百合の湯呑み
千代さんのコップは分かった。
薄い樹脂で、倒しても割れない。左側へ置く。水を多く入れると、自分で残す量を決められないから嫌がる。
「事件のあとに動かされた可能性もあります。あなたが最後に見た時の位置だけ教えてください」
三浦に付き添われ、数週ぶりに鷺宮家へ入った。現場の追加確認が必要な部分だけ、私は入口から指した。寝室の床頭台、服薬の盆があった場所、百合が立った側、私が膝をついた位置。
家には誰も住んでいなかった。百合と冬彦はそれぞれ別に聴取が続き、律も家を離れている。食卓の椅子は壁へ寄せられ、冷蔵庫の電源だけが低く鳴っていた。
台所の写真を見せられた。
流しの水切り籠に、湯呑みが三つ伏せてある。白い物と、青い線の物と、持ち手のある物。事件の夜に撮られた写真だった。
「誰がどれを使っていましたか」
「冬彦さんは、青い線です。律さんは、たぶん持ち手のある物」
「百合さんは」
私は写真へ顔を近づけた。
百合の欠けた味噌汁椀なら分かる。欠けを唇から遠ざけて使い、漏れないから替えないと言った。けれど、茶を飲んでいた湯呑みがどれだったか、思い出せなかった。
「分かりません」
「一度も見ていない?」
「二つ並んでいた夜はあります。どちらを百合さんが使ったかまでは」
三浦は空いた欄へ、不明、と書いた。
十日いた家で、私は百合の椀を知っていた。眠れていない目も、人参を五ミリに切る手も見た。それだけで、百合という人を分かったつもりになっていた。
「千代さんの服薬に使ったのは、この樹脂のコップで合っていますか」
「形は同じです。現物が同じかは分かりません」
三浦は「同一物か不明」と写真番号の横へ記し、現場確認を終えた。
*
医学資料の説明には、病院側の担当者も加わった。三浦は私の供述と照合する部分だけだと断り、担当者は救急記録、搬送先の所見、外部主治医・薬剤師の指示書の順に経過をたどった。
「拒否やむせがあれば、無理に続けない」
担当医の指は、家族にも渡されていた一行で止まった。病院の所見は、拒否された薬を口へ入れた直後に咳が始まり、呼吸と応答が悪くなったという私の119通話と大きく外れていない。
「誤嚥を契機とした急性の呼吸状態悪化が、死亡へ至った中心と考えています」
表示のない包みに、その夜の外部指示はなかった。成分には覚醒や咳の力へ影響し得るものがあったが、どこまで死亡へ寄与したかは鑑定が続いている。
「冬彦さんが戻した薬は、死因なんですか」
「共有されない変更によって、主治医や薬剤師が危険を見直す機会は失われました。薬が死亡へどこまで寄与したかは鑑定中です。本人が拒否したのに口へ入れられた経過は確認できています」
三浦は会社端末の21:43発信記録を示した。呼吸が変わった直後に119は始まっており、冬彦の言葉で発信が数分遅れた記録はない。救急隊の入場や搬送を止めようとした行為は、その後の時系列に記載されていた。
百合は、右上腕を押さえ、顔をそむけた千代さんへ飲ませたことを認めていた。
「飲ませれば朝になると思った」
供述はその先で、翌朝の本人面談や家族ノート、百合が眠れなかった夜へ何頁も続いていた。担当医は頁を送らず、身体に起きたことを尋ねた箇所だけを開いたままにした。
「押さえた手を、千代さんが振りほどこうとしましたか」
三浦が聞いた。
「顔をそむけて、右腕を引きました」
私が答えると、三浦は私の言葉を復唱してから書いた。担当医はそのあいだ、発信時刻にも薬の包みにも手を伸ばさなかった。
百合の供述が閉じられたあとも、私は席を立てなかった。初夜に千代さんの言葉を薄くした私の聴取は、このあとに予定されていた。
「高梨朱音さんも、同じ原因だったんですか」
担当医は千代さんの資料を封筒へ戻した。
「高梨さんについては、ご遺族への説明前です。ここでは話せません」
その日、私が確認できたのは千代さんの医学資料までだった。
千代さんの封筒の角が、机の小さな傷へ引っかかった。担当医は中身を押さえず、封筒ごと少し持ち上げて外した。私はその手が戻るまで待った。
朱音のことを知ったのは、さらに一週間ほどあとだった。
ケアリンク東都の第三者調査委員会が、中間報告の公表部分を職員と元職員へ送った。朱音の遺族へ先に説明し、意向を確認したうえで、安全管理の検証に必要な経過だけを載せたと冒頭にある。
朱音は勤務を断った十一日後、自宅で亡くなっていた。当時の検査でも薬の成分は出ていたが、処方や受診後の連絡が十分につながらず、呼吸不全への寄与までは評価されていなかった。
採取時の番号と封印を保って残っていた物が、高梨朱音という本名と鷺宮診療所の受診がつながったあと、正式に得た診療・調剤・通信記録とともに再評価された。
薬の名も量も、公表部分にはない。冬彦が処方・提供した薬に関連する毒性が、朱音の呼吸不全へ寄与したという結論と、調査を続ける項目だけが記されていた。
「千代さんと同じだったんですか」
説明窓口の宮本は、中間報告の朱音に関する箇所を開いた。
「同じだとは書かれていません」
朱音は、自宅で起きた薬物毒性を伴う呼吸不全。
千代さんは、拒否を無視した内服直後の誤嚥と呼吸悪化。
意図して殺したという結論も、二人の死を一つの行為へまとめる文も、公表部分にはなかった。
再捜査の件名には、高梨朱音と印字されている。
東綾子ではない。
帰りに、最初の現場確認でもらった閲覧用の写真をもう一度見た。三つの湯呑みは、伏せたままだった。
どれが百合の物か、最後まで分からなかった。




