家族の記録、会社の記録
「店の名前まで家族へ出す必要があるんですか」
律は肩をすくめた。
「遅れて来るかもしれないから、会社が予定を共有してるんでしょう」
「面談の店まで?」
「それは会社に聞いてください」
会社へ聞けばいい。
署名画像の出所を尋ねた時も、律は同じことを言った。
私は千代さんの部屋で呼び出しボタンを左手へ戻し、食卓へ戻った。百合は十枚の一覧を持って二階へ上がっている。律は流しの前から動いていなかった。
「では、署名のことを会社へ聞きます。その前に、律さんがどこから取ったか答えてください」
「取った、って」
「家族版PDFに貼った私の署名画像です。会社へ登録した字でした」
律は濡れた指を布巾で拭いた。指先からではなく、手首から順に。
「最初の家族連絡の確認書」
「何ですか」
「真柴さんが、この家のノートにも申し送りするって同意したPDF。会社から家族へ来たでしょう」
会社端末で契約時の文書を探した。家族連絡協力確認。初回勤務の前に営業所で確認し、会社の電子署名を使っていた。家族へ渡す控えにも、末尾の署名画像が残っている。
私はその書類を家族ノートへ貼ることにも、別の本文の下へ署名だけ使うことにも同意していない。
「この画像を切り取ったんですね」
「主担当を表示するためです」
「名前なら文字で足ります」
「署名のほうが分かりやすいから」
「誰が内容を認めたか、分かりやすく見せるためでしょう」
律は答えず、食卓の椅子へ座った。
「会社記録には会社の認証がある。こっちは家の資料です」
「外へ出す時も、そう説明しますか。家族が本文を直し、署名は別の同意書から抜いた、と」
「見る側が聞けば」
「聞かない相手へ出すつもりだから、十枚そろえるんじゃないですか」
階段の途中で足音が止まった。百合が、一覧を抱えてこちらを見ている。
「母の夜を見た方のお名前を載せるのが、そんなにいけないことですか」
「名前と署名は違います。家族が直した文を、私が確認した形にしないでください」
「会社との確認書に、ご自分で署名したんでしょう」
「家族へ申し送ることに同意しました。家族が作った完成版を承認してはいません」
百合は一覧の角を親指でそろえた。
「途中で形式を変えられると、困ります」
「私は最初から許可していません」
千代さんの呼び出し音が鳴った。
今度は排泄だった。ベッドの端へ座ってもらい、足裏が床へ着く位置まで腰をずらす。私が立たせようとすると、千代さんは左手を上げた。
「まだ」
「めまいがありますか」
「靴下が曲がってる」
左の小指の下で布がよれていた。踵を合わせて履き直し、もう一度尋ねる。
「今なら立てますか」
「今なら」
千代さんは手すりを持ち、自分の脚で立った。私は骨盤の横へ手を添え、歩幅を急かさない。戻る時、寝室の前で百合が待っていたが、手を出す前に千代さんへ聞いた。
「私が反対側へ入ろうか」
「今日は、この人で足りる」
百合は「そう」とだけ言って道を空けた。
会社記録には、排泄前の靴下のよれ、本人が直してから立つと選んだこと、歩行中のふらつきがないことを入れた。家族ノートには、排泄介助とだけ書く。
そのあと、会社の個人情報・不正利用申出を開いた。
家族連絡協力確認PDFの署名画像を、家族ノートの本文確認署名として利用することに同意しない。既存分も承認しない。今後の利用停止を求める。
偽署名PDFの受付番号と、律から聞いた取得元をつないだ。送る前に、律と百合へ読み上げた。
「止めるなら、家族ノートへの入力もやめますか」
律が聞いた。
「必要な申し送りは続けます。私の署名画像を使わないでください」
送信すると、利用停止申出の受付番号が付いた。佐伯を通さず、会社の個人情報窓口が受ける経路だった。
百合は一覧を抱えたまま台所へ入り、冷蔵庫の扉を開けた。何も取らずに閉める。
「明日の朝から、真柴さんが見られる家族ノートは当日分だけにします」
「既にそうなっています」
「入力も、必要な欄だけにします」
「構いません。会社記録は会社へ残します」
百合は返事をせず、二階へ戻った。
夜半、交代職員へ千代さんの歩行と水分、右上腕の痕を引き継ぎ、会社端末と緊急連絡端末を渡した。休憩開始を打刻して門を出ると、駅前の食堂で焼き魚を食べた。佐伯の着信には触れず、食後も窓の外の配送車を数えた。
一時間後に戻ると、千代さんが水を三口選び、むせなかったことが交代職員の名で残っていた。家族ノートの交代注記を確かめ、門前で休憩終了を打刻した。
明け方、律が私を食卓へ呼んだ。
ノートパソコンには、家族ノートの第十夜用テンプレートが開いていた。本文の欄は空で、主担当には真柴由依。末尾には、署名画像を参照する枠だけがある。
作成日は、今夜ではなかった。前の指定夜が明けたあと。私が利用停止を申し出るより前だった。
「作ってあったから、止めても消えないってことですか」
「作成済みの資料までは、今の申出の前でしょう」
「空の本文へ、これから誰が何を書くんですか」
律は画面の端にある版履歴を指した。外部サービスの作成時刻が残っている。
「作った時刻は動かせません」
「使った時刻も残りますか」
「履歴を消さなければ」
「誰が消せるんですか」
「管理者」
「律さんですね」
彼はうなずかなかった。
「停止前に空の様式を作ったことと、停止後に私の署名を使うことは別です」
律の手が、ノートパソコンの蓋へ伸びた。
「使えば、その順番も会社へ送ります」
彼は手を止めた。画面を閉じないまま、椅子から立った。




