第9話 はぐれた十二分
四月十七日、水曜日。午前五時五十分。
白鷺寮の玄関の扉がそっと開いた。
湊は階段の途中で足を止めた。
玄関で芽衣がジャージ姿のまましゃがみこみ靴ひもを結んでいた。
「……榊さん?」
「うわっ」
芽衣がびくりと肩を跳ねさせた。
「なにアンタ。起きてんの」
「目が覚めちゃって。走るんですか」
「朝練。毎日やってんの」
芽衣は靴ひもをきゅっと引き締めて立ち上がった。
「道場の癖。起きて走って突いて蹴って。やんないと一日じゅう体が変な感じすんの」
「毎日ですか」
「毎日」
「雨の日も?」
「雨の日は廊下で蹴り」
「廊下で……」
「アンタの部屋の前じゃないとこでやるから安心しな」
湊は階段を降りきった。
「ついて行ってもいいですか」
芽衣が固まった。
「……は?」
「歩くだけです。走るのはたぶん無理なので」
「なんで」
「榊さんが毎朝何してるのか知らなかったので」
芽衣は口を開けて閉じた。
それから靴箱の上の時計を見た。
五時五十二分。
「……会長の起床確認、六時四十五分だよ」
「それまでに戻れば大丈夫ですよね」
「規約的にどうなのそれ」
「榊さんがいるので。二十メートル以内です」
「……アンタ、規約の読み方がずるくない?」
「氷室さんに三回読まされたので」
芽衣は小さく舌打ちをした。
舌打ちのわりに口の端が少しだけ上がっていた。
「森の小道まで。並木道には出ない」
「はい」
「遅かったら置いてくから」
「はい」
「……返事だけはいいんだよね、アンタ」
*
四月の朝の森はまだ少し冷えていた。
鳥の声があちこちでしていた。
芽衣は宣言どおり湊を置いて走っていった。
小道の先で折り返して戻ってくる。
湊の横を「遅っ」と言いながら通りすぎる。
また走っていく。
五回目に戻ってきたとき湊は手を振った。
「がんばってください」
「応援すんなし!」
芽衣はそう叫んでなぜか六回目は少しだけ速かった。
七回目に戻ってきたとき芽衣は湊の隣で速度を落とした。
歩く。
息が白かった。
「……アンタさ」
「はい」
「なんでついてきたの。ほんとの理由」
湊は少し考えた。
「昨日の夜、壁の向こうでずっと起きてる気配がしたので」
芽衣の足が一瞬だけ止まった。
「……は?」
「榊さん、いつ寝てるのかなって」
「寝てるし」
「何時に」
「うっさい」
「一時ごろまで物音してましたけど」
「数えんな!」
芽衣は首のタオルで顔をごしごし拭いた。
拭いたあとの耳が下のほうから赤くなっていた。
「……寒いだけだから」
「何も言ってないです」
「言いそうな顔してた」
並木道の手前で芽衣は立ち止まった。
「ここまで。戻るよ」
「はい」
帰り道芽衣はもう走らなかった。
湊の歩く速さに合わせて半歩前を歩いた。
警護の位置だった。
でも時々半歩が四分の一歩くらいに縮んでいた。
白鷺寮の屋根が見えてきたとき、芽衣がぽつりと言った。
「……明日も起きんの」
「たぶん起きられないです」
「知ってる」
「え」
「アンタ目覚まし一回目で止めて二回目も止めるタイプでしょ」
「なんで分かるんですか」
「壁、薄いんだって。……今朝も二回鳴ってた」
湊は何も言い返せなかった。
*
玄関の扉を開けると上がり框に玲奈が立っていた。
手にストップウォッチ。
午前六時二十一分。
「……無届けの外出です」
「護衛係、同行してたし」
芽衣が湊の前に一歩出た。
「規約第五条。二十メートル以内。アタシずっと半歩前だったし」
「半歩」
「半歩」
「……四分の一歩の区間もあったように見えましたが」
「見てたの!?」
「玄関の窓から」
玲奈は眼鏡の位置を直した。
「記録します」
ノートにペンが走る。
『四月十七日(水) 起床確認前に外出。同行、榊。森の小道のみ』
それから玲奈は湊の顔を見た。
湊は少し息が上がっていた。
歩いただけなのに森の冷たい空気で頬が赤い。
シャツの第一ボタンが外れていて、上下する喉がのぞいていた。
玲奈のペン先が紙の上で止まった。
止まったままインクが小さくにじんだ。
「……氷室さん?」
「喉が」
「え」
「……喉が、乾燥していらっしゃるように見えます。水分をとってください。以上」
玲奈はノートを閉じて早足でリビングへ戻っていった。
芽衣が湊の横でぼそりと言った。
「……会長、今にじんだとこ、あとで破るよ絶対」
「え、なんでですか」
「知らない」
*
入学して三日目。
講義が本格的に始まって湊は護衛係が四人いることの本当の意味を知った。
「一限、教養の日本史。二百人教室。座席は最前列中央。左右は護衛係で固定」
朝のリビングで玲奈がホワイトボードに時間割を書きこんでいく。
「二限、英語。三十人教室。ここは七瀬ひなたと榊芽衣が同じ講義です。二人で担当」
「かしこまりました」
「りょ」
ひなたと芽衣が同時に返事をして、同時に顔を見合わせた。
「榊さん。湊さんの右隣はわたくしがお引き受けいたしますね」
「は? 右とか左とかどっちでもよくない?」
「どちらでもよろしいのでしたらわたくしが右で」
「……やっぱ右がいい」
「どうしてでございますか」
「アンタが右って言ったから」
「まあ。理由になっておりません」
「アンタのもなってないし!」
玲奈がペンの尻でホワイトボードを二回叩いた。
「講義室の構造上窓側が危険です。窓側に榊芽衣、通路側に七瀬ひなた。以上」
「窓側って右? 左?」
「教室によります」
「ずるくない!?」
ひなたは笑顔のまま小さく息を吐いた。
吐いた息のぶんだけ湊の袖口に指先が近づいていた。
芽衣はそれを見てぷいっと窓のほうを向いた。
向いたまま椅子を湊のほうへ三センチずらした。
湊はどちらにも気づかず時間割を手帳に写していた。
「そして三限」
玲奈のペンが少しだけ止まった。
「三限は全員の講義が重なっています。私は法学部の必修。九条紗雪は文学部のゼミ。七瀬ひなたは経済学部の基礎演習」
「アタシ三限空いてるけど」
「では榊芽衣が単独で担当。対象の講義は北棟二階の情報リテラシーです」
玲奈は芽衣をまっすぐ見た。
「一秒たりとも目を離さないように」
「言われなくても離さないし」
紗雪がそっとファイルに書きこんだ。
「……三限。榊さんと湊さん。二人きり。九十分」
小さな声だったのにリビングの空気がぴりっと張りつめた。
「九条先輩。いまのは読み上げる必要がございましたか」
「記録ですので」
「アタシ九十分ずっと前向いてるから!」
「前を向いていては警護になりません」
「どっちなの会長!!」
*
午後二時四十分。
三限が終わった北棟二階の廊下で、芽衣のスマートフォンが鳴った。
「……げ、部長」
「部長?」
「空手部。入部届、今日の三時までって言われてたの忘れてた」
「行ってきていいよ。僕、ここで待ってるから」
「は? ダメに決まってんじゃん」
「すぐそこでしょ。ロビーのベンチに座ってる」
芽衣は廊下の窓の向こうの体育館と湊の顔を見比べた。
「……五分。いや三分。ぜったいそこから動かないで」
「うん」
「動いたらマジ怒るから」
「うん、約束する」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「指切り」
「え」
芽衣は小指を突き出してから自分で固まった。
「……いまのなし」
「指切りしないんですか」
「しない! なし! 行ってくる!」
芽衣は何度も振り返りながら階段を駆け下りていった。
湊は一階ロビーのベンチに腰を下ろした。
朝からずっと誰かが隣にいた。
それが嫌なわけではなかった。
でも一人になるのは入学してから初めてだった。
ロビーの向こうからひそひそ声が聞こえてきた。
「ねえ、あれ……」
「第三十八ハウスの……護衛係いらっしゃらないわ」
「今ならお話しできるのでは?」
数人の女子学生がじりじりと近づいてくる。
「……あ」
湊は立ち上がった。
芽衣との約束を思い出して一瞬だけ迷う。
ロビーの奥に小さな通用口があった。
ガラス越しに緑の木々が見えた。
昨夜、構内図の上で見つけた場所だった。
*
午後二時四十三分。
体育館へ全力で走っていた芽衣はふと足を止めた。
ポケットの端末に位置情報を表示させる。
湊を示す青い点が北棟の中から裏手へゆっくり動いていた。
「……は?」
芽衣の顔から血の気が引いた。
「動くなって言ったじゃん……!」




