第13話 置き去りの端末
十八時三十五分。
湊は白鷺寮の玄関でそっと靴を履いた。
リビングからは夕食の支度をする音と話し声が聞こえてくる。
「……榊さん。お鍋から煙が出ております」
「出てない! これは湯気!」
「焦げた匂いのする湯気どすなあ……あ、いえ。湯気ですね」
「九条さん今なんか言った!?」
「言うてません。……言っていません」
「二回言ったじゃん!」
「七瀬さん、お玉を」
「わたくしは味見の係でございますのでお玉は榊さんに」
「味見って最後にやるもんでしょ!?」
「いいえ。最初から最後まででございます」
「ずっと食べてるだけじゃん!」
湊は玄関で笑いそうになって慌てて口を押さえた。
押さえた手の甲に自分の頬が熱いのが伝わった。
楽しそうな声を置いて出ていくのが、少しだけ後ろめたかった。
端末の画面にはさっき送った移動申請が表示されている。
『19:00〜22:00 北棟夜間男子学習室(保護区画) 自習』
北棟の夜間男子学習室は管理局が指定した保護区画だ。
入口で学生証をかざせばそこから先は護衛係も入れない。
規約第五条のただし書きが効く、学内で数少ない場所だった。
嘘ではない場所を選んだつもりだった。
でもそこで課題をするつもりがないことは、湊自身がいちばんよく知っていた。
「――結城湊さん」
うしろから声がして湊の肩が跳ねた。
階段の途中に玲奈が立っていた。
手には例のノート。
「移動申請確認しました。北棟夜間男子学習室。三時間。保護区画の利用ですね」
「は、はい。課題がちょっと溜まってて」
「どの科目ですか」
「えっと……日本史のレポートと英語の」
「日本史のレポートの締め切りは来週金曜です」
「……早めにやろうかなって」
「英語は」
「英語は、えっと、単語を」
「単語」
「単語を……覚えます」
玲奈は湊をじっと見下ろしていた。
「護衛の同行は不要とのことですが」
「学習室は保護区画なので規定上みなさんは入れませんよね。入口で三時間待ってもらうのも申し訳なくて」
数秒の沈黙。
「……二十二時までに帰寮。遅れる場合は必ず連絡を」
「はい。行ってきます」
「夕食は」
「え」
「夕食はどうされますか。榊芽衣が肉じゃがを作っています。たぶん」
「たぶん」
「煙が出ていますので」
「……あとで食べます。取っておいてもらえたら」
「伝えます」
湊は頭を下げて玄関を出た。
扉が閉まる直前玲奈がノートに何かを書きこむかすかな音が聞こえた。
*
十八時四十八分。
北棟裏庭。
夕焼けの名残が紫陽花の葉を赤く染めていた。
ベンチの端にアッシュグレーの毛先が見えた。
千景は昨日と同じように寝そべって空を見上げていた。
足音に気づくと首だけをこちらに傾ける。
「……ゆーき。また逃げてきたの」
「えっと」
湊はポケットから管理局の端末を取り出した。
少し迷ってからベンチの反対の端にそっと置く。
千景の半目が端末と湊の顔を往復した。
「……ふーん」
「あの、久遠さん。これ、ここに置いていってもいいですか。二十二時前には取りに戻ります」
「どこ行くの」
「……」
「いいや。聞いてない。今の聞いてない」
千景は口の中のキャンディを転がしてまた空を見上げた。
「あーし何も見てないし」
「ありがとうございます」
「礼言うなし。見てないって言ってんのに」
「じゃあ、お礼は言ってないことにしてください」
「……言い方」
千景はパーカーの袖で目もとを覆った。
湊は裏庭の奥煉瓦の塀が一か所だけ崩れかけている場所へ向かった。
塀の向こうは大学の外の細い路地につながっている。
その背中が塀の向こうに消えたあと。
千景は袖の下からベンチの端の端末をちらりと見た。
画面の隅で位置情報のアイコンが小さく点滅していた。
「……バカじゃね」
呟いてフードを深くかぶった。
かぶってから少しだけ端末のほうへ体をずらした。
誰かが持っていかないように。
それだけの理由だと自分に言い聞かせた。
*
十八時五十五分。
駅裏の小さな弁当屋「まんぷく亭」の裏口。
湊は狭い更衣室の鏡の前で紙袋の中身を取り出した。
肩にかかる長さの栗色のウィッグ。
薄いピンクのリップ。
店の名札。
『みなと』ではなく『みな』。
慣れた手つきでウィッグをかぶり、前髪をヘアピンで留める。
リップを一度だけ引いて鏡の中の自分に小さく笑いかけた。
そこに映っていたのはどう見ても少し華奢な女の子だった。
最初は母さんの服を借りただけだった。
男子がアルバイトをしていたら騒ぎになる。
だから女の子のふりをしようと思いついた。
それが自分でも驚くほど似合ってしまった。
「……今日もいける」
鏡に向かって小声で言ってから自分で赤くなった。
いけるってなんだと思った。
エプロンの紐を結ぶ。
「おはようございまーす」
少しだけ高めに作った声で厨房に顔を出した。
「みなちゃん、おはよ! 今日も時間ぴったりだねえ」
「店長、おはようございます」
フライヤーの前でふくよかな店長が笑った。
「新しい大学どう? お嬢様学校なんでしょ」
「えっと、みんなすごく優しいです」
「あら。いじめられてない?」
「いじめられてないです。むしろ優しすぎるくらいで」
「優しすぎる?」
「朝起きる時間とか何を食べたかとか、ぜんぶ見ててくれるんです」
「……それ、優しいの?」
「優しいです。たぶん」
「たぶんって」
パートの佐々木さんがにやにやと湊の肩をつついた。
「そういえばさあ。去年のあの男の子のお客さん、まだみなちゃんのこと探してるって噂だよ?」
「さ、佐々木さん! その話はやめてください!」
「君、名前は? 僕のハウスに来ないか――だっけ?」
「やめてくださいってば!」
「あのときみなちゃんトイレに二十分立てこもったもんねえ」
「十五分です!」
「細かい」
厨房がどっと笑いに包まれた。
「はいはいみなちゃん。唐揚げ弁当三つレジお願い!」
「はい!」
湊は真っ赤な顔のままぱたぱたとレジへ走っていった。
*
湊の背中がカウンターの向こうに消えると、厨房の笑い声がふっと小さくなった。
「……今日も完璧だねえみなちゃん」
佐々木さんが揚げ物を詰める手を止めずに呟いた。
「ほんとにねえ。最初の日なんかあたし普通に女の子だと思ったもん」
「でも手はやっぱり男の子の手なのよね。レジで小銭渡すときちょっと大きくて」
「指、長いよね」
「爪、きれいに切ってあるのよ。いつも」
「見てるねえ、あんた」
「見るでしょ、そりゃ」
パートの女性たちがちらりと店長を見た。
店長はフライヤーの油の温度を確かめながら言った。
「知らないふり。いつも通りね」
「分かってますって」
「……でもさ店長。なんであの子働いてんだろ」
「この国で男の子が働く必要なんてないのにね」
「国が暮らしを保障してくれるし」
「頼めば誰かが何でもしてくれるし」
「それなのに女の子の格好までして、時給千百円で揚げ物詰めてるんだよ」
店長は揚がった唐揚げを網に上げた。
「言いたくなったら言うでしょ」
「……うん」
「言いたくないなら聞かない。うちの店ではあの子はみなちゃん。それでいいじゃない」
パートの女性たちは黙ってうなずいた。
レジのほうから「ありがとうございました!」という明るい声が聞こえてきた。
湊はこの場所が好きだった。
レジを打ち間違えて「落ち着いて」と背中を叩かれることもある。
でもうまくできたときは「助かったよ」と言ってもらえる。
ここでは誰も湊を「貴重な男子」として見ない。
失敗すれば叱られて頑張れば褒められる、ただの「みなちゃん」でいられた。
(……芽衣さん、今日はここに来ないよね)
あの金色の髪の常連さんが、今は同じ屋根の下で暮らしている。
そう思うと少しだけ不思議な気持ちだった。




