楽なほうを選んだ
「その端末には、もう触らないでください」
食卓へ置いた私の手を、警察官が声で止めた。
会社端末には、救急発信の画面が残っている。私はその下へ、拒否、家族実施、むせ、呼吸変化の順で追記しようとしていた。千代さんを救急隊へ渡したあとなら、書けると思った。
「事後の報告は、別の端末で作ります」
宮本が私の隣から手を伸ばし、端末には触れず、会社の資産番号を読み上げた。警察官は番号を紙へ写し、画面と端末の外側を撮った。
「この状態を会社側でも保全します。真柴さんの勤務は、さきほど終了しています」
「でも、私が見たことは」
「ここでは、口で伝えてください。私も聞いています」
書き足せば、少しは正確になる。そう思った手を膝へ戻した。
食卓の反対側では、律が家族用の端末を両手で持っていた。触ってはいない。画面には、私の署名が入った十枚目が開いたままだった。
警察官が、提出は任意だと説明した。
「この中には、母と叔父と僕の操作も入っています」
「分かっています。今、同意するかは自分で決めてください」
律は母のいる病院へ電話をかけようとして、番号を途中まで出したまま止めた。画面を消さずに、提出の紙へ署名する。端末が透明な袋へ入ると、彼は空いた両手を何度かこすった。
薬の盆は、別の人が扱った。空包、表示のない包み、外部主治医の指示書を、あった位置から順に確かめる。私は聞かれたことだけに答えた。百合がどの包みを持ったか。冬彦が何を渡したか。私がコップを盆へ戻したのはいつか。
「中身は」
「分かりません」
「何錠だったかは」
「数えていません。正式な指示にない物があると分かったところで、中止を求めました」
分からない、と言うたび、話が弱くなる気がした。それでも、見ていない物を補えば、その先は私の話ではなくなる。
三浦敬と名乗った捜査員は、寝室の入口で私を止めた。
「中へ入らず、見える所から教えてください。搬送前、コップはどこでしたか」
ベッドには、枕と、左側へ寄せた薄い掛け布団が残っていた。床頭台の左端に、千代さんが自分で戻した樹脂のコップがある。水は少し減っている。
「左です。右へ置くと嫌がりました」
「今夜、本人が自分で飲んだ水ですか」
「服薬の前に一口。そのあとは百合さんが持った水です。同じコップかは、近くで見ないと分かりません」
三浦は、どちらの水かを一つにしなかった。紙に二行書き、入口の写真を撮る。
窓の外が白くなるより前に、病院から連絡が入った。
電話を受けた警察官が、三浦を廊下へ呼んだ。二人は声を落として話し、三浦だけが戻ってきた。
「ご家族への連絡が済みました。鷺宮千代さんは、搬送先で亡くなられました」
私は左側のコップを見た。
「死因について、今ここで言えることはありません。お話を続けられますか」
続けられるかどうかを、誰かに決めてもらいたかった。
「続けます」
会社端末の資産番号を読み上げた時より、声が小さかった。
*
警察署の面談室には、窓がなかった。
任意で話を聞くこと、途中で休めること、必要なら帰る意思を伝えられることを、三浦は最初に説明した。宮本は別の部屋にいる。私たちの話をそろえないためだという。
机に置かれたのは、家族ノートの十枚目を撮った写真だった。
服薬済み。夜間状態変化なし。
その下に、真柴由依の署名がある。
「この字は、あなたの字ですか」
「会社へ登録した署名画像です。家族連絡に協力する確認書から、律さんが抜いたと聞きました。この本文を確認していません」
「昨夜、家族ノートへ何か入力しましたか」
「一字も」
三浦は、会社端末の緊急発信へ話を移した。
会社端末の緊急発信。21:43。発信位置は鷺宮家。宮本が作った安全計画には、指示外の薬と救急妨害を撤退条件にする、とある。宮本自身が、私の通話と百合の妨害を見ている。
「呼吸が変わってから、この発信まで、あなたがしたことをもう一度」
口へ何も足さないようにした。名前を呼んだ。胸の動きと返事を見た。冬彦は待つよう言った。私は記録欄ではなく緊急ボタンを押した。
三浦は、発信が早かったとも、正しかったとも言わなかった。会社の時刻を確認してから、私の答えを一字ずつ書いた。
「初めてこの家へ入った夜は、どうでしたか」
十夜目だけを話せば、私は通報した人でいられる。その質問は、一枚目へ戻った。
「千代さんが、『前の人の名前を返して』と言いました」
「会社記録には」
「人物の取り違えについて家族から説明あり、と書きました」
「本人の言葉を変えた?」
「消して、家族の説明へ寄せました」
「なぜですか」
白い封筒を受け取ったのは、そのあとだった。けれど、消した時にはもう、一夜十万円が母の支払いへ届くと知っていた。
「家族の説明のほうが、問題のない夜にできたからです。楽なほうを選びました」
三浦のペンは止まらなかった。
「百合さんから、会社を通さない十万円を受け取りましたね」
「はい」
「いつ申告しましたか」
「昨日です。受け取ってから、それまで言いませんでした。母の施設費に使いました」
「署名が違うことに気づいたあとも?」
「言いませんでした」
発信時刻を答える声は出た。封筒の質問では、舌が上顎に貼りついた。それでも私は「はい」と言った。
扉が二度鳴り、中村が市の記録ファイルを抱えて入ってきた。朝の再訪に向かう途中で千代さんの死亡を知り、警察から過去相談の経過を求められたという。
「千代さんと一対一で話す約束でした」
中村は私ではなく、三浦へ言った。
「前の相談では、ご家族と離した確認ができていません。外部主治医への照会も完了していませんでした。今回の対応と一緒に、経過を提出します」
ファイルには、電話を途中で百合へ代わった日、家族同席で訪問した日、照会を始めた日が、日付順に記されていた。中村は、市が何を決めなかったかまで読んだ。
「昨夜、本人は家族を入れずに話したいと、あなたの前でも言いましたか」
「言いました。百合さんはなし、と二度」
「その言葉を、私の記録にも入れます」
中村は千代さんを助けられなかった理由を説明しなかった。三浦も慰めなかった。二人は、誰がいつ本人の言葉を聞いたかだけをそろえた。
休憩を勧められ、私は面談室の外へ出た。
廊下の椅子に宮本がいた。第十夜の勤務終了票には「休憩未取得」とあり、警察の指示で残った時間には開始時刻が記入されていた。
「九夜分の賃金は、そのまま支給します。昨夜の分は実績で計算します」
「今、金の話をするんですか」
「会社が支払う時間を、あなたに確認してもらうためです」
宮本は二つの時刻を読み上げ、私の返事を待った。
私は面談室へ戻った。
机には、署名のある十枚目がまだ置かれている。千代さんが亡くなっても、紙の文は状態変化なしのままだった。
「一枚目から、もう一度話します」
三浦は新しい紙を出した。偽の署名がある写真は、裏返さずに机の端へ移した。




