第16話 夜間記録料、十万円
領収書は、仏壇の引き出しではなく、台所の棚から出てきた。
五日目の昼。
私は初めて、昼の千代さんを見た。
「真柴さん、先に食べさせてあげてくれますか」
百合さんが盆を差し出した。粥の椀と、とろみをつけた茶。
私はベッドの背を三十度に上げ、千代さんの顎の下にタオルを当てた。
「千代さん、お昼です」
目は開いている。
でも、窓の光のほうを向いたまま、なかなかこちらへ来ない。
三つ数えるほど待って、やっと目が動いた。
「夜の人」
「はい。今日は昼にいます」
匙は下から。
先に匙の腹を下唇に当てて、口が開くのを待つ。
粥は一匙を半分ずつ。
飲み込むたび、喉が上がるのを目で確かめる。
粥の脇に、刻んだ梅が少しのせてあった。
梅を匙の先にのせて近づけると、千代さんは唇を結んで、顔をそむけた。
「酸っぱいのは、嫌い」
私は梅を椀の縁へ寄せて、粥だけをすくい直した。
五匙目で、口が止まった。
千代さんは匙を見たまま、動かなくなった。
昨夜、燃える、と言ったのと同じ口だった。
今は、匙の腹を当てても開かない。
「お茶にしますか」
返事の代わりに、まばたきが一つ。
同じ人の、別の時間だった。
膳を下げて台所へ戻り、食器棚へ椀を戻そうとした時、下の段からスプーンが一本、床へ落ちた。拾って戻すついでに棚板へ手を置くと、奥がわずかに下がっていて、物が奥へ滑る向きになっている。奥へ手を入れると、棚板と側板の隙間に、薄い紙束が挟まっていた。古い家では棚の隙間に何かが落ちることは珍しくないから、そのまま拾った。
茶色く変色した紙。
縁だけが、濃く焼けている。
複写式の領収書だった。
綴りから切り離した、控えのほう。
ミシン目が波打っている。
領収書(控)
宛名。
鷺宮様
金額。
一〇〇、〇〇〇円
但し書き。
夜間記録料として
日付は、三か月前。
発行者の欄に、東綾子。
私は紙を持ったまま動けなかった。
綾子は妹。
綾子は写真。
綾子は昔の名前。
そして、綾子は十万円を受け取っている。
もう一つ、おかしい。
控えは、お金を受け取った側が手元に残す紙だ。
それが、払った側の家の棚にある。
字を見た。
数字の頭が揃っている。
線の細い、丁寧な字。
どの字も、わずかに右へ傾いていた。
冷蔵庫の横の献立表と、同じ癖の字だった。
発行者の欄に、判は押されていない。
「真柴さん」
百合さんの声が、すぐ後ろでした。
私は振り返った。
彼女はスプーンを見て、それから私の手元を見た。
「古いものです」
「夜間記録料、とあります」
「母が個人的にお願いしていた時期があって」
「東綾子さんに?」
「ええ」
「控えですよね。受け取った方が持つ側の」
「整理していないだけです」
百合さんは、領収書を受け取ろうと手を出した。
私は渡さなかった。
「妹さんは、ずいぶん前に亡くなったと」
「同姓同名です」
すぐに答えた。
「その方が前任者ですか」
百合さんは、目を伏せた。
「真柴さん。お金のやり取りの紙を、他人に持たれるのは困ります」
「記録のために写真を」
「やめてください」
初めて、百合さんが強い声を出した。
台所の奥で、鍋が小さく鳴った。
私は領収書をテーブルに置いた。
置いた瞬間、タブレットが震えた。
家族メモ
台所棚整理中。古紙確認。
まだ誰も入力していないはずだった。
百合さんは画面を見なかった。
見ないまま言った。
「母の周りには、昔からいろんな人が寄ってきました。お金を受け取って、親切な顔をする人が」
その言葉は、私にも刺さった。
「私は仕事として来ています」
「ええ。だからお願いしています」
百合さんは領収書を折り、封筒に入れた。
「仕事として、十日だけ」
私はタブレットを見た。
家族メモの下に、候補が出ている。
金銭書類は業務外
その候補を、誰が作ったのかはもう考えなかった。
千代さんの部屋から、呼び出し音が鳴った。鳥の声。
百合さんは封筒をエプロンのポケットに入れた。
「真柴さん、母をお願いします」
千代さんの部屋へ行くと、彼女は起きていた。
目が、昼食の時より起きていた。
「見たの」
「領収書を」
千代さんは、小さくうなずいた。
「返して」
「お金をですか」
「名前」
また、名前。
私は聞いた。
「東綾子さんは、誰ですか」
千代さんは、私の目を見た。
「書いた人」
その一言だけで、領収書の但し書きが別の意味になった。
「夜間記録料は、書いた人へのお金ですか」
千代さんは、まばたきをした。
「書かないため」
「書かないために払ったんですか」
「違う」
千代さんの眉が、わずかに寄った。
千代さんは次の言葉を探し、眉間の皺を深くした。
「書いたことにするため」
廊下で、床が鳴った。
百合さんが立っていた。
「お母さん、もうその話は終わり」
終わり。
百合さんがその言葉を使う時、何かが閉じられる。
「東綾子さんは、実在する方ですか」
私は聞いた。
百合さんは、部屋へ入らなかった。
「実在しない人に領収書は切れません」
「今はどこに」
「知りません」
「連絡先は」
「知りません」
同じ速さで、二度。
タブレットが震えた。
家族メモ
金銭書類の詮索あり。業務範囲外。
私は画面を見せた。
「詮索、と入っています」
百合さんは困ったように笑った。
「言葉が強いですね。律に直させます」
直す。
消すのではなく、直す。
この家では、言葉は事実より直しやすい。
夜の記録欄には、もう候補が出ていた。
金銭関係の発言あり
本人混乱あり
家族へ確認済
私は、東綾子の領収書を見た、と打とうとした。
入力欄は動く。打てる。
でも保存前の変換でどうなるか、もう分かっている。
千代さんが、私の手を見た。
「書くの」
「書きます」
「取られる」
「それでも」
私は打った。
台所棚より東綾子名義の領収書控えを確認。夜間記録料として十万円。
保存ボタンは押さなかった。
画面を写真に撮るため、スマホを出す。
その瞬間、百合さんが言った。
「真柴さんのお母様、施設にいらっしゃるんですよね」
指が止まった。
「母は関係ありません」
「関係あります。介護する家族の話ですから」
その声は優しかった。
私はスマホを下ろした。
写真は撮れなかった。
でも、見たものを消す必要はない。
客間へ戻ってから、私はメモアプリを開いた。
宛先は入れない。
送らない。
ただ、見た順番で打つ。
台所棚。
領収書、控え。
発行者、東綾子。
宛名、鷺宮様。
一〇〇、〇〇〇円。
夜間記録料として。
日付、三か月前。
字は、献立表と同じ。
保存する前に、文章を読み返した。
説明は入れない。
気持ちの言葉も入れない。
事実だけにすると、かえって紙の薄さが戻ってくる。
私はファイル名を、領収書ではなく、五日目、とした。
領収書と書けば、見つかった時にすぐ意味を持つ。
五日目なら、私にしか分からない。
分かる人間が一人でも残ればいい。
佐伯さんへ送るか迷った。
宛先を入れれば、外へ出る。
でも、領収書には東綾子の名前と金額がある。
個人情報。業務外。
百合さんが言った言葉が、先に立つ。
私は送信しなかった。
代わりに、メモの末尾へ一語だけ足した。
未送信。




