第4話 未保存なのに、確認済
朝六時四十八分、台所から味噌汁の匂いがした。
夜のあいだ、鷺宮家はほとんど音を立てなかった。冷蔵庫のモーター音、壁の中を水が通る音、千代さんの浅い寝息。その三つだけで、朝まで時間が進んだ。
台所からは、まな板の音もする。等間隔で、途中で止まらない。
私は居間のテーブルで、夜間記録を開いた。
昨夜の欄は、緑の枠で囲まれていた。
家族確認済
時刻は、23:59。
保存ボタンの横には、未保存の赤い点が残っている。
未保存なのに、確認済。
画面を閉じて、もう一度開いた。表示は変わらない。
廊下の奥で、足音がした。
「おはようございます」
百合さんが盆を持って入ってきた。味噌汁と白いご飯と卵焼きが、旅館の朝のように整えて並んでいる。味噌汁は豆腐と刻んだ葱で、まだ湯気が立っていて、両端を切り落とした卵焼きからは甘い匂いがした。
「夜、本当に助かりました。母も落ち着いています」
「一度、覚醒がありました」
「はい。確認しました」
百合さんは盆をテーブルの端に置いた。
確認しました。
その言い方で、タブレットを自分のほうへ寄せた。
「すみません。記録が未保存のまま、確認済になっていて」
百合さんは、困ったように眉を寄せた。
「息子に見てもらいますね。こういうものは、私はよく分からなくて」
言い終わる前に、背後からスリッパの音が近づいた。
「おはようございます。律です」
昨夜、スピーカー越しに聞いた声だった。
三十代前半くらい。細い黒縁眼鏡。寝起きには見えない髪。片手にノートパソコンを持っている。
「門を開けてくださった方ですか」
「ああ、すみません。到着通知が出たので」
律さんは、悪びれずに笑った。
「位置情報ですか」
「派遣会社の勤務アプリです。遅刻防止で、現場半径に入ると通知が来るんです」
そう言われると、筋は通っていた。
タブレットを差し出した。
「この確認時刻なんですが」
律さんは画面を見て、指を一本だけ動かした。
その拍子に、抱えたノートパソコンの画面が、こちらへ半分だけ見えた。
細かい表だった。日付が縦に並んでいる。行の頭に名前の欄があるのに、どの行も空白のままだった。
律さんは、画面の角度を少しだけ戻した。
「同期の問題ですね」
「同期」
「家族側の確認と、介護者側の保存が別サーバーなんです。表示順が前後することがあります。記録そのものは、真柴さんが保存するまで確定しません」
言葉は速かった。
速い言葉ほど、質問する隙間がなくなる。
「では、この確認済は」
「仮確認です」
律さんは、また笑った。
「言葉が紛らわしいですね。直しておきます」
百合さんが、横から湯呑みを置いた。
「真柴さん、朝食だけでも召し上がってください。お帰りの電車まで時間がありますよね」
「ありがとうございます。でも、記録を先に」
「もちろんです」
百合さんは箸置きの向きを直し、箸を私の手の側へそろえた。
それから、私の向かいに座った。
そのまま、何も言わずに待つ。
味噌汁の湯気が、少しずつ細くなっていく。
細くなっていくのが、目の端に入る位置だった。
私は椀を持ち、一口だけ飲んだ。
百合さんの肩が、それで下がった。
タブレットに向き直った。
夜間覚醒一回。声かけにて臥床継続。転倒なし。状態変化なし。
昨夜、自分で打った文がそこにある。
ただ、末尾に一行増えていた。
本人、朝まで安眠。
私はその行を見た。
文字の色は、私が打った文と同じ黒だった。見分けは、つかない。
「この一文は、私が入力していません」
律さんが、すぐに画面をのぞいた。
「候補文の自動補完ですね。すみません、前回のテンプレートが残っている」
前回。
百合さんが、すぐに言葉を足した。
「以前お願いした方の時のものです。母は同じような時間に起きるので」
「消してもいいですか」
「ええ」
二人とも、同時に言った。
同時だったので、私は一瞬、どちらを見ればいいか迷った。
自動補完の行を消す。文字はすぐ消えた。赤い点はまだ残っている。
保存ボタンを押す前に、律さんが言った。
「保存後の修正は、原則できません。何かあれば今のうちに」
私はポケットの薬包紙を思い出した。
夜のうちに拾って、誰にも渡していない。
白い小さな紙には、薬の名前ではなく、鉛筆で数字が書かれていた。
10
画面には、その数字だけが残った。
「薬の確認は、服薬一覧どおりでした」
私は言った。
薬の数は合っていた。
数字の意味を、知らないだけだ。
保存を押すと、赤い点が消えた。
押してから一秒、ボタンは灰色のままだった。
すぐに緑の通知が出た。
業務完了
百合さんが、深く頭を下げた。
「今夜も、お願いできますか」
私は返事をする前に、スマホを見た。
派遣会社から通知が来ていた。
前払い手続き完了
入金予定額 三〇、〇〇〇円
その下に、もう一つ通知が重なった。
家族確認 06:41
保存時刻は、06:52だった。
帰りの電車は、座れなかった。
つり革の下で、隣の人の肩がカーブのたびに触れた。
私は施設の振込先を開いた。
三万円を送る。
振込金額、三〇、〇〇〇円。手数料、二二〇円。確認画面で、指が一度止まった。
実行。
残高は、すぐに五桁へ戻った。
領収書のPDFを施設へ送ると、返信は一分で来た。
その一分で、吊り広告を三回読んだ。
ご入金ありがとうございます。
残額につきましては、来週月曜日までにご相談ください。
また、相談だった。
文面の下に、担当者の名前はなかった。
私はスマホを伏せ、窓に映る自分を見た。夜勤明けの顔が、知らない人のように映っていた。
アパートに着くと、蛍光灯が一拍遅れて点いた。
鞄から、白い封筒を出した。
初日の分。
封の口は、糊付けされていなかった。
それでも、開けなかった。
机の一番下の引き出しを開け、通帳と印鑑の箱の横に寝かせて、閉めた。
制服を畳もうとした時、脇のポケットで紙が鳴った。
薬包紙。
広げると、数字の裏に、細い線が一本だけ引かれていた。
それは、折り目ではなかった。
数を数える時の、一本目の線だった。




