表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10万円の夜勤  作者: megu
7/17

第7話 誰もいない三分間

離れへ続く廊下には、鍵が二つあった。


一つは古い引き戸の上。もう一つは、壁に新しく取りつけられた電子錠。木と金属が、同じ戸を別々に守っている。


二十三時四十六分。


千代さんは眠っている。


冬彦さんは二階へ戻った。


百合さんは台所で洗い物をしている。水音は規則正しく、止まる気配がない。


夕食の皿の数より、長い。


私は居間のテーブルで記録を閉じた。


閉じた瞬間、廊下の奥から音がした。


こつん。


昨日と同じ音。


タブレットを開く。カメラは四つ並んでいる。玄関、居間、母屋廊下、離れ廊下。どの画面も灰色に近い暗さで、動くものはない。センサーライトは反応していない。


誰も映っていない。


もう一度。


こつん。


私は立ち上がった。


渡り廊下の手前まで行くと、電子錠の小さなランプが青く点いていた。


白い小さな箱で、取りつけのねじだけが新しい。


施錠中なら赤。


解錠中なら青。


説明書は見ていない。でも、どこの現場でも色の意味はだいたい同じだ。


引き戸に手をかける。


動かなかった。


古い鍵が閉まっている。


電子錠は開いているのに、木の鍵は閉まっている。


廊下の後ろで、声がした。


「そこ、開きませんよ」


律さんだった。


片手にノートパソコン。もう片方の手に、缶コーヒー。


パソコンは閉じていなかった。画面をこちらへ見せない角度で、開いたまま抱えている。


夜勤中の職員を見るような顔ではなく、社内のサーバー室に来た人を見るような顔をしている。


「音がしました」


「古い家なので」


「内側から叩くような音でした」


「古い家ほど、そう聞こえます」


律さんは、電子錠に指を当てた。青いランプが消え、赤に変わる。


「今のは」


「テストです。ネットワークが不安定だったので」


「開いていました」


「電子錠だけです。木の鍵は閉まっています」


その通りだった。


「離れには何があるんですか」


「昔の稽古場です。今は使っていません」


「千代さんが、そちらの水を欲しがっていました」


律さんは缶コーヒーのプルタブを押した。


小さく、空気が抜ける音がする。


「祖母は昔のことを混ぜます。離れに水屋があったので」


水屋は、茶道で使う準備の場所だ。冬彦さんの話と、またつながる。


「見せてもらうことはできますか」


律さんは、目を細めた。


「夜中に?」


「介助動線の確認です」


私はそう言った。


便利な言葉だった。


律さんは笑って、古い鍵を開けた。


「一分だけですよ。段差があります」


引き戸が開くと、空気が変わった。


母屋より冷たい。


入ってすぐ、床が一段落ちる。


段差の高さを、靴の先で測った。指三本ぶん。夜は見えない高さだ。


壁に手すりはない。取りつけた跡もない。


車椅子は、ここを通れない。


嘘で言った確認を、私は本当にしていた。


渡り廊下は短かった。ガラス戸の向こうに、小さな庭が見える。踏み石。苔。使われていない井戸の蓋。蓋の上に、漬物石ほどの石が一つ載っている。


踏み石は、初日の飛び石と同じに濡れて見えた。雨は、今日も降っていない。


離れの扉には、部屋名の札がなかった。


母屋の部屋にはすべて札がある。寝室、浴室、納戸、トイレ。千代さんの部屋にも、家族用の小さなラベルが貼られていた。


ここだけ、何もない。


律さんが先に入り、壁のスイッチを押した。


電気はつかなかった。


「ほら、不便でしょう」


見上げると、天井の照明は笠だけで、電球が外されていた。


スマホのライトで中を照らす。


畳の部屋の壁際に棚と低い水屋と古い釜が並んでいて、埃はあるが、荒れてはいない。畳は湿った匂いがして、藺草の匂いはもう残っておらず、踏むと沈む場所と沈まない場所がある。障子の紙は一枚だけ新しく、釜の縁には錆が浮いていた。


棚は三段。上の段と下の段には埃が積もっているのに、真ん中の一段だけ、薄かった。


拭き取られた跡が、奥まで続いている。


水屋の棚では、茶筅が一本、伏せて干した形のまま乾き切っていた。


その前に、白いプラスチックのコップが一つ置かれていた。


千代さんの部屋にあるものと同じ形。


「誰か使っていますか」


「清掃の時に置きっぱなしにしたんでしょう」


律さんの返事は速かった。


律さんは缶コーヒーを、一口も飲まないまま窓の桟に置いた。


私はコップに触れなかった。


内側に、水滴が残っていた。


「戻りましょう」


律さんが言った。


その時、タブレットが鳴った。


母屋一階寝室


千代さんの呼び出しだった。


鳥の声が、渡り廊下まで追いかけてくる。


私は廊下へ戻ろうとした。段差は、先に跨いだ。


背中で、律さんが離れの扉を閉める。


がちゃん。


古い鍵。


続いて、電子錠の音。


ぴ、と小さく鳴った。


画面を見ると、記録メモが一件増えていた。


介護者、離れ立入なし


時刻は、二十三時四十六分。


私が離れに入る一分前だった。


千代さんの呼び出しは、まだ鳴っている。


私は母屋へ戻り、部屋の引き戸を開けた。


千代さんはベッドの上で起きていた。呼び出しボタンは、枕元に戻っている。自分で押した手の形が、シーツに残っていた。


「あそこは」


千代さんが言った。


「空き部屋ではありません」


私が先に言うと、千代さんは口元を動かした。


「誰の部屋ですか」


「書く人」


「前の人ですか」


「違う字で」


私はタブレットを開いた。


離れ立入なし。


その一行を消そうとする。


削除できません。

システム記録は編集不可です。


システム記録。


私は介護記録の画面に戻った。


自由記入欄に、離れの音、と打ちかけて消した。


千代さんが見ている。


「書かないのね」


廊下の向こうで、律さんが鍵を閉め直す音がした。


一度。


二度。


電子錠の音は一回だけ。


木の鍵は二回。


私は記録に、夜間覚醒、声かけ、と打った。


千代さんは、天井を見ている。


「水屋」


「水屋に何があるんですか」


「名前」


「誰の」


千代さんの唇が動いた。


音にならなかった。


その時、タブレットのカメラ一覧に、小さな灰色の帯が出た。


離れ廊下 23:46-23:49

メンテナンス


私はその三分間、離れにいた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ