第5話 前任者情報なし
二日目の夜、玄関の花が替わっていた。
花が替わるだけで、昨日の夜まで別のものに見える。
昨日は白い菊だった。今日は薄い紫のトルコキキョウ。花瓶の水は澄んでいて、茎の切り口までそろっている。
百合さんは、昨日と同じグレーのカーディガンで迎えに出た。
「連日ですみません」
「いえ」
私は靴をそろえながら、廊下の角を見た。
カメラの赤いランプは、今日も消えている。
居間のテーブルには、昨日より一枚多く書類があった。
夜間記録用紙。
服薬一覧。
水分量の目安。
そして、手書きのメモ。
母が夜間に強い言葉を使う場合があります。
記録には状態のみで構いません。
昨日はなかった紙だ。
楷書だった。定規を当てたように、二行の高さがそろっている。
「追加ですか」
私が聞くと、百合さんは湯呑みを置いた。
「昨日、気にされていたようなので。母の言葉で真柴さんが傷つくといけませんから」
私が傷つく。
その言い方は、こちらを守っている形をしていた。
「前に入った方も、同じ案内を受けたんですか」
百合さんの手が、湯呑みから離れるのに一拍かかった。
「何人かお願いしたことはあります。でも、夜は合う合わないがありますから」
「続かなかったんですか」
「ご家庭の事情です」
廊下の向こうから、律さんの声がした。
「母さん、ネットワーク見るよ」
百合さんは立ち上がった。
「すぐ戻ります。真柴さん、先に荷物を置いておいてください。客間を使ってください。連日ですので、日中は客間で休んでいただいて構いません」
廊下の奥で、機械が再起動する電子音が短く鳴った。
客間は、千代さんの部屋の向かいだった。
畳に低い机と押し入れ、壁際には私物を置くための小さなロッカーがあって、畳は日に焼けた匂いがした。押し入れを開けると客用の布団が一組入っていて、カバーは糊が効いたまま角が立っている。机の脚の跡は、今の位置と少しずれた位置とで、二重になっていた。
窓際の一角だけ、畳の日焼けが薄い。
ちょうど布団一枚ぶん、長いあいだ何かが敷かれていた跡だった。
ロッカーの扉を開けると、下の段に、透明な歯ブラシケースが一つ残っていた。
中身は入っていない。
ケースの横に、黒いヘアピンが二本。
奥に、折りたたまれた紙袋。持ち手が、内側へ畳み込まれている。
ヘアピンに、手が伸びた。
伸ばして、途中で引っ込めた。
手袋をしていない。人の物に素手で触らない。施設で覚えた癖だった。
私は触らずに扉を閉めた。
閉める直前、扉の内側に貼られたテープが見えた。
白い養生テープ。
そこに、消えかけたマジックの跡がある。
真柴
私の名前だった。
けれど、私が貼ったものではない。
文字は最後の二画だけ濃く、最初の二文字はこすれて薄い。上から書き直したようにも見える。
私はスマホを出して、派遣会社のアプリを開いた。
勤務先メモには、客間ロッカー使用可、とだけある。
名前のことはない。
昨日の勤務完了画面を開く。
評価欄には、星が五つ並んでいた。
ご家族コメント
落ち着いて対応いただきました。引き続きお願いします。
その下に、小さな文字で、前回担当者、と表示されている。
欄の横で、読み込み中の円が回っていた。
私は待った。
十秒。
二十秒。
画面が暗くなりかけて、指で触れて戻した。
円は、まだ回っている。
名前は出なかった。
廊下で、呼び出し音が鳴った。
鳥の声。
私はロッカーを閉め、千代さんの部屋へ向かった。
千代さんは、ベッドの上で起きていた。
昨日より目がはっきりしている。
「こんばんは」
私はベッド横に膝をつき、枕元の湯呑みを口元へ運んだ。
千代さんは一口ふくんで、顔をしかめた。
「ぬるい」
それでも、もう一口だけ飲んだ。それから私の顔を見ず、肩越しに客間のほうを見た。
「そこ、使ったの」
「客間ですか」
「前の人の」
喉が詰まった。
「前の人を覚えているんですか」
千代さんは、私の胸ポケットを見た。
「きれいに書いた」
「記録をですか」
「違う字で」
戸口で、床が鳴った。
百合さんではなかった。
白衣ではない白いシャツを着た男性が立っている。四十代後半くらい。目の下に薄い疲れがある。
袖は肘の下まで折られていた。折り幅が、左右でそろっている。
胸ポケットに、ペンライトが一本。
「冬彦です。主治医ではありませんが、母の薬は私が見ています」
鷺宮冬彦。
緊急連絡先の三番目。
「今夜、服薬を一部変更しています」
彼はクリアファイルを差し出した。
薬の一覧は、昨日より一行少ない。
変更箇所には、定規で引いた二重線と、小さな訂正印があった。病院の書式の直し方だった。
「眠前薬を減らしたんですか」
「日中のふらつきが出ていたので。夜間は起きるかもしれません」
冬彦さんはベッドへ寄り、胸のペンライトを逆手に抜いた。千代さんの目の高さで一度点けて、消す。癖のような速さだった。
それから、手首に指を三本そろえて置いた。
数える時間が、短い。
慣れた指は、十五秒で足りる。
指を離すと、掛け布団の縁を直した。直す位置まで決まっている手つきだった。
冬彦さんの言葉は、医師のものとして正しかった。
正しすぎて、千代さんの「前の人」が部屋の隅へ押しやられる。
「前任の方について、確認してもいいですか」
私が聞くと、冬彦さんは一覧から目を上げた。
「介護者の個人情報は、こちらからは話せません」
言い方も、正しかった。
千代さんが、ベッド柵を指で叩いた。
爪ではなく、関節の音だった。
一回。
二回。
十回で止まった。
「十」
かすれた声。
「十になったら、終わり」
冬彦さんが、ベッド柵に手を置いた。
「母さん、今日はまだ二日目だよ」
千代さんは、初めて冬彦さんを見た。
「お前が数えた」
部屋の空気が止まった。
冬彦さんは笑わなかった。
「真柴さん、記録には睡眠浅めで。薬を減らした影響です」
うなずいてしまった。
タブレットを開く。
状態。
覚醒。
対応。
声かけ。
自由記入欄に、指を置く。
候補は昨日と同じだった。
不穏なし。
転倒なし。
状態変化なし。
その下に、見慣れない候補が一つ増えていた。
前任者情報なし。




