第10話 最後の「す」の払い
十万円が振り込まれる音はしない。
スマホが短く震えた。
三日目の昼、私は駅前の銀行ATMで通帳を記帳した。
昼休みの列は、五人。
記帳機は、通帳を吸い込むと、しばらく黙った。
それから、じ、じ、と紙を引っかく音を立てた。
派遣会社名が、三行並んで印字された。
三〇、〇〇〇
七〇、〇〇〇
一〇〇、〇〇〇
一番上は、初日の前払い分だった。
真ん中は、初日の残り。
前払いの三万円を引いた、七万円。
一番下は、昨夜の分。
黒い数字は、他のどの文字より濃く見えた。
通帳の表紙が、手の汗で薄く湿っている。
そのまま施設の振込先を開き、七万円を送金して、二二〇円の振込手数料を払い、残りの三万円を家賃の口座へ移した。画面が、続けて明細を印字するか聞いてくる。しない、を押した。
一つずつ数字が消えていく。
消えても、足りないものは減る。
母の施設から返信が来たのは、午後一時過ぎだった。
ご入金を確認いたしました。
残額のお支払い計画について、週明けに改めてご相談ください。
母の部屋の写真も添付されていた。
窓際の椅子に座る母。
膝の上のタオル。
タオルの角が、きちんと畳まれている。
母の畳み方ではなかった。
カメラを見ていない横顔。
私は写真を拡大した。
母の右手には、何も握られていない。
でも、指だけが何かを書く形に曲がっている。
親指と人差し指のあいだに、ペン一本ぶんの隙間。
何十年も家計簿をつけてきた指だった。
夜、鷺宮家へ向かう電車で、その写真を何度も見た。
各駅停車は空いていた。
写真を開いたまま、二駅ぶん、目を閉じなかった。
見ても、母は私の名前を書けない。
見ても、十万円はもう消えている。
二十時、鷺宮家の門は、また私が押す前に開いた。
「真柴さん、こんばんは」
スピーカーの声は律さんだった。
「足元、お気をつけください」
同じ言葉。同じ砂利。
違うのは、私の通帳に一度だけ十万円が印字されたことだった。
百合さんは、今日は紺色のカーディガンを着ていた。
「昨夜もありがとうございました。母が、真柴さんの日は落ち着いているんです」
落ち着いている。
そう言われると、こちらは続ける理由を渡された気になる。
居間のテーブルには、封筒がなかった。
代わりに、タブレットが中央に置かれている。
横には、充電ケーブルまで用意されていた。
「本日から、紙の記録はなしでお願いします」
百合さんが言った。
「電子だけですか」
「息子が、二重管理はかえって間違いの元だと」
律さんは廊下の奥で、片手を上げて済ませた。
「紙も残したいのですが」
私は言った。
百合さんは笑った。
「もちろん必要でしたら。ただ、前の方は紙にこだわって、母がそれを気にしてしまって」
前の方。その言葉は、もう隠されなくなっていた。
「紙を見ると、千代さんが不安定になるんですか」
「書かれることが苦手なんです」
百合さんは、私の胸ポケットを見た。
「真柴さんも、できればペンは客間に」
私はペンに触れた。
昨日、千代さんはペンを見て「違う字で」と言った。
今日、ペンを置けば、記録は全部タブレットになる。
「分かりました」
私は客間へ行き、ペンを机に置いた。
ロッカーの内側のテープは、貼り替えられていた。
今度は、何も書かれていない。
テープの端に、剥がした糊だけが黒く残っている。
畳には、ロッカーを動かした細い擦り跡が延びていた。
呼び出し音が鳴ったのは、二十二時四分だった。
千代さんは、右腕を布団の外に出していた。
肘の上。
皮膚の薄いところに、青黒い跡がある。
四本の指の形。
私は自分の右手を、触れないまま、跡の上にかざした。
指の間隔が、ほぼ重なる。
私の手より、少し広い。
親指のぶんは、腕の裏側へ回る位置だった。
色は青黒く、縁だけが黄色へ変わり始めている。
色が変わるには、日数がかかる。
数え方は、学校で習った。
幅は指で測った。
三横指。
発見時刻を、頭の中で二度繰り返した。
二十二時四分。
昨日はなかった。
少なくとも、私が水を持って部屋にいた時には見なかった。
「痛みますか」
千代さんは、私ではなく戸口を見た。
「夜」
「昨夜ですか」
「夜」
それ以上は言わなかった。
私はスマホを出しかけた。
写真に撮れば、記録として残る。
その時、タブレットが震えた。
家族メモ
皮下出血は既往あり。強く触れないこと。
百合さんの足音が、廊下から近づいてきた。
「ああ、また出ましたか」
彼女は慌てなかった。
「母は血管が弱くて。冬彦にも見せています」
「昨日はありませんでした」
「夜の光だと見えなかったのかもしれません」
あり得る言葉は、こちらの手を鈍らせていく。
私は写真を撮らなかった。
タブレットに入力する。
右上腕内側に皮下出血様変色。家族確認済。疼痛訴えなし。
最後まで打つと、候補が出た。
経過観察
私はそれを選んだ。
保存前に、スマホが震えた。
派遣会社からの自動通知だった。
本日勤務開始を確認しました。
完了後、報酬確定予定 一〇〇、〇〇〇円
十万円は、今日も音を立てなかった。
私は保存を押さずに、画面を伏せた。
「写真を撮ります」
今度は、はっきり言った。
百合さんの顔から、笑みが薄くなった。
「母が嫌がります」
「記録のためです」
「冬彦が確認しています」
「私も見ました」
その時、千代さんが腕を引いた。
布団の中へ隠すように。
「消える」
昨日と同じ言葉だった。
「写真は消える」
百合さんが、すぐに肩へ手を置いた。
「お母さん、真柴さんは困らせる人じゃないの」
千代さんは目を閉じた。
私はスマホを下ろした。
撮らなかった。
タブレットに戻ると、さっき打った文の下に候補が出ている。
写真添付なし
家族確認済
経過観察
私は、写真添付なしを選んだ。
選んだ瞬間、画面の右上に小さく、報酬確定予定、と出た。
保存前なのに。
客間へ戻ると、机に置いたペンがなくなっていた。
畳の上にも、ロッカーの中にもない。
代わりに、机の真ん中に白い紙が一枚置かれている。
本日より電子記録のみでお願いします
丁寧な字だった。
誰の字かは分からない。
でも、最後の「す」の払いだけ、私の字に似ていた。




