表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10万円の夜勤  作者: megu
1/19

第1話 門は、名乗る前に開いた

門は、私がインターホンを押す前に開いた。


午後七時四十六分。


約束の時間より十四分早い。表札の前で住所を確かめ、スマホを鞄にしまおうとした時だった。


黒い門の内側で、小さく金属が鳴った。


「真柴由依様ですね」


スピーカーから若い男の声がした。


私はまだ名乗っていなかった。


「はい」


「足元、お気をつけください。砂利が滑ります」


門がゆっくり開いた。


敷地の中は、外の住宅街より影が濃かった。庭木の影が長く伸び、白い砂利だけが薄く光っている。玄関までの飛び石は濡れていた。雨は降っていない。


一歩目で、靴底が小さく鳴った。


二歩目で、鞄の中のスマホが震えた。


母の施設からだった。


画面には、支払期限について、という件名だけが出ていた。私は通知を消した。消しても、金額は消えない。三十二万七千円。昨日、電話で聞いた数字が、まだ耳の奥に残っている。


玄関の引き戸が開いた。


「真柴さんですね。鷺宮百合です」


五十代くらいの女性が、両手を前でそろえて立っていた。薄いグレーのカーディガン。低い声。こちらが恐縮するほど丁寧な会釈。


「急なお願いを引き受けていただいて、本当に助かります」


鞄の中のスマホが、まだ熱を持っていた。


「本日からお世話になります」


頭を下げると、百合さんは唇だけで笑った。


「こちらこそ。母はもう休んでおります。先に記録の説明だけさせてください」


三和土には、来客用のスリッパが一足、すでにこちらへ向けて置かれていた。


上がり框の横に、白い菊が活けてある。


茎の切り口が、高さまでそろっていた。


上がると、匂いが変わった。


ワックスの匂いの下に薄い消毒液が混ざっていて、家の中はよく磨かれている。廊下に埃はなく、柱には古い傷が残っているのに、床だけが妙に新しい。手すりもセンサーライトも呼び出しボタンも、介護用品はどれも、昔からそこにあった顔で取りつけられていた。


廊下の途中に階段があった。二階は暗い。


廊下の角にカメラがあった。赤いランプを消したまま、レンズだけが私のほうを向いている。


「防犯用です」


百合さんが言った。


「母が夜に歩いてしまうこともありますので」


「徘徊ですか」


「そこまでではありません。不安が強くなるだけです」


百合さんは「不安」のところで、私から目を外した。


居間には、すでに書類が並べられていた。


夜間記録用紙。タブレット。服薬一覧。緊急連絡先。水分量の目安。どれも準備がよすぎた。


湯呑みが二つ。私の側にだけ、茶が注がれていた。


テーブルの端に、白い封筒が置かれている。


百合さんはそれを私の前へ滑らせた。


「本日分です」


私は触らなかった。


「派遣会社経由では」


「明日、前払い分が振り込まれると聞いています。これは、初日の直接謝礼です。遠方まで来ていただいたので」


封筒には、中を見なくても分かる厚みがあった。厚みのぶんだけ、角が立っていた。


「受け取れません」


喉まで出た言葉が、鞄の中の震動で戻った。


今度は見なかった。


百合さんは封筒を戻さない。


「母の夜は、慣れていない方には負担があります。真柴さんには、余計な心配をせず、落ち着いて見ていただきたいんです」


封筒の角が、私のほうへまた一センチ寄った。


「記録について、派遣会社から聞いています」


私が言うと、百合さんの表情は変わらなかった。


「夜間の発言は、必要な範囲でお願いします」


「必要な範囲」


「母は、昔のことを今のことのように話します。亡くなった人の名前を呼ぶこともあります。すべて書き残すと、かえって本人が傷つくことになります」


百合さんはそこで、記録用紙の自由記入欄を指で隠した。


「身体状態、服薬、転倒の有無、水分。そこだけ見ていただければ十分です」


百合さんは、夜間記録用紙を指で押さえた。


欄は思ったより狭かった。時刻、様子、対応、確認者。自由記入欄は、横長の箱が一つだけ。


「変わりがなければ、状態変化なしで」


その言い方は、どこの現場にもある。


便利で、短くて、あとから読みやすい。


ふすまの向こうで、何かが鳴った。


こつん。


百合さんの指が、記録用紙の上で止まった。


「母ですね」


立ち上がるのが、早すぎた。


私は封筒を置いたまま、後を追った。


居間から部屋まで、廊下を九歩。角を一つ。


角を曲がると、消毒液の匂いが少しだけ濃くなった。


一階奥の部屋は、引き戸に替えられていた。戸口の横に呼び出しボタン。ベッドの柵。ポータブルトイレ。床には割れない素材の湯呑みが転がっていた。


部屋の明かりは、天井ではなく足元の常夜灯だった。


ベッドの上で、小さな老婆がこちらを見ていた。


鷺宮千代。


八十二歳。


診断名は書類で読んでいる。


でも、目は書類と違った。


ぼんやりしていない。眠そうでもない。暗いところから、こちらだけを選んで見ている目だった。


「お母さん。今日から夜に入ってくださる真柴さんよ」


百合さんが明るく言った。


千代さんは返事をしなかった。


膝をつく前に、目だけで部屋を拾った。


柵は両側とも上がっている。ベッドの車輪は四つともロック。ポータブルトイレはベッドの左、立ち上がって二歩の位置。床に段差はない。


動線の上にあるのは、転がった湯呑みだけだった。


私はベッドの横に膝をついた。


「真柴由依です。今夜、そばにいますね」


千代さんの視線が、私の顔から手元へ落ちた。


ボールペン。


勤務中、私はいつも胸ポケットに一本挿している。


千代さんの指が、ゆっくり伸びた。


「それ」


かすれた声だった。


「ペンですか」


「今日は、いくら」


百合さんが小さく息を吸った。


私は笑ってごまかそうとした。


「仕事ですから」


「いくら」


千代さんは、私ではなくペンを見ていた。


「お母さん、またそんなことを」


百合さんの声は柔らかい。


「真柴さん、ごめんなさい。お金の話をすると落ち着く時があって」


千代さんは、百合さんのほうを見なかった。


「一枚」


「え?」


「一枚で、いくら」


私の胸ポケットで、ペンが傾いた。


「書くと、終わるの」


部屋が静かになった。


百合さんが湯呑みを拾い、ベッド脇の台へ置いた。


「母は、記録のことを気にするんです。昔から几帳面な人でしたから」


千代さんは、まばたきをしなかった。


「今夜は、眠れるように見守ります」


私はそう言った。


千代さんの指が、私の袖をつかんだ。


力は弱い。


でも、離さなかった。


「返して」


声は小さかった。


百合さんが一歩近づいた。


「お母さん」


「綾子を」


その名前だけ、はっきり聞こえた。


百合さんの手が、私の肩に触れた。


「真柴さん、今日は初日ですから。あまり引っ張られないでください」


引っ張られる。


その言葉で、私は千代さんの手をそっと外した。


外してしまった。


部屋を出る時、千代さんはもう私を見ていなかった。


胸ポケットのペンを見ていた。


引き戸は、見た目より重かった。


閉まる時だけ、レールが低く鳴った。


居間へ戻ると、タブレットの画面がついていた。


日付ごとの記録欄。


記録保存。家族確認。報酬確定。


三つのチェック欄が横に並んでいる。


「保存後に、こちらで確認します」


百合さんは、何事もなかったように説明を続けた。


「確認が入れば、その日の勤務は完了です」


私は画面を見た。


今日の日付の欄だけ、すでに一つ緑になっていた。


家族確認。


まだ何も書いていない。


「では、よろしくお願いいたします」


封筒は、さっきと同じ場所にあった。


私は結局、それを鞄に入れた。


鞄の底で、封筒がスマホの上に載った。


支払期限について、の通知は、その下にある。


画面は、つかなかった。


午後八時ちょうど。


タブレットの今日の欄で、緑はまだ一つだけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ