第8話:帰ってきた父
新聞の匿名記事が出回った翌日の昼過ぎ、ロシュフォール侯爵邸の玄関が激しく開け放たれた。
「ヴィオレッタ!」
重厚な革鎧を身にまとったまま、埃にまみれた姿で飛び込んできたのは、私の父であるロシュフォール侯爵だった。
国境領の防衛を預かる父は、王都からの緊急伝令を受け取るや否や、不眠不休で馬を飛ばして駆けつけてくれたのだった。
外套の裾には乾いた泥がこびりつき、普段は乱れのない髪も風に煽られたままだった。供の者が追いつくのを待たず、父だけが先に玄関を駆け抜けてきたらしい。幼い頃にも、これほど取り乱した父を見た記憶はなかった。
私を呼ぶ声を聞いた瞬間、冬至の夜から張りつめていたものがわずかに緩んだ。大広間では泣かなかった。侯爵邸へ戻ってからも、届く報告へ答えることを優先した。父の姿を前にして初めて、自分が家族の到着を待っていたのだと気づいた。
父は私のもとへ大股で歩み寄ると、私の両肩を強い力で掴み、怪我がないかを確かめるように上から下まで視線を走らせた。
「無事だったか……怪我はないな? 辛い思いをさせたな、ヴィオレッタ」
「お父様……お忙しい中、申し訳ございません。私はこの通り無事です」
父は安堵の息を漏らしたが、次の瞬間、その眉根が硬く寄せられた。
父は私を応接間のソファへ座らせると、自らも向かい側に腰を下ろし、絞り出すような強い口調で問いかけてきた。
「なぜ……なぜもっと早く私に知らせなかったのだ。ジュリアン殿下から冷遇されていたことも、約束を破られていたことも、一度として私に便りを送ってこなかったではないか」
父の目には、私への怒りではなく、深い痛恨の色が浮かんでいた。
私は膝の上で手を少し固く握りしめた。
「私は……王子妃候補として教育を受けてまいりました。家に私情を持ち込み、父上に無用なご心配をおかけするべきではないと考えておりました。私が我慢を重ね、正しく振る舞い続けていれば、いつか理解していただけると思っていたのです」
それが私の買いかぶりであり、過ちだった。
自分が我慢すれば済むという考え方は、結果として相手のつけ上がりを許し、被害を拡大させるだけだったのだ。
ジュリアン殿下が茶の約束を忘れた日も、名前で呼んでくださらなかった日も、私は父へ送る手紙に領地の天候や自分の学びだけを書いた。書きかけた愚痴は行儀の悪い娘と思われる気がして、乾く前にインクを拭き取った。
父から届く返事には、体を冷やしていないか、勉強ばかりせず休んでいるかと毎回書かれていた。その問いへ元気だと答えることが、父を安心させる正しい娘の務めだと思っていた。助けを求める機会は、私自身が何度も消していたのである。
父は頭を抱え、低く苦しげな唸り声を漏らした。
「私が甘かったのだ……お前が幼い頃に母親を亡くし、それ以来、泣き言一つ言わずに立派に振る舞うお前に頼り切っていた。我が家の名誉のためにお前を不幸にするつもりなど、私は一度たりとも抱いたことはないというのに」
父の言葉が、私の心に深く染み込んできた。
母が亡くなった頃、父は国境と王都を何度も往復していた。私は忙しい父を困らせまいとして、泣かずに礼儀を守ることを覚えた。父はそれを強さだと思い、私は期待に応えられたと喜んだ。互いを思って選んだ振る舞いが、いつしか何も話さない習慣へ変わっていた。
父の前で弱音を口にすれば、心配をかける。それだけで父の信頼を失うことはない。考えてみれば当たり前のことを、私は18歳になるまで確かめようとしなかった。
私は昔から、助けを求めることを弱さであり、未熟さだと誤解していた。
王子妃教育という完璧さを求められる環境の中で、「一人で耐え抜くこと」こそが美徳だと信じ込んでいたのだ。
だが、それは家族に甘えることを恐れていた私の内面的な臆病さに過ぎなかった。
父は顔を上げ、真剣な眼差しで私を見つめた。
「ヴィオレッタ。王家に対して正式な報復を求めるか、領地へ戻って静かに暮らすか、あるいは新たな縁談を探すか……これからのことは、すべてお前自身が自由に決めてよいのだ。私が全力でお前の望む道を支える」
何でも選んでよい。
そう言われた瞬間、私は言葉に詰まってしまった。
領地へ戻れば、幼い頃から知る森や川がある。王都へ残れば、王子妃教育で得た知識を使う道も探せる。縁談という言葉には、冬至の夜に差し出されたオーギュスト殿下の手が浮かんだ。
どれも選んではいけない道ではなかった。選べると知った途端、私は自分が一つ一つについて何を感じているのかさえ分からなくなった。これまでは王家の予定が先にあり、私の気持ちはその後ろへ置けばよかったのである。
父は答えを急かさず、ただ向かい側で待っていた。その沈黙に責める気配がないことが、かえって胸に痛かった。私は初めて、自分のために考える時間が必要だと認めた。
やがて父は卓上へ置かれていた私の手に、自分の手を重ねた。幼い頃より節が太くなり、剣を握る掌は硬かった。それでも触れ方は、熱を出した私の額を確かめてくれた頃と変わらない。
私はその手を避けず、今度は困った時に知らせると約束した。父は短く頷き、ようやく張りつめていた肩の力を抜いた。
自分の頭の中で、未来の選択肢を探そうとしても、そこには何も浮かんでこなかった。
これまでの18年間、私の人生の予定表には「第二王子妃となり、王家を支える」という未来しか書き込まれていなかった。
その巨大な目標が消え去った今、私自身が何を望み、何になりたいのか、その答えを私は持っていなかったのだ。
王子妃という役割を奪われた私に残されたのは、ぽっかりと空いた人生の空白だった。
その時、執事が静かに応接間へ入ってきた。
「閣下、ヴィオレッタ様。社交界の各家より、新聞に掲載された匿名記事に対する当家の公式見解を求める問い合わせが殺到しております」
私自身の空白に浸る猶予すら、世間は与えてくれそうになかった。
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