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10万円の夜勤  作者: megu
9/18

第9話 書いていない一行

朝の記録は、夜より白く見える。


同じ画面なのに、台所の光が当たるだけで、文字は正しい顔をする。


三日目の朝六時三十五分。


私は居間のテーブルで、昨夜の記録を開いた。


夜間覚醒二回。

水分摂取なし。

家族説明にて落ち着く。

転倒なし。


そこまでは、自分で打った。


最後に一行、知らない文がある。


東綾子氏に関する発言あり。家族より既知情報として確認済。


私は画面から顔を上げた。


台所の光が、テーブルの木目を白く飛ばしている。


百合さんは台所にいる。包丁の音が、一定の間隔で続いている。


律さんは見えない。


冬彦さんの靴は玄関にない。


三和土には、私のスニーカーだけが、外向きに揃えてあった。


私が揃えた向きではなかった。


私は追加された行を長押しした。


削除。


確認画面が出る。


この項目は家族確認済です。削除には理由入力が必要です。


理由欄は空白だった。


空白の下に、候補が三つ並ぶ。


入力誤り

重複

介護者判断


介護者判断。便利すぎる言葉だった。


私は理由欄に、自分で打とうとした。


本人発言を直接確認していないため。


「真柴さん」


背後から声がした。


律さんだった。


「それ、消さないほうがいいです」


私はタブレットを伏せなかった。


「私が書いた文ではありません」


「家族メモです。介護記録本体ではありません」


「同じ画面に表示されています」


「表示場所が同じだけです」


律さんは椅子に座らず、立ったまま言った。


「家族が把握している情報を補足する欄なんです。真柴さんの責任にはなりません」


責任にはなりません。


そう言われると、手が止まる人間は多い。


私も止まった。


「東綾子さんは、妹さんですか」


律さんは、すぐには答えなかった。


包丁の音が止まった。


半拍だけ。


また、同じ間隔で始まった。


台所から百合さんが出てくる。


「母の妹です。昨日、写真を見せましたよね」


「写真の裏に、文字がありました」


百合さんの表情は変わらない。


「古い写真ですから」


「見せてもらえますか」


百合さんは、困ったように笑った。


「朝からそんなことをすると、母が気にします」


律さんがタブレットを指さした。


「勤務完了、押せますよ」


画面の下に、保存ボタンがある。


その横に、赤い点。


未保存。


その上に、緑の枠。


家族確認済 06:21


まだ保存していない。


でも、もう確認されている。


私は削除画面を閉じた。


追加された一行は、残った。


保存ボタンを押す。


タブレットが一度だけ震えた。


業務完了


続いてスマホが震えた。


画面の上半分を、通知の帯が覆った。


派遣会社からだった。


本日分報酬確定


金額 一〇〇、〇〇〇円


台所から、また包丁の音が始まった。一定の間隔で。


私は画面を消した。


消えた黒い画面に、自分の顔と、後ろに立つ律さんの顔が映った。


律さんの顔は、私の肩のすぐ上にあった。


律さんは笑っていなかった。


「真柴さん」


「はい」


「記録は、残すためにあるんじゃないです」


彼は、タブレットを持ち上げた。


「残って困るものを、整理するためにもある」


その説明は、脅しには聞こえなかった。


業務の説明に聞こえた。


帰り道、派遣会社に電話をした。駅までの坂は朝の光で白く、鷺宮家の門が閉まる音がまだ背中に残っていて、坂の下からはごみ収集車の音が上がってくる。呼び出し音が三回鳴った。


「佐伯です。お疲れさまです」


電話の向こうで、複合機が紙を送る音がしていた。


「記録に、家族側の文が追加されます」


「補足欄ですか」


佐伯さんは驚かなかった。


「ご家族が介護記録を補足すること自体はあります。医療職の方がいるご家庭では、むしろ丁寧な運用です」


「私が書いたように見えます」


「署名欄は分かれていますか」


「画面では分かりません」


「では、スクリーンショットを」


私はスマホを握り直した。スクリーンショットを撮ればいい。なぜ、朝のテーブルで撮らなかったのだろう。


思い出せるのは、三つだった。


黒い画面に映った、肩のすぐ上の顔。


半拍だけ止まった、包丁の音。


画面の上半分を覆った、十万円の通知。


どれも理由になる。


どれも言い訳にもなる。


「次回、撮ります」


「お願いします。ただ、先方に不信感を持たれる動きは避けてください。契約が切れると、こちらからフォローできる範囲も限られます」


契約が切れる。十日だけ、十万円ずつ、母の施設費。数字が、また順番に並ぶ。


電話を切ると、画面に通話時間が出た。


四分十二秒。


派遣会社のアプリに通知が出ていた。


鷺宮様より次回勤務依頼


承諾する

辞退する


私は駅の改札前で立ち止まった。


改札の向こうで、上りの電車が二本、続けて出ていった。


承諾するは青。


辞退するは白。


同じ大きさのはずなのに、白いほうが小さく見えた。


画面の下に、小さな注意書きがある。


辞退した場合、前払い分は次回精算時に調整されます。


前払いの三万円は、もう母の施設に入っている。


指を、辞退の上に置いた。


押さない。


置いただけ。


改札から出てきた人の肩が、背中に当たった。


体が半歩前へ出る。


画面の上の指は、動かなかった。


構内アナウンスが、二本あとの電車の遅れを告げた。


私は指を横へ滑らせた。


「承諾する」を押した。


画面が切り替わるまで、一秒もなかった。


勤務予定が追加されました


三日目の夜。


二十時から翌七時。


もう、組まれていた。


私が押す前から組まれていたような速さだった。


その下に、昨夜の記録PDFが自動生成されていた。


私は開いた。


読み込みの円が、二秒回る。


右下に、頁番号。一分の一。


昨夜の私の夜が、一枚に整えられていた。


時刻。項目。チェック。


巡回の行に、特変なし。


一番下に、あの一行。


東綾子氏に関する発言あり。家族より既知情報として確認済。


追加された一行の署名欄には、家族ではなく、私の名前が入っていた。


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