第12話 名前のない夜間記録
客間の机の引き出しは、空に見えた。
四日目の昼。百合さんが買い物に出て、律さんが二階で仕事をしているあいだ、私は客間にいた。母屋は昼のほうが静かで、冷蔵庫の低い音が廊下を伝って客間まで届き、二階からは椅子の軋む音が時々落ちてくる。仮眠のためではなく、なくなったペンを探すためだった。
机の上には、何もない。
日焼けの跡だけが、前に置かれていた物の形に白く残っている。
机の一段目には、メモ用紙。
角が日に焼けて、うっすら黄色い。
隅に、短い鉛筆が一本転がっていた。
ペンの代わりに、借りることにした。
二段目には、未使用の封筒。
三段目は、引っかかって開かない。
力を入れると、古い木が擦れる音がした。
中には何もない。
そう見えた。
でも、底板が浮いている。
爪をかけると、薄い紙が一枚出てきた。
夜間記録用紙。
様式は、私が初日に使った物と同じだった。
右上の社名も、同じ。
端が折れ、湿気で波打っている。
記録者欄には、名前がない。
日付もない。
ただ、自由記入欄だけが埋まっていた。
本人より「名前を返して」と発言あり。
水分拒否。
離れ方面を指さす。
家族へ報告。
その下に、別の筆跡で一行。
本人混乱強く、詳細記録不要。
最初の字は、私の字に似ていた。
似方が、細かすぎた。
「水」の最後のはね方。
「離」の左側の潰れ方。
私が急いで書く時の癖と同じだった。
でも、私はこの紙を書いていない。
紙の裏には、薄い圧痕があった。
何かを上から書いたあと、下の紙に残る跡。
指の腹でなぞると、紙がわずかに波打っている。
窓際へ持っていき、光に透かす。
文字が浮いた。
東
綾
子
三文字だけが、強く残っている。
私はスマホで写真を撮った。
片手で紙を持ち、片手で構える。
手が揺れた。
一枚。二枚。
画面の中の文字は、目で見るより薄い。
シャッター音を消しているのに、部屋の中では指が画面に触れる音まで大きく聞こえた。
すぐに、タブレットが震えた。
震えが先で、音はしない。
家族メモ
客間備品の持出しはご遠慮ください。
私は紙を見た。
持ち出していない。
机の上にある。
それでも、見つけたことは知られている。
廊下で足音がした。
律さんだった。
「何か探し物ですか」
「ペンがなくなっていたので」
「電子記録になったので、もう使わないかと」
律さんは机の上の紙を見た。
廊下の光を背にして、顔は影になっている。
驚かなかった。
「古い下書きですね」
「誰の」
「さあ。祖母は紙を捨てられない人なので」
「筆跡が私に似ています」
「人の字って、似ることありますよ」
彼は紙に手を伸ばした。
私は先に押さえた。
「これは、確認します」
律さんは手を止めた。
「どこに?」
どこに。
派遣会社か、警察か、施設か。どの言葉も、口に出す前に重くなった。
「自分の記録として」
そう言うと、律さんは小さく笑った。
「じゃあ、なおさら気をつけたほうがいい」
「何をですか」
「紙は、誰がいつ書いたか分からない」
彼は机の引き出しを閉めた。
「でも、電子記録は残ります」
タブレットがもう一度震えた。
夜間記録テンプレート更新
新しい候補が追加されている。
紙記録なし。
私は紙を折り、制服の内側ポケットに入れた。
律さんは止めなかった。
「持っていっていいんですか」
「真柴さんの記録として確認するんでしょう」
「はい」
「なら、どうぞ」
彼は笑った。
その笑顔で、紙は急に軽くなった。
本当に困るものなら、奪うはずだ。
奪わないなら、持たせる理由がある。
私は客間を出て、トイレに入った。
鍵をかける。
便座の蓋を下ろして、座った。
膝が、扉にほとんど着く。
換気扇の羽が回って、電球の光を細かく刻んでいた。
スマホでさっきの写真を開くと、画像は残っていた。
ただ、端が白く飛んでいる。
窓の光が、強すぎたのだ。
白飛びした一枚は、消さずに残した。
撮り直した事情ごと残す。
圧痕で浮いたはずの東綾子の文字が、ほとんど見えない。
もう一枚撮ろうと、紙を広げる。
スマホのライトを点けた。
真上から当てると、圧痕は消える。
斜めに寝かせると、浮く。
浮く角度を探して、手首を三回ひねった。
傾けた光の端に、さっきは見なかった数字があった。
8
鉛筆で、小さく。それだけ。
八枚目。
千代さんの言葉とつながる。
私は写真を撮った。
今度は機内モードにしてから。
保存された画像を確認する。
数字は写っている。
私は手帳を出した。
一番うしろの白いページに、客間の引き出しの短い鉛筆で書いてみる。
水。
離。
急いで書く時の速さで。
紙片の横に、手帳を並べた。
「水」のはねが、同じ場所で切れている。
「離」の左側が、同じ形に潰れている。
手帳の紙は薄く、鉛筆の跡が次のページまで届いていた。
鉛筆を握った手のひらが、湿っていた。
手本は、見ていない。
玄関の戸が開く音がして、買い物袋が上がり框に置かれた。
足音が、廊下を近づいてくる。
「真柴さん、大丈夫ですか」
百合さんの声だった。
大丈夫。
またその言葉だった。
「はい」
私は紙を畳み、ポケットへ戻した。
ドアノブに置いた手が、そのまま止まった。
律さんの笑顔が、まだ手の甲に残っている。
私はトイレットペーパーを二枚重ねて取り、紙片を包んだ。
角を三角に折る。
開けられれば、分かる形に。
包みの外側に、同じ鉛筆で小さく書く。
客間三段目より。
発見時刻。
自分の字で、場所と時刻だけを残した。
中身については書かない。
人の名前を書けば、それだけで誰かのものになる。
私は包みをもう一度撮った。
今度は、紙の中身ではなく、自分がどう保管したかを撮る。
証拠ではない。
でも、あとで「どこで拾ったか分からない紙」にされないための、最低限の紐だった。
包みは、胸ではなく、腰のポケットへ入れた。
水を流して出ると、百合さんが廊下に立っていた。
「顔色が悪いです」
「寝不足で」
「夜は長いですからね」
彼女は私のポケットを見なかった。
見なかったのに、タブレットが震えた。
家族メモ
紙片一枚、介護者保管。
盗難でも、持出しでもない。




