幕間一 上覧の日
第五ハウスの朝は香水の匂いから始まる。
講義棟の四階、いちばん広い教室。
ハウス生は百十八人。上限まであと二人しかいない学内でも指折りの人気ハウスだ。
真壁美月はその教室のいちばんうしろ窓から二番目の席に座っている。
三年生になっても席はずっとここだった。
前の三列は上席の二十四人。
黒塗りの車で通う令嬢たちが毎朝そこに並ぶ。
「今日の香水だれ。むせる」
窓際の席で前田さんが鼻をつまんだ。
「二列目の右から四番目。新しいの買ったって」
その隣の小西さんが前を向いたまま答える。
「なんで知ってんの」
「聞こえたから。上席って声大きいもん」
上席の椅子は四年前から一度も空いていない。
「今年も空かなかったね。上席」
「空くわけないじゃん。卒業か指名転籍しかないんだから」
「あと一般の三倍」
「……三倍」
前田さんが指を三本立てたまま机に突っ伏した。
(……うちには無理だよね)
美月の実家は駅前で小さな印刷屋をやっている。
ハウス費の一般ぶんを払うだけで母は毎月ため息をついていた。
*
「――上覧、始めます」
八時四十五分。
副代表の号令で上席の二十四人が立ち上がり教壇の前に二列に並んだ。
第五ハウスにはお茶会がない。
代わりにあるのがこの「上覧」だった。
教室の扉が開く。
黒崎蒼真が護衛係の四人を従えて入ってきた。
二年生。黒崎財閥の長男。
このハウスの代表だ。
「おはようございます黒崎様」
二十四人が同時に頭を下げる。
黒崎は返事をしなかった。
代わりにスマートフォンを片手に列の前をゆっくりと歩いていく。
画面を見て顔を見てまた画面を見る。
ときどき指先で何かを操作している。
(……点数、つけてる)
「……またあのアプリ」
窓際で前田さんが唇だけ動かした。
「裏サイトのやつ?」
「顔写真に五段階で点つけて並べ替えるやつ。作ったのどっかの男子だって」
「しっ」
小西さんが机の下で前田さんのスニーカーを小さく蹴った。
「……今月は三番目の子でいいか」
黒崎が誰にともなく言った。
指された女子学生が深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
声は震えていなかった。
もう慣れているのだ。
「名前は」
「……三年の佐々岡と申します」
「ああ。まあ、いい」
黒崎はそれだけ言って教室を出ていった。
護衛係の四人が無言であとに続く。
そのうちの一人が去り際に美月たち一般ハウス生のほうを一瞥した。
その目に浮かんでいたのは同情でも優越でもなかった。
ただの無関心だった。
*
上覧が終わると教室はいつもの空気に戻る。
「……今月も名前覚えてもらえなかったね」
「三年もいるのに」
「まあうちらは番号みたいなものだから」
前田さんと小西さんが笑いながらそう言った。
笑うしかないのだと美月は思う。
美月はかばんの底から輪ゴムでとめた束を三つ出した。
実家の刷り損じを裁断機で切りそろえて天を糊で固めたメモ帳だ。
表紙だけは余った色上質紙を使っている。
「あ。真壁印刷の新作」
「今月なに色?」
二人が机に身を乗り出してくる。
若草が一冊。クリームが一冊。桜色が一冊。
二人の手が同時に桜色へ伸びた。
「先月あたし若草で我慢したよね」
「その前はあたしがクリームで我慢しました」
「我慢って言った。クリームに謝って」
表紙の端をつまんだまま二人とも放さない。
美月は筆箱から定規を出して桜色の束の真ん中に当てた。
天糊のところからぺりっと割る。
「はい半分ずつ」
「……薄っ」
「五十枚が二十五枚になった」
文句を言いながら二人とも自分のぶんを胸に抱えこんでいる。
美月はボールペンでそれぞれの表紙に名前を書いてやった。
『前田』『小西』。
「真壁さんさ」
小西さんが表紙の字を指でなぞった。
「うちらの名前まちがえたこと一回もないよね」
「……三年もいるんだもん。覚えるよ」
美月は余ったクリームを急いで引き寄せた。
照れ隠しに自分の表紙へ名前を書く。
書き終えてから気づいた。
『真壁印刷』
「宣伝してる」
「屋号で名乗った」
「……手が勝手に書いたの。店の伝票で毎日書いてるから」
二人がお腹を抱えて笑った。
美月は屋号の横に小さく『美月』と書き足した。
笑うしかない教室でも、こういう笑い方はできる。
第五ハウス。ハウスの番号は名誉点の順位で決まるから四十ハウス中の五位ということだった。
黒崎家が行事に金を出すから備品も設備も学内でいちばんいい。
暖房も効くし教室の椅子には座面が張ってある。
そのかわりここでは誰も男子と口を利かない。
三年間で美月が黒崎と交わした言葉はたった一度きり。
去年の大掃除で黒崎の部屋の窓を拭いていたとき。
「おい。そこまだ曇ってる」
それだけだった。
名前は呼ばれなかった。




