第8話 空白の場所
その夜。
湊は部屋で鞄の底から古い携帯電話を取り出した。
アルバイト先の店長からメッセージが一件。
『木曜、いつも通り十九時から大丈夫?』
『はい、大丈夫です』
返信してから湊は机の上の端末を見つめた。
位置情報の共有を示すアイコンが小さく点滅している。
第二十四条。
端末の常時携帯と位置情報の共有。
(これを持ったままお店には行けないし……)
湊は規約の冊子を開き最後に折りこまれていた紙を広げた。
『学内監視カメラ配置図』
キャンパスの地図はほとんど赤い円で埋めつくされていた。
――ほとんど。
北棟の裏手。
赤い円と円のすき間に小さな白い空白がある。
『北棟裏庭(旧喫煙所) ※設置予定』
そのとき部屋の扉がこんと一回だけノックされた。
「……結城。起きてる?」
芽衣の声だった。
湊は慌てて携帯電話を布団の下に押しこみ扉を開ける。
廊下に芽衣が立っていた。
ジャージではなくゆったりしたパーカー姿で金色の髪を下ろしている。
昼間より少しだけ幼く見えた。
「どうしたの芽衣さん」
「……弁当屋のこと」
芽衣は廊下の左右をきょろきょろと確認してから声をひそめた。
「アンタ、なんで男子なのにあんなとこで働いてんの。……てかあの女装なに? 完璧すぎてマジで意味わかんないんだけど」
「えっと……最初は母さんの服を借りただけで……」
「借りただけであれ!?」
湊は少し迷ってから正直に答えた。
「……母さんが入院してて。奨学金だけだとちょっと足りなくて」
芽衣は黙って聞いていた。
「規約のことも分かってます。でもお店の人たちも僕が男子だって知らないのに、ずっとよくしてくれて。……急にやめたら迷惑かけちゃうから」
芽衣はしばらく何も言わなかった。
それからパーカーの袖を指先でいじりながらぽつりと言う。
「……木曜の夜、会長が気づかないわけないじゃん。あの人、アンタの笑った回数まで数えてんだよ」
「……ですよね」
「バカじゃん」
「うん……」
芽衣ははーっと長いため息をついた。
そして湊の胸を握った拳でこつんと叩いた。
「……黙っといてあげる。今は」
「芽衣さん……」
「その代わりヤバいことになったらぜったいアタシに言いなよ。一秒で行くから」
それから芽衣はふいっと背を向けて自分の部屋の扉に手をかけた。
「……あと」
振り返らないまま小さな声で。
「唐揚げおいしかった。……あのときの」
ぱたんと扉が閉まった。
湊はしばらく廊下に立ったまま閉じた扉を見つめていた。
*
湊が部屋に戻ろうとしたとき階段の下から足音が上がってきた。
「二十二時四十分。就寝確認です」
玲奈だった。
こんな時間なのにやっぱりスーツ姿だった。
「……榊さんと何を話していましたか」
「え、あ、明日の朝ごはんのことを……」
玲奈は眼鏡の奥からじっと湊を見つめた。
湊は嘘が顔に出やすい。
そのことをたぶんこの人はもう知っている。
けれど玲奈はそれ以上は何も聞かなかった。
「……そうですか」
玲奈はノートに時刻を書きこみ帰ろうとする。
「あの、氷室さん」
「……何でしょう」
「今日、ハウスで守ってくれてありがとうございました。記録とか正直まだ慣れないですけど……氷室さんが条文を読み上げてくれたときすごく心強かったです」
玲奈はしばらく黙っていた。
それからほんの少しだけ視線を落とした。
「……結城湊さん」
「はい」
「玄関のビニール傘。どこで購入しましたか」
「え? 駅前のコンビニですけど……」
湊は不思議そうに首をかしげた。
「僕、よく傘をなくすんですよ。去年もどこかで一本なくしちゃって」
「なくしたのですか」
「はい。たぶんどこかに置き忘れたんだと思います」
玲奈は何も言わなかった。
ただとても小さく息を吐いた。
「……おやすみなさい」
*
自分の部屋に戻った玲奈は扉に背中を預けて、ノートの最後のページを開いた。
規約には存在しない項目がそこには並んでいる。
『本日の笑顔:五回』
『「心強かった」:一回』
『距離十五センチ:一回 ※事故』
『榊芽衣と廊下で密談:一回 ※要注意』
玲奈はスーツケースの底からビニール傘を取り出し胸に抱えた。
(なくしたのではありません)
あの傘はあなたが私にくれたのです。
あなたは覚えていないけれど。
「……ずるい人です」
その声は壁一枚向こうの湊には届かなかった。
だから次は。
覚えていてもらえるようにそばにいる。
あの三人よりずっと近くに。
玲奈は顔を上げ眼鏡を押し上げた。
「明日の笑顔の記録目標。六回」
少し考えてから付け足す。
「……距離は十五センチ以内を目標とします」
*
その頃、湊はベッドの上で地図を広げていた。
北棟裏庭。
キャンパスでたったひとつの赤く塗られていない場所。
枕もとで端末が震える。
すずからだった。
『明日から講義本番だね。寝不足禁止。あと女の子に囲まれてもちゃんと自分で考えて動くこと。メモしとく』
湊は小さく笑った。
「……明日、行ってみよう」
その白い空白にすでに先客がいることを。
湊はまだ知らない。
*
その日の午後。
湊はハウスの教室にもう一度呼ばれた。
「本日は年度初めの顔合わせです」
教壇に立った東雲さんが黒板に大きな図を描いていく。
『第三十八ハウス ハウス生 百四名』
『代表 結城湊』
『副代表 東雲/議事録 桐谷/会計/行事委員二名/保健係』
「結城さんは本日からこのハウスの代表です」
「だ、代表!?」
湊は思わず立ち上がりかけた。
「昨日来たばかりですけど」
「代表は必ず男子学生が務めます。決まりです」
東雲さんの説明はそっけないほど簡潔だった。
「ハウスは講義以外のすべてを共にする単位です。朝のホームルーム、行事、清掃。……そして月に一度のハウス会議」
東雲さんは黒板の『代表』の文字を指した。
「会議の議決権を持つのは上席の十九名です。ただし代表が異議を述べた議題は原則として再検討になります」
「それってつまり」
「結城さんお一人の言葉が十九票より重い場合があるということです」
教室がしんとした。
湊はその図をじっと見つめた。
「でも僕、何も分かってなくて。……去年まではどうしてたんですか」
東雲さんの手が一瞬止まった。
「……昨年度の代表は会議に一度もお見えになりませんでした」
「一度も?」
「一度も」
うしろの席からポニーテールの女子学生が口を挟んだ。
「代表の権限なんて使う人がいて初めて意味を持つの。使われなければただの飾り」
三年の相馬千鶴だった。
議事録のノートから顔を上げずに桐谷しおりが小さく続ける。
「……議事録には毎回その、こう書いておりました。『代表 欠席』と」
*
「――それとひとつご説明を」
東雲さんが黒板にもうひとつ書き足した。
『ハウス名誉点 昨年度 三十八位/四十ハウス中』
「ハウスには学内評価があります。行事の成績、指名者数、規律違反の有無。学期末にはこの点数で講義選択の優先権と予算が決まります」
「……三十八位」
「昨年度末の在籍は下限すれすれの八十三名でした。上席も下限の十五席まで減っていました」
教室の何人かが気まずそうに目を伏せた。
「ですが今年は四月だけで転籍希望が二十一件入っています」
東雲さんは数字を書き換えた。
『在籍 百四名/上限 百二十名』
『上席 十九席/上限 二十四席』
「――残り十六名と五席です」
その瞬間、教室の空気がはっきりと変わった。
湊にはなぜ全員が黒板の数字を凝視しているのか分からなかった。
隣の席でひなただけが静かに湯呑みを置いた。
(……始まった)
ひなたには分かっていた。
枠が埋まれば外から入ってくる者はもういない。
同時に湊が外のハウスから指名することも難しくなる。
つまりこの中で決着がつくということだ。
そしてこの中で誰が有利かを決めるのが――役職だった。
副代表は席次を決められる。
行事委員は班分けを決められる。
議事録担当は誰がいつ湊と話したかを全部知っている。
役職を取るということは湊との距離を一歩詰めるということ。
(みんなもう気づいてる)
ひなたは教室を見回した。
窓際で背筋を伸ばして並ぶ旧家の娘たち。制服の着方ひとつまで揃っている。
その向かいで香水とブランドの小物をまとった新興の家の一年生たち。
うしろの席で鞄を椅子にかけたまま脚を組んでいる特待生たち。
入口近くに固まって季節ごとに色を変えたネイルを見せ合っている商家の娘たち。
そして窓辺の隅で文庫本を開いたまま誰とも交わらない学者の家の娘たち。
誰もまだ何も言っていない。
それでも戦いはもう始まっていた。
*
顔合わせが終わり教室から人が引いていく。
湊が荷物をまとめていると廊下からひなたの声が聞こえた。
「――ええ。お気持ちはよく分かりますわ」
扉の隙間から覗くとひなたが一年生の二人と話していた。
どちらも今日ひとことも発言しなかった子たちだった。
「鷹宮さまの側についてもいずれ『鷹宮の家の子』としか見ていただけません。東雲さまの側も同じでございます。序列がすべてですから一年生の声は最後まで通りません」
ひなたの声は穏やかだった。
「わたくしは家の名前を三年前にいただいたばかりです。ですからお家の格で人を数えるつもりはございません」
一年生の一人がおずおずと聞いた。
「ではわたくしたちは何を」
「まずは次の会議で挙手をなさってください。それだけで十分でございます」
ひなたは二人の手をそっと取った。
「わたくしたち三人で一票ではなく三票になります。そうなればどちらのお家もわたくしたちを無視できません」
扉の隙間から見ていた湊はそっと身を引いた。
(……ひなたちゃん、あんな顔もするんだ)
廊下ではひなたが完璧な笑顔で頭を下げていた。
その日からハウスの中でもうひとつの呼び名が使われるようになった。
――七瀬派。
結成時の人数は三人だった。
*
午後七時。
白鷺寮の食卓に五人分の皿が並んだ。
作ったのは芽衣だった。
豚肉とキャベツの炒めもの。
卵の味噌汁。
山盛りのご飯。
「……アタシ、これしか作れないから」
芽衣はフライパンを流しに置きながら誰の顔も見ずに言った。
「道場の合宿で覚えたやつ。味、濃いよ」
食卓の席は誰も決めていなかった。
決めていないのに四人とも椅子の前で立ち止まっていた。
湊の席はどこなのか。
その隣に誰が座るのか。
玲奈がノートを開きかけた。
「席次を」
「あ、僕、ここでいいですか」
湊がいちばん台所に近い端の椅子を引いた。
四人が同時に固まった。
「……結城湊さん。そこは配膳する側の席です」
「僕、配膳します。おかわりとか」
「それはお世話係の――」
「まだお世話係はいないですよね」
湊はもう座っていた。
玲奈は開きかけたノートをそのまま閉じた。
結局、湊の隣には誰も座らなかった。
向かいに玲奈。
その隣にひなた。
斜め向かいに紗雪。
芽衣はいちばん遠い反対の端にどすんと座った。
「いただきます」
湊が手を合わせた。
四人も少し遅れて手を合わせた。
湊は炒めものを一口食べた。
それからもう一口。
芽衣が箸を持ったまま湊を見ていた。
見ていないふりをして見ていた。
「……おいしいです」
湊が言った。
「ご飯が進む味です。榊さん、ありがとうございます」
芽衣の箸からキャベツが一枚落ちた。
「……っ、べ、べつに。当番だから作っただけだし」
「当番表、まだないですよね」
「うっさい!」
芽衣は山盛りのご飯に顔を突っこむようにして食べ始めた。
耳が下から赤くなっていた。
ひなたがにこにこしたまま味噌汁をすすった。
「……榊さん。お味噌汁の卵、半熟でございますね」
「なに文句?」
「いいえ。湊さんは半熟がお好きでございますので」
芽衣の手が止まった。
紗雪のペンが食卓の下でファイルの上を走った。
『結城さん、卵は半熟。……情報源、七瀬さん。十年前の』
玲奈は黙って自分のノートを開いた。
『四月十六日(火) 夕食 豚肉とキャベツの炒めもの卵の味噌汁。調理 榊。本人の評価「おいしいです」』
書いてから少しだけペンを止めた。
その下にもう一行足した。
『本人、配膳側の席に着席。……席次の件、保留』
食事のあと湊は当たり前のように皿を集めて流しへ運んだ。
四人がまた同時に固まった。
「洗います。作ってもらったので」
湊は袖をまくってスポンジを取った。
芽衣がいちばん先に動いた。
湊の隣に立って布巾をひったくった。
「……拭くのはアタシ。アンタ、割りそうだし」
「割らないですよ」
「割りそう」
二人並んで流しの前に立った。
湊が洗って芽衣が拭く。
食卓に残った三人はその背中を黙って見ていた。
この大学で男子が皿を洗うのを見たことのある女子学生はたぶん一人もいなかった。
*
午後十時。
湊は二階のいちばん奥の自分の部屋で段ボール箱を開けていた。
実家から送った荷物は箱が三つだけだった。
服と教科書と母が持たせてくれた古い湯呑み。
湯呑みを机の上に置いたところで扉が二回叩かれた。
「就寝確認です」
玲奈の声だった。
湊が扉を開けると玲奈がノートとストップウォッチを持って立っていた。
「就寝は二十二時三十分。本日は荷ほどきが済んでいないようですので三十分の猶予を設けます」
「猶予、ですか」
「荷ほどきに要する時間の見積もりです」
玲奈は部屋の中をちらりと見た。
段ボール箱が三つ。
そのうち二つはもう空になっていた。
玲奈の眉がほんの少しだけ動いた。
「……荷物はこれだけですか」
「はい。寮に家具があるって聞いてたので」
玲奈はノートに何かを書きかけて止まった。
机の上の古い湯呑みを見ていた。
縁が少しだけ欠けていた。
「その湯呑みは」
「母のです。……家を出るときこれだけ持っていきなさいって」
玲奈はしばらく何も言わなかった。
それからノートに一行だけ書いた。
『私物:段ボール三箱。湯呑み一(縁に欠けあり。母堂より)』
「割れないよう棚の奥に置くことを推奨します」
「はい」
「推奨です。命令ではありません」
玲奈はそれだけ言ってストップウォッチを押した。
「二十三時に再度確認します」
扉が閉まった。
規則正しい足音が遠ざかっていくのを湊は扉の内側で聞いていた。
*
午後十時四十分。
また扉が叩かれた。
今度は一回だけ。
小さく。
湊が扉を開けるとひなたが立っていた。
寝間着の上に薄いカーディガンを羽織っていた。
「……湊さん」
人前の声だった。
廊下には誰もいなかった。
それでもひなたは人前の声で話した。
「本日はたいへんお疲れさまでございました」
「ひなたちゃんも」
「明日の朝は六時四十五分にお声をおかけいたします。……当番ではございませんが幼なじみの務めでございますので」
湊は少しだけ困った顔をした。
「ひなたちゃん、そんなに気をつかわなくても」
「気をつかっているのではございません」
ひなたはにこりと笑った。
それからほんの少しだけ声を落とした。
「……十年ぶんのおやすみを言いに来ただけでございます」
湊は何と答えればいいのか分からなかった。
ひなたは深く一礼した。
「おやすみなさいませ湊さん」
顔を上げたときひなたの笑顔はいつもと同じだった。
同じだったのに目尻の泣きぼくろのあたりだけが少しだけ震えていた。
「……おやすみひなたちゃん」
ひなたはくるりと背を向けて廊下を歩いていった。
自分の部屋の扉の前で一度だけ止まった。
振り返らなかった。
扉がそっと閉まった。
*
午後十一時。
三度目のノックはなかった。
かわりに廊下の向こうから声がした。
「……結城。起きてる?」
芽衣だった。
湊の隣の部屋の壁ごしの声だった。
「起きてます」
「……この壁、薄いから。アンタ、夜中に歩き回んないでよ。聞こえるし」
「気をつけます」
「……べつに聞こえてもいいけど」
壁の向こうで布団をかぶる音がした。
それきり何も聞こえなかった。
湊は机の上の湯呑みを棚の奥に移した。
それから明かりを消した。
白鷺寮の二日目の夜は思っていたよりずっと静かだった。
静かなのに壁の向こうにも廊下の向こうにも階段の下にも誰かが起きている気配がした。
湊はそれを少しも嫌だと思わなかった。
(第2章 了)




