第1話 門は、名乗る前に開いた
門は、私がインターホンを押す前に開いた。
午後七時四十六分。
約束の時間より十四分早い。表札の前で住所を確かめ、スマホを鞄にしまおうとした時だった。
黒い門の内側で、小さく金属が鳴った。
「真柴由依様ですね」
スピーカーから若い男の声がした。
私はまだ名乗っていなかった。
「はい」
「足元、お気をつけください。砂利が滑ります」
門がゆっくり開いた。
敷地の中は、外の住宅街より影が濃かった。庭木の影が長く伸び、白い砂利だけが薄く光っている。玄関までの飛び石は濡れていた。雨は降っていない。
一歩目で、靴底が小さく鳴った。
二歩目で、鞄の中のスマホが震えた。
母の施設からだった。
画面には、支払期限について、という件名だけが出ていた。私は通知を消した。消しても、金額は消えない。三十二万七千円。昨日、電話で聞いた数字が、まだ耳の奥に残っている。
玄関の引き戸が開いた。
「真柴さんですね。鷺宮百合です」
五十代くらいの女性が、両手を前でそろえて立っていた。薄いグレーのカーディガン。低い声。こちらが恐縮するほど丁寧な会釈。
「急なお願いを引き受けていただいて、本当に助かります」
鞄の中のスマホが、まだ熱を持っていた。
「本日からお世話になります」
頭を下げると、百合さんは唇だけで笑った。
「こちらこそ。母はもう休んでおります。先に記録の説明だけさせてください」
三和土には、来客用のスリッパが一足、すでにこちらへ向けて置かれていた。
上がり框の横に、白い菊が活けてある。
茎の切り口が、高さまでそろっていた。
上がると、匂いが変わった。
ワックスの匂いの下に薄い消毒液が混ざっていて、家の中はよく磨かれている。廊下に埃はなく、柱には古い傷が残っているのに、床だけが妙に新しい。手すりもセンサーライトも呼び出しボタンも、介護用品はどれも、昔からそこにあった顔で取りつけられていた。
廊下の途中に階段があった。二階は暗い。
廊下の角にカメラがあった。赤いランプを消したまま、レンズだけが私のほうを向いている。
「防犯用です」
百合さんが言った。
「母が夜に歩いてしまうこともありますので」
「徘徊ですか」
「そこまでではありません。不安が強くなるだけです」
百合さんは「不安」のところで、私から目を外した。
居間には、すでに書類が並べられていた。
夜間記録用紙。タブレット。服薬一覧。緊急連絡先。水分量の目安。どれも準備がよすぎた。
湯呑みが二つ。私の側にだけ、茶が注がれていた。
テーブルの端に、白い封筒が置かれている。
百合さんはそれを私の前へ滑らせた。
「本日分です」
私は触らなかった。
「派遣会社経由では」
「明日、前払い分が振り込まれると聞いています。これは、初日の直接謝礼です。遠方まで来ていただいたので」
封筒には、中を見なくても分かる厚みがあった。厚みのぶんだけ、角が立っていた。
「受け取れません」
喉まで出た言葉が、鞄の中の震動で戻った。
今度は見なかった。
百合さんは封筒を戻さない。
「母の夜は、慣れていない方には負担があります。真柴さんには、余計な心配をせず、落ち着いて見ていただきたいんです」
封筒の角が、私のほうへまた一センチ寄った。
「記録について、派遣会社から聞いています」
私が言うと、百合さんの表情は変わらなかった。
「夜間の発言は、必要な範囲でお願いします」
「必要な範囲」
「母は、昔のことを今のことのように話します。亡くなった人の名前を呼ぶこともあります。すべて書き残すと、かえって本人が傷つくことになります」
百合さんはそこで、記録用紙の自由記入欄を指で隠した。
「身体状態、服薬、転倒の有無、水分。そこだけ見ていただければ十分です」
百合さんは、夜間記録用紙を指で押さえた。
欄は思ったより狭かった。時刻、様子、対応、確認者。自由記入欄は、横長の箱が一つだけ。
「変わりがなければ、状態変化なしで」
その言い方は、どこの現場にもある。
便利で、短くて、あとから読みやすい。
ふすまの向こうで、何かが鳴った。
こつん。
百合さんの指が、記録用紙の上で止まった。
「母ですね」
立ち上がるのが、早すぎた。
私は封筒を置いたまま、後を追った。
居間から部屋まで、廊下を九歩。角を一つ。
角を曲がると、消毒液の匂いが少しだけ濃くなった。
一階奥の部屋は、引き戸に替えられていた。戸口の横に呼び出しボタン。ベッドの柵。ポータブルトイレ。床には割れない素材の湯呑みが転がっていた。
部屋の明かりは、天井ではなく足元の常夜灯だった。
ベッドの上で、小さな老婆がこちらを見ていた。
鷺宮千代。
八十二歳。
診断名は書類で読んでいる。
でも、目は書類と違った。
ぼんやりしていない。眠そうでもない。暗いところから、こちらだけを選んで見ている目だった。
「お母さん。今日から夜に入ってくださる真柴さんよ」
百合さんが明るく言った。
千代さんは返事をしなかった。
膝をつく前に、目だけで部屋を拾った。
柵は両側とも上がっている。ベッドの車輪は四つともロック。ポータブルトイレはベッドの左、立ち上がって二歩の位置。床に段差はない。
動線の上にあるのは、転がった湯呑みだけだった。
私はベッドの横に膝をついた。
「真柴由依です。今夜、そばにいますね」
千代さんの視線が、私の顔から手元へ落ちた。
ボールペン。
勤務中、私はいつも胸ポケットに一本挿している。
千代さんの指が、ゆっくり伸びた。
「それ」
かすれた声だった。
「ペンですか」
「今日は、いくら」
百合さんが小さく息を吸った。
私は笑ってごまかそうとした。
「仕事ですから」
「いくら」
千代さんは、私ではなくペンを見ていた。
「お母さん、またそんなことを」
百合さんの声は柔らかい。
「真柴さん、ごめんなさい。お金の話をすると落ち着く時があって」
千代さんは、百合さんのほうを見なかった。
「一枚」
「え?」
「一枚で、いくら」
私の胸ポケットで、ペンが傾いた。
「書くと、終わるの」
部屋が静かになった。
百合さんが湯呑みを拾い、ベッド脇の台へ置いた。
「母は、記録のことを気にするんです。昔から几帳面な人でしたから」
千代さんは、まばたきをしなかった。
「今夜は、眠れるように見守ります」
私はそう言った。
千代さんの指が、私の袖をつかんだ。
力は弱い。
でも、離さなかった。
「返して」
声は小さかった。
百合さんが一歩近づいた。
「お母さん」
「綾子を」
その名前だけ、はっきり聞こえた。
百合さんの手が、私の肩に触れた。
「真柴さん、今日は初日ですから。あまり引っ張られないでください」
引っ張られる。
その言葉で、私は千代さんの手をそっと外した。
外してしまった。
部屋を出る時、千代さんはもう私を見ていなかった。
胸ポケットのペンを見ていた。
引き戸は、見た目より重かった。
閉まる時だけ、レールが低く鳴った。
居間へ戻ると、タブレットの画面がついていた。
日付ごとの記録欄。
記録保存。家族確認。報酬確定。
三つのチェック欄が横に並んでいる。
「保存後に、こちらで確認します」
百合さんは、何事もなかったように説明を続けた。
「確認が入れば、その日の勤務は完了です」
私は画面を見た。
今日の日付の欄だけ、すでに一つ緑になっていた。
家族確認。
まだ何も書いていない。
「では、よろしくお願いいたします」
封筒は、さっきと同じ場所にあった。
私は結局、それを鞄に入れた。
鞄の底で、封筒がスマホの上に載った。
支払期限について、の通知は、その下にある。
画面は、つかなかった。
午後八時ちょうど。
タブレットの今日の欄で、緑はまだ一つだけだった。




