母さんが壊れないように
千代さんが眠ったあと、律が寝室の戸を二度叩いた。
「五分だけ、上へ来られますか」
呼び出しボタンは左手の下。呼吸は一定で、右肩へ圧はかかっていない。私は緊急連絡端末を持ち、寝室の戸を少し開けたまま二階へ上がった。
律の部屋にも、扉は閉めないと伝えた。
机の上には大きな画面が一台と、ケーブルの束があった。カーテンの裾は椅子の脚に巻き込まれ、窓は少しも開いていない。壁際の棚で、五年前の内定通知が透明なファイルに入ったまま反っていた。
律は私の視線を遮るように、椅子へ座った。
「コースター、会社に渡したんですね」
「やはり、律さんでしたか」
否定しなかった。
「佐伯さんが、家族共有の予定に店まで入れたから分かった。開店後に行って、店員へ預けました」
「直接渡さなかったのは」
「顔を見られたくなかった」
「店員には見られています」
「家の人じゃないから」
「東綾子は、前の担当者の名前ではないんですね」
「家族ノートでは、そう表示した」
「誰が」
律は画面を起こした。
「最初に作ったテスト用の名前です。祖母の妹。母さんが、前の人の実名を出したくないと言って、そのまま使った」
「作ったのは律さん」
「はい」
「私の署名を貼ったのも」
「はい」
「離れの三分をゼロにして、交代後の時刻を二分ずらしたのも」
指が止まった。
「表示の補正です。元の時刻は外部サービスに残ってる」
「したか、していないかを聞いています」
「しました」
短く答えたあと、律は椅子を半回転させた。
「母さんが壊れないように作ったんです」
「その一文で、何を免れるつもりですか」
「別に」
律は机の端から、表紙の擦れた大学ノートを取った。
百合の字だった。
最初の頁には、時刻と、千代さんが訴えたことが細かく残っている。
右肩が痛い。左を下にする。
ラジオを消すと眠れないと言う。音を二つ下げる。
排泄の帰り、廊下の灯りを消さない。
次の頁には、呼び出しが続いた夜がある。
財布を百合が取ったと言う。枕の下で見つかる。
見つけたあとも、百合が隠したと言う。
私は怒った。声が大きかった。
五時すぎ、母は眠る。私は眠れない。
行が進むほど、字は罫線から下へ落ちた。強い筆圧は裏の頁まで抜けている。
「これを毎朝、祖母に読まされた」
律はノートを閉じなかった。
「母さんが書き忘れると、忘れたこと自体を責められた。全部書けば、朝まで眠れない。だから僕が入力欄を作った」
さらに後ろの頁は、文が短かった。
夜の訴え、朝に家族で確認。
言い方を整える。
本人には繰り返さない。
最後の数頁は白い。ノートをやめた日付も、やめた理由も書かれていなかった。
「最初は、肩も水も、ちゃんと書いてあったんですね」
「最初は」
律は内定通知のほうを見ずに答えた。
「だから今の文を直してもいいと?」
「そういう話じゃない」
「では、どういう話ですか」
「直す前の文も残してる」
彼は画面に、家族ノートを預けている外部サービスの管理欄を出した。本文ではなく、保存期間と版の一覧だけを見せる。家族アカウントごとの変更履歴は、端末を替えても残る。
三か月前の削除保留領域に、短い音声ファイルが一つあった。
「前の人の声です」
「何を話していますか」
「家族ノートの名前は自分の名前じゃない。次の人を入れないで、って」
「原本を聞かせてください」
律は首を振った。
「復元すると、管理者全員に通知が行く。母さんと叔父さんにも」
「今まで、通知が怖くて置いていたんですか」
「消えるまでは、残ってるから」
「残っているだけでは、誰にも届きません」
律は返さなかった。
削除保留の期限は、第九指定夜が明ける朝だった。あと二回の勤務を過ぎれば、通常の管理画面から復元できなくなる。
私は宮本の受付番号を開いた。
「サービス名、契約を識別できる番号、音声ファイルの日時と期限を送ります。律さんが作った偽名、署名の転用、時刻補正も一緒です」
「僕が渡したって書くんですか」
「書きます」
「母さんも叔父さんも見るかもしれない」
「会社原本と家族ノートを分けたのと同じです。誰が何をしたかも分けます」
律は画面の該当箇所を閉じなかった。
私は表示された範囲だけを会社端末へ入力した。音声そのものは移していない。外部サービスの管理者である律から所在を聞いたこと、復元で家族管理者へ通知が出ること、保留期限をつないだ。
宮本の受付に追記が付いた。
階下で、千代さんの呼び出し音が二度続いた。宮本の受付画面を閉じ、すぐ階段を下りた。
千代さんは左足の掛け布団を外していた。
「暑いですか」
「百合の足音がした」
「今は二階です」
「そう」
水を勧めると、二口だけ選んだ。むせはなく、呼吸も変わらない。千代さんは私の後ろを見た。
「律、いた?」
「二階に」
「窓、開けた?」
「閉まっていました」
「あの子、風が嫌い」
それだけ言って目を閉じた。
深夜、交代職員へ水分と呼吸、掛け布団、上腕の痕を引き継ぎ、会社端末と緊急連絡端末を渡した。休憩開始を打刻して門を出ると、河川敷でおにぎりを食べた。律の音声も宮本の受付も開かず、一時間を使った。
戻ると、千代さんが枕を低くしてもらった記録が交代職員の名で残っていた。引き継ぎを受け、休憩終了を打刻した。
律はまだ食卓にいた。
「今夜聞いたことは、全部、会社上位へ送ります。協力したことも、変えたことも」
「分かってます」
「味方だとは書きません」
「それでいい」
律はしばらく黙り、二階へ戻る前に言った。
「九夜目が明けるまでに、僕が音声を復元します」
階段を上る足は止まらなかった。返事を待っていなかった。




