第10話 ベンチの端
通用口の向こうは小さな裏庭だった。
煉瓦の塀に囲まれてキャンパスの喧噪が遠い。
伸び放題の紫陽花の株。
錆びた灰皿スタンド。
木陰にペンキの剥げたベンチがひとつ。
そのベンチに誰かが寝そべっていた。
木漏れ日に透けるアッシュグレーの髪。
襟足の長いウルフカットで、毛先だけ淡い水色がまじっている。
オーバーサイズの黒いパーカー。
顔の上には分厚い専門書が開いたまま乗っていて、その下から棒付きキャンディの棒が一本突き出ていた。
「……あの」
湊が声をかけると本がのそりと持ち上がった。
眠たげな半目がぼんやりと湊を映した。
「…………誰」
「あ、ご、ごめんなさい。お休み中に」
「……ん。男子じゃん」
女性は口の中でキャンディを転がした。
それから本を顔の上に戻した。
「だる」
それだけだった。
湊はその場に立ち尽くした。
叫ばない。
駆け寄ってこない。
名前もハウスもお世話係のことも聞いてこない。
入学して三日で初めてのことだった。
「……えっと」
「立ってんの疲れね?」
本の下から声だけが返ってきた。
「座れば。そっち空いてるし」
パーカーの袖に隠れた指先が、ベンチの反対の端をちょいちょいと指した。
「いいんですか」
「ベンチ、あーしのじゃないし」
「じゃあ、失礼します」
「失礼じゃないし」
湊はベンチの端に腰を下ろした。
二人のあいだには人ひとり分より少し広い隙間があった。
風が吹いて紫陽花の葉がさわさわと鳴った。
「……ここ、監視カメラがないって構内図に書いてあって」
「知ってる。だからあーしのサボり場」
「サボり……」
「ゆーきもサボり?」
湊は目を丸くした。
「僕の名前、知ってるんですか」
「知ってるっていうか」
女性は本をずらして片目だけで湊を見た。
「あーし第三十八ハウスのゼミのTA。名簿、昨日もらった。明日ゼミで会うっしょ」
「TAの……」
「先に言っとくけどゼミで話しかけてこなくていいから」
「え」
「めんどいじゃん。周りが」
「……あ、はい」
「で、そっちの名前は知ってるから、こっちの名前も言っとく」
本がまた顔に戻った。
「久遠千景。院の二年。明日どうせ名乗るけど」
「久遠さん」
「ん」
「久遠さんはなんで僕の名前を見ても何も言わないんですか」
「言うことある?」
「ほかの人はだいたい『お世話係』とか『指名』とか」
「あー」
本の下でキャンディがからりと鳴った。
「あーし院生だから。ハウス所属じゃないし指名とか関係ないし。……ていうか、だる」
「だるいんですか」
「だるい。ぜんぶ」
湊は思わず笑ってしまった。
「……僕、ちょっとだけ一人になりたくて」
「ふーん」
「護衛係の人たちすごく優しいんです。僕のためにずっと一生懸命で」
「うん」
「だからこんなこと思っちゃいけないんですけど」
「思っていーんじゃね」
本の下からあっさりと声が返ってきた。
「優しくされんのも疲れるときは疲れるっしょ。フツーに」
湊は何も言えなかった。
誰にも言えなかったことを、この人はあくびまじりに肯定した。
千景がむくりと体を起こした。
口からキャンディを取り出す。
淡い水色のソーダ味。
それをベンチの隙間ごしに、湊のほうへ差し出した。
「……ん」
「え」
湊が固まっていると千景は数秒遅れて自分の手もとを見た。
「……あ。これ食べかけじゃん」
「ですね」
「言えよ」
「言おうとしました」
千景は表情ひとつ変えずに、キャンディを自分の口に戻した。
戻してからほんの少しだけ動きが止まった。
パーカーのフードをぐいっと目深にかぶる。
それからポケットをごそごそ探って、包装されたままのキャンディを出した。
「こっち」
「ありがとうございます」
湊は笑いをこらえて受け取った。
千景は包み紙の端っこだけをつまんでいた。
指先が触れないようにきっちり端だけを。
「……いまの忘れて」
「食べかけの」
「言わなくていい」
フードの下で耳の先がほんの少し色づいていた。
千景はそのまま、またベンチに寝そべった。
「前はここで煙草吸ってたんだけど」
「そうなんですか」
「やめた。だからこれ」
「どうしてやめたんですか」
千景は少しだけ黙った。
「……いろいろ」
「いろいろ」
「そう。いろいろ」
湊はそれ以上聞かなかった。
千景も何も付け足さなかった。
*
遠くで湊の名前を呼ぶ声がした。
「結城ーっ! どこ!? ねえ、結城ってば!」
泣きそうな声だった。
「あ……」
湊は立ち上がった。
「ごめんなさい。僕、行かないと」
「ん」
千景は本の下から袖をひらひら振った。
そのときベンチの足もとに何かが落ちているのが見えた。
細長い紙のしおり。
千景の本から滑り落ちたものらしかった。
湊はその場にしゃがみこんだ。
「これ、落ちてました」
「……ん」
差し出されたしおりを受け取りながら、千景の視線は湊の手ではなく別の場所にあった。
前に傾いた首。
襟足からのぞく日に焼けていない白いうなじ。
整えられてもいない短い毛先。
千景の奥歯が口の中のキャンディにかちりと当たった。
甘さが急に分からなくなった。
(……なんでしゃがむかな)
この男はたぶん困っていそうな人を見ると考えるより先にしゃがむ。
相手が誰でも。
今日会ったばかりの人間にでも。
(だからあそこはあーしのもんにはならない)
湊が通用口の扉に手をかけたとき、背中に低い声が届いた。
「ゆーき」
「はい」
「逃げ場ならここ使っていーよ」
振り返ると千景は相変わらず顔の上に本を乗せたままだった。
「あーしは何もしないし。何も書かないし。誰にも言わない」
「……ありがとうございます、久遠さん」
「礼いらね」
扉が閉まった。
裏庭にまた紫陽花の葉の音だけが戻ってきた。
千景は本の下でしばらく目を開けたまま動かなかった。
「……見知らぬ女にありがとうって。変なヤツ」
呟いた声はさっきより少しだけ柔らかかった。




