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10万円の夜勤  作者: megu
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第8話 名前を返して

呼び出し音は、部屋の中では鳴っていなかった。


タブレットは母屋一階寝室を示している。


けれど千代さんの部屋に入ると、ボタンのランプは消えていた。


千代さんはベッドの上で、両手を胸に置いている。


掛け布団は乱れていない。


枕元の吸い飲みも、夕方のままの位置にある。


目を閉じていた。


「千代さん」


声をかけると、目だけが開いた。


「遅い」


「すみません」


「あっちにいた」


答えられなかった。


離れにいたことを、千代さんが知っている。


見えたはずがない。


カメラで見たのか。


誰かが伝えたのか。


あるいは、ずっと知っていたのか。


「水、ありました」


千代さんの目が動いた。


「飲まない」


「千代さんが欲しい水ではないんですか」


「返して」


また「返して」だった。


「綾子さんを、ですか」


千代さんは首を振った。


小さく、でもはっきり。


私はベッド脇の椅子に座った。


「何を返してほしいんですか」


千代さんの指が、胸元からゆっくり動いた。


私のペン。


それから、タブレット。


最後に、戸棚。


部屋の隅にある小さな仏壇の下。引き出しが三段ついている。


「そこにあるんですか」


千代さんは、まばたきを一度した。


私は立ち上がった。


ベッドの音を立てない歩き方は体が覚えている。仏壇の前に立つと線香の匂いが薄く残っていて、香炉の灰は山の形に整えられ、燃え尽きた芯が三本立っていた。一本だけ灰の色が新しく、この家に来てから線香の匂いを嗅いだのは初めてだったから、誰かが私のいない時間に焚いていることになる。


戸棚の一段目には、数珠と線香。


線香の箱は、半分より減っていた。


一段目を閉める。


木の音は、三段目より軽かった。


二段目には、古い写真。


三段目は、固かった。


鍵はかかっていない。木が湿気で膨らんでいるだけだ。


力を入れると、低い音を立てて開いた。


中には、茶色い封筒が一つ入っていた。


宛名はない。


指先が、封筒の角に触れた。


角は潰れて、丸くなっている。


何度も出し入れされた紙の角だった。


封はされていない。表面は湿気を吸って、少し波打っている。


厚みは薄い。中で、小さな紙が数枚ずれる感触がした。


私は手を止めた。


家族の私物を勝手に開けることはできない。


介護士がしていい範囲は、体と生活の周りだけだ。


封筒は、その外側にある。


廊下で、百合さんの声がした。


「真柴さん?」


私は引き出しを閉めた。


百合さんが戸口に立っていた。


「何かありましたか」


「千代さんが、戸棚を指さして」


「ああ」


百合さんは、すぐに部屋へ入ってきた。


濡れた手を、台拭きで拭きながらだった。


「昔の写真です。夜中に見ると、かえって混乱するので」


彼女は三段目ではなく、二段目を開けた。


三段目には、目もやらなかった。


古い写真の束は、輪ゴムで留められている。


輪ゴムは伸びきって、白く粉を噴いていた。


百合さんは、束の一番上から一枚取り出した。


印画紙は、真ん中から浅く反っていた。


若い千代さん。着物姿の女性が数人。茶室らしい畳の部屋。


隅に、掛け軸が写っている。字までは読めない。


誰も笑っていない。並び方だけが整っている。


「これが綾子です」


百合さんは、端に写った女性を指さした。


「母の妹です」


顔は小さく、よく見えない。


でも、写真の裏に何か書かれているのが透けていた。


電灯の下で写真が傾いた一瞬だけ、裏の墨の色が浮いた。


読めたのは、字がある、ということまでだった。


百合さんは写真の縁だけを持ち、裏を自分の掌へ向けたまま、束へ戻した。


指に、迷いがなかった。


「母はこの写真を探すんです。返して、というのは写真のことだと思います」


だと思います。


その言い方だけ、声の芯が抜けていた。


千代さんが、ベッドの上で口を開いた。


「違う」


百合さんは振り向かなかった。


「お母さん、もう夜よ」


「綾子は」


「写真にいるでしょう」


「違う」


千代さんの声は小さかった。


けれど、部屋の中では一番硬かった。


タブレットを開いた。


記録欄には、すでに候補が出ている。


写真への執着あり

家族説明にて落ち着く

要観察


まだ何も入力していない。


「候補が、先に出ています」


画面を向けると、百合さんはそれを見た。


「よくある内容なので、登録しているんです」


「今夜のことを、事前に?」


「母は毎晩、同じことを言いますから」


千代さんは、私の手元を見ていた。


「返して」


「写真をですか」


「名前」


百合さんが、初めてこちらを見た。


「真柴さん、今夜はもう休ませましょう」


タブレットを閉じた。


閉じる直前、候補の一番下に、新しい行が出た。


東綾子の件、記録不要


私は画面を閉じなかった。


「東、というのは名字ですか」


百合さんの表情が、初めて遅れた。


「旧姓です」


「千代さんの?」


「妹の」


「写真の裏に書いてありましたか」


百合さんは、二段目の引き出しに手を置いたまま動かなかった。


「古いものなので、いろいろ書き込みがあります」


千代さんが、枕の上で首を振った。


「違う」


「お母さん」


「東は、家」


百合さんの手が、引き出しから離れた。


「昔の話です。夜に広げることではありません」


私は写真をもう一度見せてほしい、と言おうとした。


言う前に、千代さんが私の手首をつかんだ。


力は弱い。


でも、指の位置ははっきりしていた。


脈を押さえるように。


親指ではなく、三本の指の腹で。


手首の内側の、骨のきわ。


私が仕事で毎日触れている場所だった。


「返して」


「名前を」


「そう」


百合さんが、すぐに言葉を重ねた。


「母は、昔から家名にこだわりがあって。結婚や相続の話になると、混乱するんです」


タブレットに戻った。


東綾子の件、記録不要。


その一行は、候補ではなく、もう薄い灰色で入力欄に入っていた。


カーソルを当てても、文字は消えない。


百合さんが言った。


「家族メモです。真柴さんの記録ではありません」


千代さんの指が、私の手首から離れた。


離れた場所だけ、体温が残った。


私はそのまま記録を保存しなかった。


保存しないまま、画面上部に緑の枠が出た。


家族確認済


「名前を返して」


今度は、はっきり聞こえた。


画面の緑の枠だけが、先に返事をしていた。


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