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10万円の夜勤  作者: megu
15/16

第15話 大丈夫って、便利ですね

五日目の朝、味噌汁の匂いがしなかった。


鷺宮家に来てから、初めてだった。


台所には、昨夜洗ったままの皿が伏せてある。三人分。箸も三膳、籠の中で向きを揃えてあった。水切りかごの端から、雫が一滴落ちた。


ぽたり。


その音だけが、朝の台所で大きかった。


百合さんは椅子に座っていた。


エプロンをしていない。


髪も、いつもより乱れている。


エプロンがないと、百合さんの手は置き場を探した。


テーブルの上で組まれ、ほどかれ、また組まれる。


指の節が太い。


水仕事の手だった。


右手の親指の付け根に、絆創膏が一枚。


端が白くふやけて、めくれかけていた。


「おはようございます」


声をかけると、百合さんは顔を上げた。


「真柴さん、朝ごはん、まだでしょう」


「大丈夫です」


「大丈夫って、便利ですよね」


百合さんは、自分の手を見ていた。


「母もよく言うんです。大丈夫って。そうじゃない時ほど」


タブレットを抱えたまま、台所の入口に立った。


冷蔵庫の横の壁に、紙が一枚貼ってある。


献立表だった。


一週間が線で仕切られている。


月曜、粥。


火曜、煮魚。


水曜、やわらかい肉団子。


字は丁寧で、わずかに右へ傾いている。行の頭が、定規を当てたように揃っていた。


ところどころ、赤いペンで書き込みがある。


塩分少なめ。


薬の前。


日付のいくつかには、鉛筆で小さな丸。


四隅を留めたセロハンテープが、黄色く乾いていた。


丸の意味は分からない。


分からないが、これを毎週書いている手が、この家にある。


揃った行の下で、今朝の髪だけが乱れていた。


「昨夜の記録を確認したいです」


「律が見ます」


「私の記録です」


そこで、百合さんの口元だけが動いた。


疲れた笑いだった。


「真柴さんの記録で、うちの母の記録で、うちの家の記録です」


「東綾子さんは、前任の介護者ですか」


百合さんは答えなかった。


水切りかごから、また雫が落ちる。


ぽたり。


私は次の一滴を待った。


四つ数えて、ぽたり。


もう四つ数えて、ぽたり。


三滴ぶん、百合さんは黙っていた。


「母はね、昔から人を巻き込むんです」


百合さんは言った。


「弱い顔をして、相手に書かせる。言わせる。守らせる。そうして、自分は責任を持たない」


初めて、百合さんの声から丁寧さが消えた。


「介護する側は、ずっと責任を持つのに」


私は言葉を返せなかった。


百合さんの疲れは、作り物には見えなかった。だから、余計に扱いにくかった。


「十日だけなんです」


百合さんは、指を組んだ。


絆創膏の端が、組んだ指の間で折れた。


「十日、同じ形式で記録がそろえば、手続きが進みます」


「何の手続きですか」


「母のための手続きです」


「施設ですか」


「家族の生活です」


そこで、百合さんの目が落ちた。


「真柴さんにも、守りたい生活があるでしょう」


母の施設、通帳の残高、前払い。


言われなくても、そこへ話が戻る。


タブレットが震えた。


夜間記録確認済


昨夜の記録PDFが生成されている。


私は開いた。


二十二時四分、本人睡眠中。

二十三時三十七分、巡回時変化なし。

午前一時十二分、本人覚醒。声かけにて落ち着く。


三行を、指でなぞって読んだ。


映像が止まったことも、灰色の時間も、落ちた音もない。


署名欄には、私の名前。


百合さんが、静かに言った。


「最後まで、同じ調子でお願いします」


同じ調子。


同じ調子は、お願いの形をした指示だった。


「同じ調子って、どういう意味ですか」


問いを置いた。


百合さんは立ち上がり、鍋に水を張った。


「昨日と同じように、今日を書くということです」


「昨日と違うことがあっても?」


「違うことが本当に違うことなのか、夜のうちには分からないでしょう」


その言い方は穏やかだった。


朝になれば、家族が意味を決める。


夜に見た私の目は、その前段階にされる。


「同じ調子で終わると、何が進むんですか」


もう一度、同じ場所を突いた。


百合さんは、一度だけ口を開いた。


でも、すぐに閉じた。


「母の今後です」


「施設入所ですか」


「それも含めて」


「後見の手続きですか」


後見、と出すと、百合さんの目が動いた。


「母は、自分では決められません」


百合さんは言った。


「けれど、何かを決めようとすると、急に昔のことを持ち出す。人の名前を出す。書かせる。止める。家族が悪いように見える形にする」


「実際に、悪いことはないんですか」


「あります」


即答だった。


返す言葉が切れた。


百合さんは、自分の即答に疲れたような顔をした。


「ありますよ。家族ですから。優しくできない日も、早く終わってほしいと思う日もある」


台所の窓から、庭が見える。


白い砂利。


水を撒かれていない朝の庭。


「でも、殺したいわけじゃない」


声が、そこだけ低くなった。


タブレットを握る指に力が入った。


まだ誰も、殺すという言葉を出していなかった。


水切りかごは、もう鳴らなかった。


百合さんは味噌汁の鍋に火をつけ、出汁の袋を沈めて、豆腐を手のひらの上で切っていく。包丁の動きには、迷いがなかった。鍋の前を離れる時、献立表のめくれた角を、指で一度押さえた。


「真柴さん、朝ごはん、食べていってください」


「いえ」


「食べないと、判断を間違えます」


彼女は背中を向けたまま言った。


「私たちは、もう何度も間違えています」


鍋の底で、味噌がゆっくり溶けていく。


百合さんは椀を二つ出した。


縁の欠けたほうを、自分の前に置いた。


お玉が二度、鍋の縁を叩いた。


タブレットが震えた。


家族確認済


朝の会話は、どの記録にも入らない。


それでも、私の中に残った。


私は味噌汁を半分だけ飲んだ。


温かいものが胃に入ると、判断が遅れる。


「今夜もお願いします」


私は、返事をしなかった。


空になっていない椀が、先に下げられた。


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