第12話 水色のキャンディ
翌日、木曜日の午後。
第三十八ハウスの初めてのゼミの時間。
小さなゼミ室にハウスの上席十九人と湊。
そして湊のうしろにはなぜか護衛係の四人全員が壁際にずらりと並んでいた。
「……皆さん、講義は?」
「調整しました」
「調整いたしました」
「調整しました」
「サボった」
芽衣だけ正直だった。
「榊芽衣。記録します」
「正直に言ったのに!?」
ハウスの女子学生たちがひそひそと囁きあった。
「護衛係の皆さま、目つきが……」
「昨日、何かあったのかしら」
「壁際に四人並ぶのってゼミの規定でいいんでしたっけ」
最後の一言は前の席の三つ編みの一年生だった。
分厚い眼鏡の奥で目がぐるぐる泳いでいる。
「あ、あっ、すみません。規定上はTAの許可があれば見学は可能で、ただ人数の上限が……いえ、なんでもないです。すみません」
「詳しいんですね」
湊が振り向いて言うと一年生は眼鏡の奥で目を丸くした。
「は、話しかけ……っ。あっ、すみません、いま心拍数が、たぶん平常時の一・四倍でいえ、これは生理的な、その、交感神経の」
「だ、大丈夫ですか」
「大丈夫です! すみません!」
一年生は教科書を立ててその陰に顔を埋めた。
教科書の上から耳だけが赤く出ていた。
壁際でひなたの笑顔がほんの一ミリだけ深くなった。
玲奈のペンが走った。
紗雪のファイルが一枚めくれた。
芽衣が壁に背中をつけたまま小さく足を踏み替えた。
四人とも何も言わなかった。
*
ゼミ室の扉ががらりと開いた。
「……ういーす」
気だるげな声とともにアッシュグレーの髪の女性が入ってきた。
オーバーサイズの黒いパーカー。
口には棒付きキャンディ。
脇には昨日と同じ分厚い専門書。
護衛係の四人の視線が一斉にその人に突き刺さった。
女性はまったく気にする様子もなく、教壇の椅子にどさっと腰を下ろした。
「第三十八ハウスゼミ、TAの久遠。よろ」
名簿をぱらぱらとめくる。
「出欠とる。めんどいからいない人だけ手ぇ挙げて」
ゼミ室がしんと静まった。
「……いないから挙げられないですよね、それ」
誰かがおそるおそる言った。
「ん。じゃ、全員出席ってことで」
千景は名簿に適当な丸をつけていった。
湊の名前のところでもペンは一瞬も止まらなかった。
視線も一度も湊のほうに向かなかった。
昨日のことなど何もなかったみたいに。
湊は少しだけほっとした。
それからほんの少しだけ寂しかった。
*
ゼミは驚くほど淡々と進んだ。
千景は課題の説明を三分で終わらせて、あとは教壇で専門書を読んでいた。
質問をすれば短く的確に答える。
それ以外はほとんどしゃべらない。
湊の隣の席をめぐってハウスの女子学生たちが小競り合いを始めた。
「わたくしが先に座っておりましたのよ」
「そこは昨日わたしが目をつけていた席で」
「目をつけたかどうかは関係ございません」
「……うっさ」
教壇から低い声がした。
「静かにしないなら全員課題倍ね」
ゼミ室は水を打ったように静かになった。
湊のうしろで紗雪が小声でファイルに書きこんだ。
「……久遠さん。湊さんへの視線ゼロ回。発言ゼロ回。接近ゼロ回」
「九条先輩。それはむしろ不自然ではございませんか」
ひなたがにこやかに囁き返した。
「ほかの皆さまは湊さんを見ない瞬間など一秒もございませんのに」
「七瀬さんもいま湊さんの後頭部を見ていらっしゃいますね」
「九条先輩もでございます」
「うちは記録ですので」
「わたくしは警護でございます」
壁際で二人の笑顔が同時に一段深くなった。
芽衣が「……こわ」と小声で言った。
玲奈は何も言わなかった。
ただ、ノートの上でペンを握る指に力がこもっていた。
*
ゼミが終わり女子学生たちがぞろぞろと部屋を出ていく。
千景も専門書を脇に抱えて教壇から降りた。
出口に向かう途中で湊の机の横を通り過ぎる。
立ち止まりもせず振り向きもせず。
その一瞬だけパーカーの袖から指先がのぞいた。
ことりと。
湊の机の上に小さなものが置かれた。
包装されたままの水色のキャンディ。
千景はそのまま一度も振り返らずにゼミ室を出ていった。
湊はキャンディを見つめて思わず小さく笑った。
包み紙をつまんで持ち上げる。
右手の中指のペンだこにセロハンがかさりと擦れた。
その指の動きをすぐうしろで紗雪が見ていた。
ファイルを胸に抱いたまま、紗雪の呼吸がひとつ浅くなった。
あの指が作文を書いた。
包み紙の端をそっと広げるあの丁寧な指が。
紗雪は胸もとのファイルを、自分でも驚くほど強く押しつけた。
表紙の角が肋骨に当たって少し痛かった。
痛いほうがましだった。
「――結城湊さん」
うしろから硬い声がした。
振り向くと玲奈が湊の机の上のキャンディを見下ろしていた。
「それは」
「えっ、あこれは」
「……は?」
芽衣が玲奈の横から身を乗り出した。
「なにそれ。誰から? 今あのTAが置いてった? アタシ見てたんだけど。ねえ」
「め、芽衣さん、近い」
ひなたは笑顔のまま何も言わなかった。
ただ、湊の袖口をきゅっ、きゅっと二回、いつもより強く引いた。
紗雪はファイルに書きこんでいた。
『久遠千景さん。視線ゼロ。発言ゼロ。接近ゼロ。――贈与、一回』
「……一番手ごわいかたかもしれません」
玲奈は長い沈黙のあとでノートを開いた。
「記録します。十五時十二分、TA久遠千景より飴一個」
少しだけペン先が震えた。
「対象の笑顔一回」
*
ゼミ室を出た廊下の角で芽衣は足を止めた。
湊が先に階段を下りていくのを見送って、紙コップの自販機の陰に立った。
その向こうから二人分の声がした。
結い上げた黒髪に濃紺のリボン。
旧家派の上席だった。
「見まして? 壁際に四人」
「寮籍の方々がゼミにまでお並びになるのね」
「他のハウスの籍の方がわたくしたちのゼミで結城様のうしろに立つなんて」
「序列というものをご存じないのかしら」
芽衣は自販機の陰で拳を握った。
握ってほどいた。
ここで出ていけばあの二人は湊の前で笑顔を作るだけだ。
そして湊の見ていないところでもっと冷たくなる。
「……アタシらが並ぶのは仕事だし」
誰にも聞こえない声で呟いて、芽衣は反対側の階段から下りた。
湊に追いついたとき芽衣はいつもの半歩前にいた。
「芽衣さん、遅かったですね」
「自販機。売り切れだった」
「何を買おうとしたんですか」
「……いちごオレ」
「芽衣さん、いちごオレ好きなんですか」
「今のなし! 忘れて!」
*
その日の十八時二十分。
白鷺寮に戻った湊は自分の部屋の机に水色のキャンディを置いた。
食べてしまうのはなんだかもったいない気がした。
机の上にはほかにもいくつかのものが並んでいる。
ひなたが「お守り」と言ってくれた手作りの匂い袋。
紗雪がくれた湊の作文を和紙に清書したしおり。
芽衣が「防犯用」と言って無理やり持たせたピンク色の防犯ブザー。
玲奈から渡された白鷺寮の行動記録規約。
湊はそれらを一つずつ眺めてから、壁のカレンダーに目を移した。
今日の日付に小さく丸がついている。
木曜日。
アルバイトの日だった。
お店に入るのは十九時。
あと四十分。
湊は机の上の管理局の端末を見つめた。
位置情報の共有を示すアイコンが小さく点滅していた。
――逃げ場ならここ使っていーよ。
北棟裏庭。
監視カメラのないただひとつの場所。
端末をあのベンチに置いていけば、位置情報は北棟の裏で止まったまま。
「また少し休んでいる」ようにしか見えない。
湊は端末をポケットに入れて立ち上がった。
「……ごめんなさい」
誰に向けたのか分からない言葉を湊は小さく呟いた。
*
同じ頃。
北棟裏庭のベンチで千景は一人、夕焼けの空を見上げていた。
口の中でソーダ味のキャンディを転がす。
「……だる」
パーカーのポケットの中には、包装されたままのキャンディがまだいくつも入っていた。
ぜんぶソーダ味だった。
千景は一本取り出して指先でくるりと回した。
「……明日、机の端か真ん中か」
誰に言うでもなく呟いて自分で眉をひそめた。
「どっちでもいいじゃん。だる」
言いながら千景はキャンディを右のポケットから左のポケットへ移した。
左は、ゼミ室の出口に近いほうの手だった。
*
翌日の昼休み。
湊は北棟裏庭の通用口の前で足を止めた。
(……行っていいのかな)
昨日、玲奈に「誰かと会いましたか」と聞かれて湊は言葉を濁した。
もう一度行けばまた嘘をつくことになる。
それでも湊は扉を押した。
ベンチにはやっぱり千景がいた。
今日は寝そべっておらず背もたれに体を預けて座っていた。
「……お」
千景は湊を見てほんの少しだけ目を開けた。
「来ると思ってた」
「そうなんですか」
「うん。あーしの勘」
湊はベンチの反対の端に座った。
二人のあいだにはいつもの隙間。
「久遠さん。昨日のこと護衛係の人たちに聞かれました」
「ふーん」
「灰色の髪の人がいたって見た人がいて」
「で、なんて答えたの」
「ベンチでぼーっとしてましたって」
千景はキャンディの棒を口の端で動かした。
「嘘、下手じゃん」
「……すみません」
「謝んなくていいって」
千景は空を見上げた。
「言いたくないことは言わなくていいの。誰にでも」
紫陽花の葉が風に鳴った。
「久遠さんはどうしてここにいるんですか」
「ん?」
「大学院って忙しいんじゃないですか」
「忙しいよ。だる」
「じゃあ、なんで」
「……ここ、誰も来ないから」
千景はポケットからキャンディをひとつ取り出して湊のほうへ放った。
湊は慌てて両手で受け止めた。
「ナイスキャッチ」
「びっくりしました」
「顔、だっさ」
「ひどい」
「……あーしハウスにいたころさ」
千景の声が少しだけ低くなった。
「毎日、誰かに見られてたんだよね。男子がいるハウスってそういう場所じゃん。誰が話したとか誰が近づいたとか、全部数えられてんの」
「……はい」
「で、あーし数えられるのが無理になって。院に上がってハウス抜けた」
湊はしばらく黙っていた。
それからぽつりと言った。
「……僕も、数えられてます」
「知ってる」
「一日に何回笑ったかまで」
「うわ、きつ」
千景が少しだけ笑った。
低くかすれた笑い方だった。
「じゃあ、ここにいるあいだだけは数えんのやめれば」
「僕がですか?」
「そう。あんたが自分を数えんの」
湊は目を瞬かせた。
「何回笑ったとか何分休んだとか。そういうのここでは全部なしにしな」
「……なしに」
「どうせあーしは何も書かないし」
昼休みの終わりを告げる鐘が遠くで鳴った。
湊は立ち上がって深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「だから礼いらねっての」
「じゃあ、お礼じゃなくて。……また来てもいいですか」
千景の動きが止まった。
一秒。
二秒。
「……勝手にすれば」
「はい、勝手にします」
「言い方」
千景は袖で小さく手を振った。
通用口の扉が閉まった。
一人になった裏庭で千景はポケットの中のキャンディを数えた。
ソーダ味が残り六個。
「……足りるかな」
呟いてから千景は自分の耳が熱いことに気づいた。
「……だる」
誰もいない裏庭で千景はフードを目の下まで引き下ろした。
(第3章 了)




