第7話 誰もいない三分間
離れへ続く廊下には、鍵が二つあった。
一つは古い引き戸の上。もう一つは、壁に新しく取りつけられた電子錠。木と金属が、同じ戸を別々に守っている。
二十三時四十六分。
千代さんは眠っている。
冬彦さんは二階へ戻った。
百合さんは台所で洗い物をしている。水音は規則正しく、止まる気配がない。
夕食の皿の数より、長い。
私は居間のテーブルで記録を閉じた。
閉じた瞬間、廊下の奥から音がした。
こつん。
昨日と同じ音。
タブレットを開く。カメラは四つ並んでいる。玄関、居間、母屋廊下、離れ廊下。どの画面も灰色に近い暗さで、動くものはない。センサーライトは反応していない。
誰も映っていない。
もう一度。
こつん。
私は立ち上がった。
渡り廊下の手前まで行くと、電子錠の小さなランプが青く点いていた。
白い小さな箱で、取りつけのねじだけが新しい。
施錠中なら赤。
解錠中なら青。
説明書は見ていない。でも、どこの現場でも色の意味はだいたい同じだ。
引き戸に手をかける。
動かなかった。
古い鍵が閉まっている。
電子錠は開いているのに、木の鍵は閉まっている。
廊下の後ろで、声がした。
「そこ、開きませんよ」
律さんだった。
片手にノートパソコン。もう片方の手に、缶コーヒー。
パソコンは閉じていなかった。画面をこちらへ見せない角度で、開いたまま抱えている。
夜勤中の職員を見るような顔ではなく、社内のサーバー室に来た人を見るような顔をしている。
「音がしました」
「古い家なので」
「内側から叩くような音でした」
「古い家ほど、そう聞こえます」
律さんは、電子錠に指を当てた。青いランプが消え、赤に変わる。
「今のは」
「テストです。ネットワークが不安定だったので」
「開いていました」
「電子錠だけです。木の鍵は閉まっています」
その通りだった。
「離れには何があるんですか」
「昔の稽古場です。今は使っていません」
「千代さんが、そちらの水を欲しがっていました」
律さんは缶コーヒーのプルタブを押した。
小さく、空気が抜ける音がする。
「祖母は昔のことを混ぜます。離れに水屋があったので」
水屋は、茶道で使う準備の場所だ。冬彦さんの話と、またつながる。
「見せてもらうことはできますか」
律さんは、目を細めた。
「夜中に?」
「介助動線の確認です」
私はそう言った。
便利な言葉だった。
律さんは笑って、古い鍵を開けた。
「一分だけですよ。段差があります」
引き戸が開くと、空気が変わった。
母屋より冷たい。
入ってすぐ、床が一段落ちる。
段差の高さを、靴の先で測った。指三本ぶん。夜は見えない高さだ。
壁に手すりはない。取りつけた跡もない。
車椅子は、ここを通れない。
嘘で言った確認を、私は本当にしていた。
渡り廊下は短かった。ガラス戸の向こうに、小さな庭が見える。踏み石。苔。使われていない井戸の蓋。蓋の上に、漬物石ほどの石が一つ載っている。
踏み石は、初日の飛び石と同じに濡れて見えた。雨は、今日も降っていない。
離れの扉には、部屋名の札がなかった。
母屋の部屋にはすべて札がある。寝室、浴室、納戸、トイレ。千代さんの部屋にも、家族用の小さなラベルが貼られていた。
ここだけ、何もない。
律さんが先に入り、壁のスイッチを押した。
電気はつかなかった。
「ほら、不便でしょう」
見上げると、天井の照明は笠だけで、電球が外されていた。
スマホのライトで中を照らす。
畳の部屋の壁際に棚と低い水屋と古い釜が並んでいて、埃はあるが、荒れてはいない。畳は湿った匂いがして、藺草の匂いはもう残っておらず、踏むと沈む場所と沈まない場所がある。障子の紙は一枚だけ新しく、釜の縁には錆が浮いていた。
棚は三段。上の段と下の段には埃が積もっているのに、真ん中の一段だけ、薄かった。
拭き取られた跡が、奥まで続いている。
水屋の棚では、茶筅が一本、伏せて干した形のまま乾き切っていた。
その前に、白いプラスチックのコップが一つ置かれていた。
千代さんの部屋にあるものと同じ形。
「誰か使っていますか」
「清掃の時に置きっぱなしにしたんでしょう」
律さんの返事は速かった。
律さんは缶コーヒーを、一口も飲まないまま窓の桟に置いた。
私はコップに触れなかった。
内側に、水滴が残っていた。
「戻りましょう」
律さんが言った。
その時、タブレットが鳴った。
母屋一階寝室
千代さんの呼び出しだった。
鳥の声が、渡り廊下まで追いかけてくる。
私は廊下へ戻ろうとした。段差は、先に跨いだ。
背中で、律さんが離れの扉を閉める。
がちゃん。
古い鍵。
続いて、電子錠の音。
ぴ、と小さく鳴った。
画面を見ると、記録メモが一件増えていた。
介護者、離れ立入なし
時刻は、二十三時四十六分。
私が離れに入る一分前だった。
千代さんの呼び出しは、まだ鳴っている。
私は母屋へ戻り、部屋の引き戸を開けた。
千代さんはベッドの上で起きていた。呼び出しボタンは、枕元に戻っている。自分で押した手の形が、シーツに残っていた。
「あそこは」
千代さんが言った。
「空き部屋ではありません」
私が先に言うと、千代さんは口元を動かした。
「誰の部屋ですか」
「書く人」
「前の人ですか」
「違う字で」
私はタブレットを開いた。
離れ立入なし。
その一行を消そうとする。
削除できません。
システム記録は編集不可です。
システム記録。
私は介護記録の画面に戻った。
自由記入欄に、離れの音、と打ちかけて消した。
千代さんが見ている。
「書かないのね」
廊下の向こうで、律さんが鍵を閉め直す音がした。
一度。
二度。
電子錠の音は一回だけ。
木の鍵は二回。
私は記録に、夜間覚醒、声かけ、と打った。
千代さんは、天井を見ている。
「水屋」
「水屋に何があるんですか」
「名前」
「誰の」
千代さんの唇が動いた。
音にならなかった。
その時、タブレットのカメラ一覧に、小さな灰色の帯が出た。
離れ廊下 23:46-23:49
メンテナンス
私はその三分間、離れにいた。




