第3話 それで書くと、朝になる
二十三時五十六分、タブレットが鳴った。
呼び出し音は、鳥の声に似せてあった。夜の家では、余計に作り物めいて聞こえる。
三十分前の巡回では、千代さんは眠っていた。
二十三時二十五分。枕元の水差しを持ち上げ、目盛りを読んだ。二百の線から、指一本分も減っていない。
掛け布団は二枚で、上の一枚が足元へずれていたので、肩まで戻した。体は右向きのまま、前の巡回と同じ向きだったから、腰の下へ手のひらを差し入れて、圧のかかり方を確かめた。骨の当たる場所はまだ熱を持っていなかったので、体位変換は次の回でいいと決めた。
呼吸は、一分数えて十六回。浅いが、乱れはない。
布団の外に出ていた手の爪も見た。次の入浴で切ればいい長さだった。
パッドの確認は、しなかった。眠りの浅い人は、腰に触れただけで起きる。起こしてまで確かめる時間ではない。
ポータブルトイレの中は、空だった。蓋を戻す。
室温計は二十五度。窓の鍵は閉まっている。カーテンの合わせ目から街灯の光が一筋入っていたので、布を重ねて直した。
記録には、23:25、巡回、入眠中、とだけ打った。
引き戸は、拳一つぶんだけ開けて出た。閉め切ると、音で起きる人がいる。
その千代さんが、呼んでいる。
私は居間の椅子から立ち上がった。
画面には、母屋一階寝室、と表示されている。
廊下へ出ると、センサーライトが順に点いた。居間側から三つ。点く順番は、いつも同じ。角のカメラは赤いランプを消したまま、レンズだけを光らせている。
この家は静かだった。
夜の家には、音の順番がある。台所の冷蔵庫が低くうなって、止まる。壁の中を水が落ちる。二階で床が一度だけ鳴って、それきりになる。一晩目の前半で、それだけ覚えた。
この静けさの中では、こちらの音だけが増えていく。
靴下が床をこする音。制服のポケットでペンが当たる音。自分の呼吸。どれも、普段の夜勤では気にならない。
千代さんの部屋の前で、また音がした。
こつん。
昼間と同じ、硬いものが床に当たる音。
引き戸を開けた。
湯呑みは落ちていなかった。ベッド脇の台に置かれたまま、水も減っていない。
台の上の輪の跡と、湯呑みの底が、ぴったり重なっている。動かされていない。
床には、転がるものが何もない。引き戸のレールにも、石は噛んでいない。
次に、柵を見た。金属の桟に、こすれた跡はない。
最後に、千代さんの手を見た。
右手だけが、掛け布団の外に出ていた。指は、柵の桟のすぐ内側にある。
千代さんは、枕から頭を浮かせていた。
「眠れませんか」
私は小さな声で言った。
千代さんの目は、私の胸元を見ていた。
「置いて」
「何をですか」
「それ」
ボールペンだった。
私は胸ポケットに触れた。
「記録用です。危ないものではありません」
「それで書くと、朝になる」
千代さんは、言葉を一つずつ置くように言った。
「朝になると、困りますか」
返事はなかった。
私はベッドの柵の高さを確かめた。足元、柵、呼び出しボタン。転倒につながるものはない。
「お水、飲みますか」
千代さんは首を動かさなかった。
「返して」
小さな声だった。
私は、水差しに伸ばした手を止めた。
「何を返してほしいんですか」
千代さんの唇が、薄く開いた。
「綾子」
廊下で、床が鳴った。
振り向くと、百合さんが立っていた。カーディガンの上に、薄いストールを羽織っている。
「すみません。起こしましたか」
「呼び出しが」
「母は夜中に、妹の名前を呼ぶことがあるんです」
百合さんは部屋に入らず、戸口に立ったまま言った。
「妹さんですか」
「ええ。もうずいぶん前に亡くなっています」
千代さんは、百合さんを見なかった。
「真柴さん、記録には、夜間覚醒でお願いします」
百合さんの声は柔らかかった。
「発言は」
「毎回書くと、母が朝に読み返して落ち込むんです。本人のためにも」
私はタブレットを開いた。
画面は夜間の暗さに落ちている。指を置くと、一段だけ明るくなった。
夜間記録
時刻 23:56
状態 覚醒
対応 声かけ
自由記入
自由記入欄に指を置くと、候補が三つ出た。
不穏なし
転倒なし
状態変化なし
「候補が出るんですね」
私が言うと、百合さんは小さくうなずいた。
「前の方も使いやすいように、息子が設定しました」
前の方。
私はその言葉だけ、入力欄に打ちそうになった。
千代さんが、私の手元を見ている。
「書かないで」
「いま、様子だけ書きます」
「それじゃない」
千代さんの指が、シーツをつかんだ。
「名前」
百合さんが、静かに部屋へ入った。
「お母さん、真柴さんを困らせないの」
言い方は優しかった。けれど、千代さんの指から力が抜けた。
タブレットの上部に通知が出た。
家族メモ
昔の人物名は記録不要です
私は百合さんを見た。
百合さんは通知を見なかった。目だけが、動かずにいた。
私は候補を選ばず、自分で打った。
夜間覚醒一回。声かけにて臥床継続。転倒なし。
そこまで書いて、手が止まった。
綾子。
打てば、欄は埋まる。
打たなければ、夜は進む。
百合さんは私の画面をのぞき込まなかった。のぞき込まない姿勢で、こちらが見せるのを待っていた。
私は最後に、短い言葉を足した。
状態変化なし。
保存はまだ押さなかった。
「これでよろしいですか」
画面を百合さんへ向けると、彼女は一度だけ見た。
「ありがとうございます。十分です」
千代さんは、目を閉じていた。
百合さんが出ていったあと、部屋には呼吸の音だけが残った。
私は湯呑みを持ち上げた。水面は揺れていない。
さっきの音は、何だったのだろう。
足元を見ると、ベッド下に白いものがあった。
小さな薬包紙。
手袋は、していなかった。
拾う前に、一度手を引いた。
落ちているものは、家族に渡す。渡したことを、記録に残す。それが手順だ。
拾った。
紙は軽かった。二つ折りの折り目が、白く立っている。
中身は空だった。表には薬の名前がない。鉛筆で数字が一つ、強く書かれている。
10
ベッド脇の台に置きかけて、やめた。
胸ポケットではなく、制服の脇のポケットに入れた。
ペンとは、別の場所に。
タブレットが短く震えた。
画面上部に、緑の通知が出ている。
家族確認 23:59
まだ保存していない記録だった。




