第13話 書く人
千代さんは、私の名前を呼ばなくなった。
四日目の夜。
夕食の匂いが、まだ廊下に残っている時刻だった。
部屋へ入るたび、彼女は同じ呼び方をした。
「書く人」
最初は聞き間違いにした。
「真柴です」
そう言っても、千代さんは首を振る。
「名前は、取られる」
「誰にですか」
「書く人に」
私はベッド脇の椅子に座った。常夜灯の橙色が、枕の白だけを浮かせている。体温計を脇に入れると、千代さんは腕を少し上げて待っていた。慣れた形だった。三十六度二分。血圧計は家の物を借り、カフを巻くと千代さんは目を閉じた。百二十八の七十四。脈は手首に三本の指の腹を当てて、六十秒で六十八。昨日と同じ数字だった。
紙の記録はない。
ペンもない。
胸ポケットが軽いだけで、手の置き場所が分からなくなる。
タブレットを膝に置くと、千代さんはその画面を見た。
「それは、箱」
「記録用の端末です」
「違う」
「何ですか」
「箱」
千代さんは、両手で小さな四角を作った。
「入れると、出てこない」
四角を作った指は、そのまま少しのあいだ、空中に残った。
私は画面を伏せた。
廊下の向こうで、百合さんが誰かと電話している声がする。
「ええ、十日だけですから」
そこだけ聞こえた。
少し間があって、もう一つ。
「はい。そちらには、書類のほうで」
そちら。先生なのか、会社なのか、その一語では分からない。
十日だけ。
千代さんが、私の手を指さした。
「あなたは、前にも書いた」
「ここでは初めてです」
「違う場所」
三年前の施設。
藤井トシさん。
夜間対応記録。
私はその名前を、まだ鷺宮家で出していない。
「誰に聞きましたか」
千代さんは答えなかった。
代わりに、天井を見た。
「書く人は、最初に選ばれる」
「誰が選ぶんですか」
「書かない人」
百合さんの電話の声が止まった。
廊下が静かになる。
私はタブレットを開いた。
夜間覚醒。
本人発言あり。
自由記入欄に、書く人、と打った。
変換候補の下に、家族メモが出た。
職員誤認あり
私はそれを選ばなかった。
自分で入力する。
本人より「書く人」と発言。
保存前に、画面が一瞬白くなった。
戻った時、文が変わっていた。
本人、職員名の混同あり。
私はすぐに戻した。
一文字ずつ、打ち直す。
もう一度、白くなる。
また変わる。
本人、職員名の混同あり。
廊下から律さんの声がした。
「通信が重いですね」
姿は見えない。
声だけが来る。
「真柴さん、今の内容なら候補文で十分です」
「本人の言葉を残します」
「それ、本人のためにならないこともありますよ」
千代さんが、小さく言った。
「ほら」
「何がですか」
「書かない人」
タブレットの画面に、保存ボタンが出る。
その下に、薄い文字。
記録者 真柴由依
その文字だけは、誰も書き換えなかった。
私は保存せず、画面を閉じた。
千代さんの部屋の常夜灯が、目に残る。
廊下へ出ると、律さんが壁にもたれていた。
常夜灯の下で、顔の半分だけが明るい。
手にはマグカップ。
湯気は、もう出ていない。
「保存しないんですか」
「まだです」
「未保存のままだと、業務完了になりません」
「分かっています」
「報酬も確定しません」
それも分かっている。
分かっていることを他人に言われると、分かっている以上に効く。
律さんは、そこで声を落とした。
「未保存が増えると、会社にも確認が入ります」
「会社に入るなら、むしろ」
「理由も一緒に行きます」
彼はタブレットを指で軽く叩いた。
「職員判断保留。本人発言の解釈困難。家族確認待ち」
言葉だけなら、どれも嘘ではない。
でも、その三つが並ぶと、迷っているのは千代さんではなく私になる。
「真柴さんは、記録が丁寧です」
律さんは言った。
「でも、丁寧な人ほど、迷っているように見えます」
私は客間へ戻り、自分のスマホを出した。
客間に、常夜灯はない。
電気を消すと、畳の冷えが足の裏から上がってくる。
襖一枚の向こうが、廊下。
廊下の先が、律さんの部屋。
私は布団を頭から被った。
布団は、家の物だ。
洗剤の匂いまで、家の匂いがした。
音声メモを開く。
スマホを口元へ寄せる。
唇が画面に触れる手前で止める。
息が当たって、マイクが低く鳴った。
少しだけ離す。
録音ボタンを押して、小さく言った。
千代さんは、私を「書く人」と呼ぶ。
記録文が候補文に置き換わる。
記録者名だけは消えない。
停止。保存。
録音時間は、十九秒だった。
布団の中は、自分の息で暑くなっていた。
私はすぐに再生した。
音量は最小。
スピーカーを耳に押し当てる。
囁き声は、思ったより割れていた。
それでも、自分の声が、そのまま聞こえた。
そこまでは、家のものではない。
そう思いたくて、もう一度再生した。
二度目は、襖のほうへ耳を向けたまま聴いた。
同じ声。同じ言葉。
私はファイル名を日付ではなく、ただの数字に変えた。
04
四枚目の夜。
一覧に、04だけが並ぶ。
あと六つ。
次に、派遣会社の業務アプリを開いた。
音声添付。
その欄に、さっきのファイルを選ぶ。
アップロード前確認として、自動要約が表示された。
本人、職員名の混同あり。
記録文は候補文を使用。
記録者名は真柴由依。
私は画面を見たまま固まった。
スマホの音声は変わっていない。
変わっているのは、家に出すための要約だけだ。
手元の音声だけでは足りない。
外へ出す時に、別の言い方へ替えられる。
消されるより、器用だった。
私は添付を取り消した。
音声はスマホに残したまま、業務アプリを閉じる。
Wi-Fiを切り、モバイル回線に変える。
アンテナの表示が、扇形から棒三本に変わった。
廊下の向こうで、律さんの部屋のドアが開いた。
足音が二つ。
一つ目は廊下へ出る音。
二つ目は、すぐに止まる音。
「接続、切れました?」
律さんの声だった。
私は、返事をしなかった。




