第2話:一生に一度の審問印
私の静かな制止の声に、大階段を登りかけていた衛兵たちが思わず足を止めた。
ジュリアン殿下は苛立ちを露わにし、眉をひそめて私を睨みつけた。
「何を往生際の悪い真似をしている! そのような小細工で自分の罪が消えるとでも思っているのか!」
「いいえ、殿下。罪を消そうなどとは思っておりません。ただ、正しく明かそうとしているだけでございます」
私は手の中にある銀の印章を見つめた。
これは我がロシュフォール家に代々伝わる秘術の道具、「審問印」と呼ばれるものだった。
幼い頃、亡くなった祖母からこの印章を授かった時の言葉が脳裏に蘇る。
あの日の祖母は、銀の印章を私の小さな両手へ載せ、指を閉じさせるように上から包んだ。冷たいはずの銀よりも、その手の温かさのほうをよく覚えている。当時の私は、これほど小さな品を一生に一度しか使えない理由が分からず、困った時に何度でも使えるもののほうがよいと無邪気に思っていた。
『ヴィオレッタや、この印は人の多い場所では軽々しく使うものではないよ。人の世は嘘で成り立っている。一人の嘘を強引に暴けば、周りにいる10人の隠しておきたい秘密までが丸裸になって転がり出てしまうのだからね』
祖母の忠告は正しかった。
この審問印は便利な魔法の道具などではない。
所有者が生涯に一度だけ発動させることができ、使用後には二度と修復できないほど粉々に砕けて失われる。
そして何より恐ろしいのは、この術が発動した空間においては、術者である私自身も含めた全員が、問われた問いに対して真実しか答えられなくなるという点にあった。
自分に都合の良い嘘をつくことも、都合の悪い事実を隠すために黙秘することも許されない。
祖母が恐れていたのは、印章を持つ者が真実を好きに選べることではなかった。この場にいる者が、それぞれ守ってきた事情まで巻き添えになることだったのだ。私も無傷では済まない。問われれば、自分でも見ないようにしてきた胸の内まで口にしなければならない。
それでも今ここで使わなければ、私の言葉は拘束された罪人の言い訳として扱われる。砕けた印章は戻らず、祖母へ返すこともできない。その重さを承知したうえで、私は指先に力を込めた。
いつか訪れると思っていた一度きりの時が、今なのだと決めた。
父も家の者もいないこの場で、決められるのは私だけだった。誰かの許しを待っている間に衛兵の手が届けば、印章を取り上げられるかもしれない。私は迷いごと掌へ収め、ジュリアン殿下へ向き直った。
「怪しげな呪術の道具を持ち出して、追及を誤魔化すつもりか! 見苦しいぞヴィオレッタ!」
ジュリアン殿下が再び声を荒らげて周囲の衛兵を促そうとする。
私は彼をまっすぐに見つめ返し、淡々とした口調で応じた。
「通常の取り調べを待っている間に、私の名誉と我が家の尊厳が先に処刑されそうですので。ここで真実を確定させるのが、最も効率的かと存じます」
私は左手の親指の先を、ドレスの留め具の鋭い角に強く押し当てた。
小さな痛みが走り、赤黒い血の滴が滲み出る。
その血を、銀の印章の真ん中に刻まれた細い溝へと塗りつけた。
「古き誓約により、ここに真実の席を設けます」
私が刻印の言葉を呟いた瞬間、手にしていた銀の印章がパリンと甲高い音を立てて亀裂を走らせた。
次の瞬間、印章の中から透き通った淡い光が溢れ出し、大階段から大広間全体へと一気に広がっていった。
光は物理的な遮蔽物を通り抜け、会場にいる貴族、衛兵、音楽を奏でていた楽師、果ては遠くに控えていた給仕たちまで、広間全体を包み込んでいく。
私の掌では亀裂の入った印章が細かく震え、ひびの隙間から銀の粉がこぼれ始めていた。もう発動を取り消すことはできない。衛兵たちは剣の柄へ手を置いたまま動けず、階段の下では扇を胸元へ押し当てる夫人や、連れと距離を取ろうとする貴族の姿が見えた。
真実を求めて私を見ていた人々が、自分も真実を隠せなくなると知った途端に青ざめている。祖母の言葉の意味が、大広間の沈黙となって私へ返ってきた。
「な、なんだこの光は!?」
「身体が……熱いような、冷たいような……」
広間のあちこちで戸惑いと混乱の声が上がった。
光は誰の身体も傷つけないが、その場にいる全員の魂へ不可視の楔を打ち込むように定着した。
その時、壁際で静観していた一人の男性が、ゆったりとした足取りで歩み出てきた。
濃紺の正装を身にまとったその人物は、現在の国王の弟であり、最高法院の長を務めるオーギュスト殿下だった。
冷徹な観察力と公平無私な態度で知られる彼は、広間を覆う光を興味深そうに見つめながら口を開いた。
「ほう……まさか実物を目にする機会があるとはな。ロシュフォール家に伝わる古の審問呪か。嘘を拒み、強制的に真実を吐露させる禁忌の術法だ」
オーギュスト殿下が審問呪の名を口にしたことで、ジュリアン殿下の顔色が一瞬で変わった。
叔父であり最高法院の長でもあるオーギュスト殿下の登場は、ジュリアン殿下にとって想定外の事態だったのだろう。
「お、叔父上! このような女の妖術に耳を貸す必要はありません! 現に私と近衛騎士が現場を目撃しているのです!」
「落ち着きなさい、ジュリアン」
オーギュスト殿下は甥の狼狽を冷ややかな視線で一蹴すると、大階段の上に立つ私へと向き直った。
「ヴィオレッタ嬢。この術は使用したお前自身にも全く同じ制約が課されるはずだ。嘘をつこうとすれば、魂が引き裂かれるほどの激痛を味わうことになる。まずは発動者であるお前から、術が正常に機能しているか確かさせてもらおう」
オーギュスト殿下の視線には、私を疑う色も庇う色もなく、ただ純粋な公明正大さだけが存在していた。
私は背筋を伸ばし、彼の問いを待った。
「ヴィオレッタ・ロシュフォール。あなたは、リディア・バリエ男爵令嬢をこの階段から突き落としたか?」
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