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10万円の夜勤  作者: megu
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第2話 三十二万七千円

半額シールの貼られたポテトサラダは、レジ袋の底で傾いていた。


前日の午後八時十一分。


駅前のスーパーを出たところで、施設から電話が入った。


「真柴様でいらっしゃいますか。お母様の件で」


声は若く、丁寧だった。


私はレジ袋を左手に持ち替えた。中の総菜が片側へ寄り、透明な蓋に白いソースがついた。


「お支払いのことでしょうか」


「はい。六月分の一部と、七月分の前受け分です。来週月曜日までに三十二万七千円のご入金をお願いできますか」


三十二万七千円。


数字だけが、店の外の湿った空気より重かった。


「分割は」


「今月だけでしたら、十万円以上のご入金があれば、残額のご相談はできます」


電話を切ると、右手に汗が残った。スマホの画面には、別の通知が一つ入っている。


夜間見守り案件のご相談


差出人は派遣会社だった。


いつもの一斉送信と違って、件名の下に私の名前が入っている。


真柴由依様


個人宅夜間見守り

二十時から翌七時

一勤務 一〇〇、〇〇〇円

交通費別


私は画面を閉じた。


改札前まで歩いて、もう一度開いた。


一勤務、十万円。


桁を見間違えたのかと思って、画面を暗くし、駅のガラスに映った自分の顔を見た。ひどく真剣な顔をしていた。


家に帰るまで、私はその通知を開かなかった。


古いワンルームの蛍光灯は、点くまでに一拍遅れる。流しにレジ袋を置くと、ポテトサラダの蓋の内側に水滴がついていた。


蓋は開けなかった。


輪ゴムをかけ直して、冷蔵庫に入れた。


中には豆腐と麦茶、それから母の施設から届いた封筒が二通、扉のポケットに立ててある。一通は請求書で、もう一通は、ご家族へのお願い、と印刷された定型の紙だった。お支払いが遅れる場合は、事前にご相談ください、という一文の下で、相談窓口の番号だけが太い字になっている。


コップに麦茶を注いで、立ったまま半分だけ飲んだ。


私は財布から通帳を出した。


残高 二八、四一二円


記帳の印字は、二か月ぶんで三行しかない。


数字の上に、派遣会社からの振込が二つ並んでいる。


五月分、六三、二五〇円。


六月分、五八、七〇〇円。


どちらも、次の家賃で消える金額だった。


母の写真は、冷蔵庫に貼ったままだ。


二年前の花見。母はまだ、私の名前をすぐ言えた。写真の端で、私は笑っている。笑っている顔だけが、今よりずっと他人に見える。


写真の横に、チラシの裏へ書き写した施設の口座番号が、マグネットで留めてある。


本棚の一番下には、前の現場の業務ノートが一冊だけ残っている。


背表紙に、自分の字で、藤井様、とある。


背表紙を指でなぞって、開かなかった。


スマホが震えた。


派遣会社から二度目の通知。


先方より、至急回答希望


私は座る前に電話をかけた。


担当の佐伯さんは、二コールで出た。


「急にすみません。鷺宮様の案件です」


後ろでキーボードの音がした。事務所は、いつも遅くまで明るい。もう一本、別の電話が鳴っている。誰も取らない音だった。


「この金額、間違いでは」


「間違いではありません。先方が短期で確実に入れる方を希望されていて」


「私に来ているのは、なぜですか」


キーボードの音が止まった。


「以前、真柴さんが夜間の個別記録を丁寧に残されていたので」


私は流し台の前に立ったまま、冷蔵庫の写真を見た。


丁寧に残した記録で、私は一度、現場を離れている。


入浴介助後の赤みを、念のため写真つきで報告した。家族から施設へ電話が入り、施設から派遣会社へ連絡が行き、職員会議で私の名前が出た。


あの時、誰も間違っているとは言わなかった。


ただ、次の更新はなかった。


「今回は、記録を細かく書く案件ではありません」


佐伯さんが言った。


「見守りなのに、記録を書かないんですか」


「書きます。ただ、発言の逐語記録は不要です。身体状態、服薬、水分、転倒の有無。そこを中心に」


「ご本人が何か訴えた場合は」


「緊急性があれば、もちろん報告してください。ただ、認知症状に伴う昔話や人物名は、ご家族が把握されています」


私は施設の請求書をもう一度見た。


宛名に、母の名前が印字されている。


真柴和枝様


母は今、自分の名前を書けない。


「先方は医療職のご家族もいらっしゃいます。判断に迷ったら、ご家族の指示に従ってください」


「契約書を先に見られますか」


「今、送ります」


数秒後、PDFが届いた。


私は床に座り、膝の上で開いた。全部で六ページ。勤務時間、緊急連絡先、報酬、守秘義務。どれも見慣れた文だった。


読み終えるまで、麦茶は減らなかった。


第六条。


夜間発言については、本人の混乱を助長しない範囲で要約するものとする。


第七条。


夜間記録は、勤務終了時に保存し、家族確認後に業務完了とする。


第八条。


業務完了確認後、報酬を確定する。


第九条。


契約期間は、十夜間とする。


夜、で数える契約書だった。


普通の文に見えた。


普通の文ほど、あとで読み返しにくい。


気づくと、スマホを持つ指が、画面を撮る時の形になっていた。


親指が、ボタンの上で止まっている。


指を離した。


「前払いもできます」


佐伯さんが言った。


「初回分のうち三万円だけなら、明後日の朝までに入ります。先方が了承済みです」


私は通帳の残高を見た。


二八、四一二円。


「お願いします」


「助かります。先方にもお伝えします」


切る前に、契約書の最後のページまで送った。


署名欄の上に、小さなチェック項目がある。


夜間発言の記録方針を確認しました


隣の欄は、空ではなかった。


薄い灰色の文字が、先に入っている。


確認済


「佐伯さん。この確認欄、私はまだ何も触っていません」


「先方確認済みの書式です」


声は、止まらなかった。


「鷺宮様が事前に確認された項目は、埋めた状態でお送りする決まりになっています。真柴さんは、一番下の署名欄だけお願いします」


決まり。


「書式のご不明点は、明日でも構いません。ただ、先方は今夜中の署名を希望されています」


電話は、そこで丁寧に切れた。


私はPDFを一度閉じて、開き直した。


部屋の中で、膝の上の画面だけが明るい。


灰色の文字は、同じ場所にあった。


指で押しても、濃くならない。


長く押しても、消えない。


署名欄だけが、まだ空いている。


私の名前が入る前に、確認だけが終わっていた。


確認済


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