぐ玲奈を見上げた。
「……知ってたとして」
「……」
「あーしが言うと思う?」
玲奈は言葉に詰まった。
「嘘は、ついていないのですね」
「ついてないよ。知ってるけど言わない、って言ってる」
「それは嘘より手ごわいです」
「知ってる」
問い詰めることはできた。
自治会長の権限でTAとしての立場を揺さぶることもできた。
でもそれをしたら。
湊がこの人を信じて端末を置いていった、その信頼ごと踏みにじることになる。
玲奈はベンチの前で立ち尽くした。
「……私は、結城湊さんの護衛係です。あの人の安全を守るのが私の職務です」
「ん」
「あの人に何かあったら。どこかで危ない目にあっていたら。……私は、また」
また。
その続きを玲奈は飲みこんだ。
千景はしばらく黙って玲奈を見ていた。
それからベンチの端をパーカーの袖でちょいちょいと指した。
「……座れば。立ってんの疲れね?」
「職務中です」
「座ってても職務はできるっしょ」
「……」
「あいつ戻ってくるよ。端末ここに置いてったんだから。二十二時前って言ってたし」
玲奈の肩がほんのわずかに揺れた。
「……二十二時前、と」
「あ。今の言っちゃったか。……ま、いーけど」
千景はどうでもよさそうにあくびをした。
玲奈は長い沈黙のあとでベンチの千景とは反対の端に、ゆっくりと腰を下ろした。
二人のあいだには端末ひとつ分の隙間があった。
*
二十時。
千景がキャンディの包みを開ける音がした。
「……いる?」
玲奈の前に包装されたままのソーダ味が差し出されていた。
「職務中です」
「じゃ、職務外で」
「職務外という時間は現在ありません」
「……だる」
千景はキャンディを引っこめなかった。
玲奈も受け取らなかった。
キャンディは十秒ほど二人のあいだの空中にあった。
それから玲奈が黙って受け取った。
受け取ってスーツのポケットに入れた。
開けなかった。
「食べないの」
「……記録資料です」
「なにそれ」
「分かりません。今、言ってみただけです」
千景がふっと鼻で笑った。
二十時三十分。
二人とも何も言わなかった。
玲奈は膝の上でノートを開いたまま何も書けずにいた。
『18:35 移動申請。北棟夜間男子学習室。三時間。保護区画につき護衛不要』
『18:48 位置情報北棟裏庭で停止』
その次の行。
ページの左端の通し番号。
『1462』
入学式の朝から数えて千四百六十二行目。
『19:00〜 所在不明』
そう書くのが正しい。
玲奈は万年筆のキャップを外した。
ペン先を紙に当てる。
――所。
そこで手が止まった。
二十一時。
「……ねえ」
隣から低い声がした。
「そのノート。あいつのこと全部書いてんの」
「職務ですので」
「ふーん。……あーしは何も書かないって、あいつに言ったんだよね」
「存じています」
「言ってた?」
「いいえ。ですが分かります」
玲奈は書きかけの一文字を見つめた。
「昨日、ここから戻ってきたときのあの人は。……とても息がしやすそうな顔をしていましたから」
千景は何も言わなかった。
夜風が吹いて紫陽花の葉がさわさわと鳴った。
「……会長さん、だっけ」
「氷室です」
「氷室さん」
千景は空を見上げたまま言った。
「あいつのこと好きなの」
玲奈の手から万年筆が落ちかけた。
「……っ、職務です」
「ふーん」
「職務です」
「二回言った」
「……訂正します。一回です」
「訂正になってない」
千景はそれ以上何も聞かなかった。
玲奈の耳の先が夜の暗がりでも分かるくらい赤かった。
スーツのポケットの中でソーダ味のキャンディが小さくかさりと鳴った。




