第6話 水分摂取量、五十ミリ
水差しは、昨日と同じ場所にあった。
ベッド脇の台。白いプラスチックのコップ。メモリ付きの水差し。夜間水分量を記録しやすいように、二百ミリごとに線が入っている。
二日目の二十三時十八分。
千代さんは、コップを見ていた。
「飲みますか」
千代さんは首を振った。
「それじゃない」
「お茶がいいですか」
「水」
「水です」
「違う」
千代さんは、コップを指さした。
「戻して」
私はコップを鼻に近づけた。匂いはなく、透明で濁りもない、台所で百合さんが入れてくれた水だ。水差しからコップへ半分だけ注ぎ直す。とろみ剤の指示はないし、嚥下は保たれていると申し送りにもあったから、ベッドの背を少し上げ、顎が上がらない高さまで枕を足した。
「一口だけ、いきましょうか」
声のかけ方の形は、どこの現場でも同じだ。
千代さんは、口を開けなかった。
「口の中だけ、見せてもらえますか」
そこは、開けてくれた。
ペンライトで照らす。舌の上が白い。奥が乾いて、光を返さない。
唇の端で、皮が薄くめくれていた。
部屋の温度は二十六度。
湿度は五十五パーセント。
水差しの目盛りは、夕方に足した線から動いていない。
服薬変更で夜間覚醒の可能性あり、という冬彦さんの言葉どおりの夜だった。
「新しい水を持ってきます」
私が水差しを持ち上げると、千代さんの手が伸びた。
細い指が、私の袖をつかむ。
「台所じゃない」
「どこから持ってくればいいですか」
「あっち」
千代さんの指は、廊下の奥を向いていた。
昨夜の音の続きのような、廊下の奥。
母屋から離れへ続く、暗い通路。
「あちらに水道があるんですか」
千代さんは返事をしなかった。
代わりに、ベッド柵を指で叩いた。
人差し指の、第二関節。骨が金属を短く鳴らす。
一、二、三。
拍は、昨日と同じ速さだった。
四、五、六。
七。
止まった。
十で止まるはずだった。
指は柵から離れなかった。桟の上に置かれたまま、八を打たない。
「足りない」
「何がですか」
「あと三つ」
私は千代さんの手を、桟からそっと布団の上へ戻した。
指は、抵抗しなかった。
私はタブレットを開いた。
状態、覚醒。
対応、声かけ。
水分、摂取なし。
自由記入欄の候補が出る。
訴え継続なし
転倒なし
状態変化なし
「水分拒否、と書きます」
その言葉で、千代さんの手が袖から離れた。
「違う字で」
また「違う字」だった。
「前の人も、そう書きましたか」
千代さんは、口を閉じた。
廊下で、スリッパの音がした。
冬彦さんが立っていた。白いシャツの袖をまくり、手に小さなライトを持っている。
ライトは点けたまま、床へ向けていた。
「起きていますか」
「水を嫌がっています」
「味覚の訴えは、薬を減らした影響かもしれません」
冬彦さんは、すぐに言った。
「水を替えてみますか」
「台所の水ではないものを、と」
「母は昔、離れで茶道を教えていたんです。夜になると、その頃に戻ることがある」
茶道と離れと水が、きれいにつながった。
つながりすぎて、私はそれ以上聞けなかった。
冬彦さんはコップを取った。
取っ手ではなく、胴をつかむ持ち方だった。
一口だけ飲む。喉仏が、一度だけ動いた。
台へ戻す時、取っ手の向きを、元の角度にそろえた。
「問題ありません」
医師の息子が目の前で飲んだ。それで水は、ただの水に戻った。
「記録は水分拒否でいいでしょう。脱水の兆候はありません」
千代さんは、冬彦さんを見ていない。
ずっと、私のペンを見ていた。
「真柴さん」
冬彦さんの声で、私は手元に戻った。
「夜間は判断を複雑にしすぎると、現場が回りません。必要なことだけ残してください」
私は自由記入欄に打った。
夜間覚醒。水分声かけするも摂取なし。全身状態変化なし。
最後の候補は、押さなかった。
押さなかったのに、入力欄の下に薄い候補が残っている。
状態変化なし
千代さんのまぶたの影が、笑うように動いた。
「水は」
「あとで替えます」
「違う」
千代さんは、私の袖ではなく、ポケットを指さした。
昨日拾った薬包紙が入っている。
「そこに、入ってる」
私は手を動かさなかった。
冬彦さんが、先に言った。
「真柴さん、何か?」
ポケットの中で、紙が汗を吸って柔らかくなっていた。
「ベッド下に落ちていました」
私は薬包紙を出した。
出した瞬間、千代さんの目が細くなった。
冬彦さんは、紙を受け取らなかった。私の手の上で、ライトだけを当てる。
「空ですね」
「薬名がありません」
「家で小分けにしたものかもしれません。母は、薬包紙を取っておくことがあるので」
「数字が」
「母の書いたものです」
彼はそこで、初めて紙をつまんだ。
親指と人差し指の先だけで、縁を持つ。
数字の10を見ても、表情は変わらない。
「回数を数える癖があります。昔から」
昔から。
家族の口から出ると、「昔から」は鍵になる。
どんなものでも閉められる。
冬彦さんは薬包紙を自分のポケットに入れた。
「こちらで処分します」
「記録には」
「不要です。薬は服薬表どおりですし、中身もありません」
タブレットが震えた。
家族メモ
拾得物は家族確認済。記録不要。
まだ私が何も送っていないのに。
私は画面を冬彦さんに見せた。
「早いですね」
「家族側で共有していますから」
冬彦さんは、当たり前のことを言う顔をした。
「夜間に小さなものが出てくるたび、介護記録に残すと、母の生活が全部事件みたいになってしまう」
事件。
その単語だけが、部屋の中で浮いた。
千代さんが、低く笑った。
笑い声ではなく、息がこぼれた音だった。
「もう、なってる」
冬彦さんは聞こえなかった顔をした。
私は記録に戻った。
夜間覚醒。水分声かけするも摂取なし。全身状態変化なし。
水分欄は、0。
保存前の確認画面で、数字が勝手に変わった。
水分摂取量 50ml
「飲んでいません」
言葉を置くと、冬彦さんは水差しを見た。
「口を湿らせた分でしょう。百合が含ませたのかもしれません」
私は数字を0に戻そうとした。
入力欄は灰色になっている。
家族確認済。
千代さんの唇は、乾いたままだった。
画面の五十だけが、濡れていた。




